2月の読むロバの会『ガダラの豚』で考えたこと−呪いについて−
江戸行きの報告はまだ少し続くのですが、昨日ヒマールであった読書会で考えたことについて少し。
課題図書は中島らもさんの『ガダラの豚』。中島さんの本は初めて読んだのですが、とても面白く、3冊もあったのに、前日になんとか読み切りました。
読書会でもいろいろな感想が出てなかなか面白かったです。その中身についてというより、参加者と話しているうちに、思わず、考えがまとまったというか、進んでしまったことについて書いてみたいと思うのです。
私がこの本に感じたのは、すごくリアリティがあるということ。もちろんフィクションであり得ない部分もあるのですが、私たちは日常的にも、お互いに操ったり操られたりします。それは意図してだったり、意図しなかったり(意図しないほが多いかも)。それを少し強調して見せてくれているというという印象なのです。
だから、人を操ることとか、騙すこと、騙されること、恨むこと、呪うこと、祟ることとかについて、あらためて考えさせられました。
この本に出てくる新興宗教やアフリカの呪術師の中にはいい人もいるだろうし、悪い人もいるだろう。それは、もしかしたら、普通の人の場合と割合的には変わらないかもしれない。すごく感受性が豊かで感のいい人というのはいて、そういう能力にたけている人が一般には教祖や呪術師などになるのでしょう。そして、その人自身やそれを補佐する人が知恵者で、ちょっとしたトリックを加えることによってますます信憑性が高くなる。そのあたりから、怪しくなってくるというか、他人を操って誰かが得をするということになってきて困ったことになっていくわけです。
しかし、本来の呪いとかの役割は、もっと素朴なものなんですきっと。日常生活の中で、どうしようもないことというのは起こってしまいます。すぐにいい例が思いつかないので、つまらない例を出しますが、とても急いでいる用事があるときに、その途中でその用事ができなくなるようなケガをしてしまう。いろいろ原因は考えられるでしょう。単純に急いでいたからとか、前の日に吞みすぎてしまったとか、一昨日誰それとけんかしてしまったとか・・・。そういう説明がつく場合もあるだろうし、つかない場合もあるでしょう。しかし、どんな理論的な説明がついたとしても、ケガをしてしまったことや、本来できるはずのことができなかった、という恨みは気持ち(心)の中に残ります。それは気持ちの問題なので、理論的な説明は効きません。そこで、呪術の登場となります。この例の場合にはうまく当てはまらない気もしますが、それが、日ごろから仲の悪い誰それがねたんでいたのでその呪いがケガという形で現れたのだと。だから、それを解決するためには、その誰それの髪の毛をどこかに埋めてしまうことによって呪いが解けるのだと。そして、そういう具体的な行動を提案することによって、心のモヤモヤが少し軽くなるというか、心の持って行き場というか、落としどころが出来ることによって、少しは安心できる。ただ、行動に移すことによって、それをたまたま相手が知ってしまって、今度は相手の心が動揺したりして、そのやりとりが延々続いてしまったりすることもあるかもしれませんが、結局は、関係者の心が落ち着く落としどころを見つけていくことになるのでしょう。
そのやり方が、やはり、その国や地方によって違って、それが文化というものかもしれません(ある程度の共通認識があることによって、その共同体の中でこそ効力がある)。
ちょっと、話が変わってしまいます。
私はかねてから、何度か鑑賞しているものの、能というものがどうも面白そうで気にかかっているのに、理解できない。やたら幽霊とか、怨念とか出てくるし。いつかはわかるようになるのかしらんと、ときどき思い起こしているのですが、ちょっと理解できるようになったかも。
どうしようもない心残りなこととか、心のやり場のない不安とか、そいうったことを、ある程度の知識がある人なら知っている歴史上の事柄をとらえて、それがどうやって解決し(落とし込まれ)ていくかを、音と歌と所作によって最小限に表現し、追体験することによって、昇華していくものなのかも、と。
まったく的外れなのかもしれませんが。
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課題図書は中島らもさんの『ガダラの豚』。中島さんの本は初めて読んだのですが、とても面白く、3冊もあったのに、前日になんとか読み切りました。
読書会でもいろいろな感想が出てなかなか面白かったです。その中身についてというより、参加者と話しているうちに、思わず、考えがまとまったというか、進んでしまったことについて書いてみたいと思うのです。
私がこの本に感じたのは、すごくリアリティがあるということ。もちろんフィクションであり得ない部分もあるのですが、私たちは日常的にも、お互いに操ったり操られたりします。それは意図してだったり、意図しなかったり(意図しないほが多いかも)。それを少し強調して見せてくれているというという印象なのです。
だから、人を操ることとか、騙すこと、騙されること、恨むこと、呪うこと、祟ることとかについて、あらためて考えさせられました。
この本に出てくる新興宗教やアフリカの呪術師の中にはいい人もいるだろうし、悪い人もいるだろう。それは、もしかしたら、普通の人の場合と割合的には変わらないかもしれない。すごく感受性が豊かで感のいい人というのはいて、そういう能力にたけている人が一般には教祖や呪術師などになるのでしょう。そして、その人自身やそれを補佐する人が知恵者で、ちょっとしたトリックを加えることによってますます信憑性が高くなる。そのあたりから、怪しくなってくるというか、他人を操って誰かが得をするということになってきて困ったことになっていくわけです。
しかし、本来の呪いとかの役割は、もっと素朴なものなんですきっと。日常生活の中で、どうしようもないことというのは起こってしまいます。すぐにいい例が思いつかないので、つまらない例を出しますが、とても急いでいる用事があるときに、その途中でその用事ができなくなるようなケガをしてしまう。いろいろ原因は考えられるでしょう。単純に急いでいたからとか、前の日に吞みすぎてしまったとか、一昨日誰それとけんかしてしまったとか・・・。そういう説明がつく場合もあるだろうし、つかない場合もあるでしょう。しかし、どんな理論的な説明がついたとしても、ケガをしてしまったことや、本来できるはずのことができなかった、という恨みは気持ち(心)の中に残ります。それは気持ちの問題なので、理論的な説明は効きません。そこで、呪術の登場となります。この例の場合にはうまく当てはまらない気もしますが、それが、日ごろから仲の悪い誰それがねたんでいたのでその呪いがケガという形で現れたのだと。だから、それを解決するためには、その誰それの髪の毛をどこかに埋めてしまうことによって呪いが解けるのだと。そして、そういう具体的な行動を提案することによって、心のモヤモヤが少し軽くなるというか、心の持って行き場というか、落としどころが出来ることによって、少しは安心できる。ただ、行動に移すことによって、それをたまたま相手が知ってしまって、今度は相手の心が動揺したりして、そのやりとりが延々続いてしまったりすることもあるかもしれませんが、結局は、関係者の心が落ち着く落としどころを見つけていくことになるのでしょう。
そのやり方が、やはり、その国や地方によって違って、それが文化というものかもしれません(ある程度の共通認識があることによって、その共同体の中でこそ効力がある)。
ちょっと、話が変わってしまいます。
私はかねてから、何度か鑑賞しているものの、能というものがどうも面白そうで気にかかっているのに、理解できない。やたら幽霊とか、怨念とか出てくるし。いつかはわかるようになるのかしらんと、ときどき思い起こしているのですが、ちょっと理解できるようになったかも。
どうしようもない心残りなこととか、心のやり場のない不安とか、そいうったことを、ある程度の知識がある人なら知っている歴史上の事柄をとらえて、それがどうやって解決し(落とし込まれ)ていくかを、音と歌と所作によって最小限に表現し、追体験することによって、昇華していくものなのかも、と。
まったく的外れなのかもしれませんが。
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