自立ということについて
私は、大学生時代に近所に住んでいたおじさんを月2、3回のペースで介護をしていて、そのときに自立ということについて考えたことを書いてみたいと思います。
そのおじさんは、“自立障害者”と呼ばれていました。普通のアパートに1人で住んでいたのですが、小さい頃脳性マヒになって、移動は車椅子ですし、食事やトイレ、お風呂などあらゆることに24時間介護が必要です。
じゃあどうして暮らしているかというと、1日を昼と夜の2コマに分けて1ヶ月を60コマにわけ、月に1回の介護者のミーティングで誰がそのコマに入るかを割り振って、誰かがいるようにするわけです。いわゆるボランティアというわけですが、当時も今もあまりそういう意識はありません。たまたま近所にそういう手助けの必要な人がいたので行っていたというだけですので。
2人で少し遠くに旅行へ行ったこともあります。普通の感覚で言うと、その人は自立しているとは言い難いようにも思えます。時々そういう介護をしながら、私なりに考えたのは、どういうことかと言うと、重度の身体障がい者の場合、誰にでも目に見える形で人の手助けが必要で、しかもそれが大変な事(?)なので、普通は施設に入って、集中的に管理された中で暮らしています。でも、健常者と言われる人は、誰の助けも必要としていないかというと、そんなことはない。悩みがあれば相談するし、重たい荷物があれば分け合って持っていくこともあります。一人で生きているわけではないので、肉体的にも精神的にも、表面的にはあまり見えない形で何かと助け合っています。言わばそれは当たり前のこと。それでも、私たちは自立していると言います。
身体に重い障がいがあったとしても、24時間誰か時間がある人が介護に入れば、普通のアパートに普通に暮らすことができるし、実際その人はそうしていた。それって、考えてみると、普通の人がアパートに暮らしているのと違わないのかもしれない。
だから、普通と変らないのだということをあえて言うために、“自立障害者”と言っていたのかな、と思ったりしたのです。
自立というと、何でも一人でできることだと安易に考えてしまいそうになります。社会が複雑になってきて、人と人とのつながりが見えにくくなっている今日において、そういう意味での自立をあまり声高に言うと、結果として、あまり人とかかわるな、と言っていることになってしまうのではないか、と気になります。
そのおじさんは、“自立障害者”と呼ばれていました。普通のアパートに1人で住んでいたのですが、小さい頃脳性マヒになって、移動は車椅子ですし、食事やトイレ、お風呂などあらゆることに24時間介護が必要です。
じゃあどうして暮らしているかというと、1日を昼と夜の2コマに分けて1ヶ月を60コマにわけ、月に1回の介護者のミーティングで誰がそのコマに入るかを割り振って、誰かがいるようにするわけです。いわゆるボランティアというわけですが、当時も今もあまりそういう意識はありません。たまたま近所にそういう手助けの必要な人がいたので行っていたというだけですので。
2人で少し遠くに旅行へ行ったこともあります。普通の感覚で言うと、その人は自立しているとは言い難いようにも思えます。時々そういう介護をしながら、私なりに考えたのは、どういうことかと言うと、重度の身体障がい者の場合、誰にでも目に見える形で人の手助けが必要で、しかもそれが大変な事(?)なので、普通は施設に入って、集中的に管理された中で暮らしています。でも、健常者と言われる人は、誰の助けも必要としていないかというと、そんなことはない。悩みがあれば相談するし、重たい荷物があれば分け合って持っていくこともあります。一人で生きているわけではないので、肉体的にも精神的にも、表面的にはあまり見えない形で何かと助け合っています。言わばそれは当たり前のこと。それでも、私たちは自立していると言います。
身体に重い障がいがあったとしても、24時間誰か時間がある人が介護に入れば、普通のアパートに普通に暮らすことができるし、実際その人はそうしていた。それって、考えてみると、普通の人がアパートに暮らしているのと違わないのかもしれない。
だから、普通と変らないのだということをあえて言うために、“自立障害者”と言っていたのかな、と思ったりしたのです。
自立というと、何でも一人でできることだと安易に考えてしまいそうになります。社会が複雑になってきて、人と人とのつながりが見えにくくなっている今日において、そういう意味での自立をあまり声高に言うと、結果として、あまり人とかかわるな、と言っていることになってしまうのではないか、と気になります。