『原発ゼロで日本経済は再生する』
『原発ゼロで日本経済は再生する』(吉原毅著、角川oneテーマ21、2014年)
痛快な本です。
最近の風潮として、右にならえになってしまって、思っていることがなかなか言えなかったりします。
脱原発に多くの人が共感しているという調査結果が出ているにもかかわらず、大手のマスコミでは、電力会社が大口の広告主になっていることや、自主規制が重なってそういった話題があまり大きく取り上げられることがありません。
しかし、身近で自分のできる範囲で声を上げることはできるはずで、それを城南信用金庫の理事長である吉原毅さんは、そのことを事業所として実直にやっているだけなのかもしれません。
まず、脱原発のために、ソーラーパネルやLED照明を取り入れるなどして率先して節電に取り組み、2000年から規制緩和で大口電力需要家は既存の電力会社ではない「新電力」からも電力を買えるようになっていることを知ると、事故の責任の取り方の曖昧な東京電力との契約を打ち切ったりもしています(ちなみに、霞ヶ関ではほとんどの省庁は、東日本大震災以前から、実は安上がりな「新電力」に切り替えているようです)。
また、大量の電気を消費する町工場などからもしかしたら反発を受けるかもしれないと思いながらも、「原発に頼らない安心できる社会へ」というポスターやパンフレットを取引先の企業に渡したところ、反発を受けないばかりか、取引先の製造業の経営者が中心となって設立されている親睦会から「自分たちも原発のない社会の実現に貢献したい。そのために、自分たちの力を結集させて節電に役立つ商品を共同で開発したい」という申し出があり、ブレーカーに接続するだけで使用電力を測定でき、契約アンペアをオーバーすると警告音で電気の使いすぎを知らせる家庭用電流報知機を開発したりという動きに繋がったりもしています。
そして、声を上げるだけではなくて、実際に信用金庫という本来業務の中で原発ゼロのための具体的な取り組みをしているところが素晴らしい。
ソーラーパネル、蓄電池、自家用発電機、LED照明など節電のための最大300万円の個人向けローンを、最初の1年間は金利ゼロ、2年目以降は1パーセントとしたり、省エネルギーのために1.0万円以上の設備投資を行った個人に対して、通常は0.03パーセントの1年もののスーパー定期預金(1世帯最大100万円)の金利を1パーセントにするなどの商品も作り出しているのです。
私自身は信用金庫というのは変な名前だなあ、というくらいの認識だったのですが、生活協同組合と同じような起源を持つ非営利団体であり、その名前にもこだわりがあることがわかって、前から気にかかっていた、金融機関の役割というものを考えるヒントにもなりました。
追記:ちょっと、話がそれてしまうのですが、常々思うのは、「妥協すること」と「あきらめること」は別々のことであるということです。
社会生活をしていく上でいろいろな場面では、妥協することが多いものです。相手があることがほとんどですから、自分がよっぽど力を持っていたり、人を説得する特別な能力があれば別ですが、そういうこともなかなかないので、それは致し方ないことです。
そして、理想に燃えている人ほど、「妥協すること」に対して自責の念にとらわれて、結果として、何をしても無駄だから「あきらめ」てしまって、かえって従順な人になってしまい、陰でボソボソと文句を言うだけになってしまう人を見てきました。「妥協せざる得ない」ことのほうが圧倒的に多いので、心の健康的には、「あきらめる」ほうが楽な部分もあるとは思います。
しかし、「妥協」はしても、実は「あきらめる」必要はないわけで、「あきらめず」に待っていると、めったにないにしても、案外、自分の判断でできる場合や、機が熟して全体的にそういう方向になる場合というものがあるものなのです。
「あきらめ」ていると、その機会をみすみす逃してしまう可能性があるのに対して、「あきらめない」でいて、ちゃんと、心の棚にそのことを置いていたり、そのための準備をしていると、チャンスを生かすことができます。
特に若い人に、「妥協したのはあなたのせいではないのだから、あきらめる必要ないんだよ」と言ってあげたいし、機会があれば言うようにしています。
まあ、自分の妥協したくなかったこだわりが、必ずしも正当なものかどうかはわからないのですが。

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痛快な本です。
最近の風潮として、右にならえになってしまって、思っていることがなかなか言えなかったりします。
脱原発に多くの人が共感しているという調査結果が出ているにもかかわらず、大手のマスコミでは、電力会社が大口の広告主になっていることや、自主規制が重なってそういった話題があまり大きく取り上げられることがありません。
しかし、身近で自分のできる範囲で声を上げることはできるはずで、それを城南信用金庫の理事長である吉原毅さんは、そのことを事業所として実直にやっているだけなのかもしれません。
まず、脱原発のために、ソーラーパネルやLED照明を取り入れるなどして率先して節電に取り組み、2000年から規制緩和で大口電力需要家は既存の電力会社ではない「新電力」からも電力を買えるようになっていることを知ると、事故の責任の取り方の曖昧な東京電力との契約を打ち切ったりもしています(ちなみに、霞ヶ関ではほとんどの省庁は、東日本大震災以前から、実は安上がりな「新電力」に切り替えているようです)。
また、大量の電気を消費する町工場などからもしかしたら反発を受けるかもしれないと思いながらも、「原発に頼らない安心できる社会へ」というポスターやパンフレットを取引先の企業に渡したところ、反発を受けないばかりか、取引先の製造業の経営者が中心となって設立されている親睦会から「自分たちも原発のない社会の実現に貢献したい。そのために、自分たちの力を結集させて節電に役立つ商品を共同で開発したい」という申し出があり、ブレーカーに接続するだけで使用電力を測定でき、契約アンペアをオーバーすると警告音で電気の使いすぎを知らせる家庭用電流報知機を開発したりという動きに繋がったりもしています。
そして、声を上げるだけではなくて、実際に信用金庫という本来業務の中で原発ゼロのための具体的な取り組みをしているところが素晴らしい。
ソーラーパネル、蓄電池、自家用発電機、LED照明など節電のための最大300万円の個人向けローンを、最初の1年間は金利ゼロ、2年目以降は1パーセントとしたり、省エネルギーのために1.0万円以上の設備投資を行った個人に対して、通常は0.03パーセントの1年もののスーパー定期預金(1世帯最大100万円)の金利を1パーセントにするなどの商品も作り出しているのです。
私自身は信用金庫というのは変な名前だなあ、というくらいの認識だったのですが、生活協同組合と同じような起源を持つ非営利団体であり、その名前にもこだわりがあることがわかって、前から気にかかっていた、金融機関の役割というものを考えるヒントにもなりました。
追記:ちょっと、話がそれてしまうのですが、常々思うのは、「妥協すること」と「あきらめること」は別々のことであるということです。
社会生活をしていく上でいろいろな場面では、妥協することが多いものです。相手があることがほとんどですから、自分がよっぽど力を持っていたり、人を説得する特別な能力があれば別ですが、そういうこともなかなかないので、それは致し方ないことです。
そして、理想に燃えている人ほど、「妥協すること」に対して自責の念にとらわれて、結果として、何をしても無駄だから「あきらめ」てしまって、かえって従順な人になってしまい、陰でボソボソと文句を言うだけになってしまう人を見てきました。「妥協せざる得ない」ことのほうが圧倒的に多いので、心の健康的には、「あきらめる」ほうが楽な部分もあるとは思います。
しかし、「妥協」はしても、実は「あきらめる」必要はないわけで、「あきらめず」に待っていると、めったにないにしても、案外、自分の判断でできる場合や、機が熟して全体的にそういう方向になる場合というものがあるものなのです。
「あきらめ」ていると、その機会をみすみす逃してしまう可能性があるのに対して、「あきらめない」でいて、ちゃんと、心の棚にそのことを置いていたり、そのための準備をしていると、チャンスを生かすことができます。
特に若い人に、「妥協したのはあなたのせいではないのだから、あきらめる必要ないんだよ」と言ってあげたいし、機会があれば言うようにしています。
まあ、自分の妥協したくなかったこだわりが、必ずしも正当なものかどうかはわからないのですが。

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