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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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内田樹さんの身体に関する言葉

[2014年07月20日(Sun)]
身体感覚の重要性に関しては、主に20代から取り組んでいる合気道を通して語る内田樹さんの最新著書?『日本の身体』に関するインタビュー記事が、今日の中国新聞に載っていました。

ちなみにこの本は、固有の身体の動きを伴う漫画、茶の湯、文楽、ラグビー、大相撲、マタギなどの達人12人と身体運用について語り合う対話集のようで、読んでみたい本です。

この小さなインタビュー記事で相変わらず、気になる言葉を投げかけてきます。

最後の2段を抜粋させてください。

経済成長を最重要の目標に突き進み、一部の人や企業に権力や財貨が集中する今の日本を「国民国家の株式会社化だ」と批判する。一方、一極集中の東京を脱出する動きや、再生可能エネルギーの活用など、新しい日本の生活モデルをつくろうとする動きに希望を見る。
 「全能観を持って、スピードや効率を優先する人たちは、ものを壊す側に回ってしまう。壊すのは一瞬で、誰にもできる。しかし時間をかけてものをつくることは、生身の体にしかできません。そのパフォーマンスを最大にする日本固有の身体技法を、大事にしていきたい」


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緑内障について03(弱者の立場に立ってみる)

[2014年05月30日(Fri)]
昨年(2013年)6月の人間ドックで、緑内障の疑いありとの所見が出て、12月(半年放置)に眼科に行き、何段階かの検査を受けて緑内障が確定。今年(2014年)3月から眼圧を下げる点眼を続けていることはこれまでも書いてきました。

眼圧を下げるといことは、目力(めぢから)を低下させることになっているように感じること、そのことについての考察についても書きました。

目の力が弱まるということは、これまで感じていなかったことにも敏感になるということで、必ずしも悪いことばかりではないように思います。

例えば、私は通勤に基本は自動車を使うわけですが、最初山道を通って、だんだん街に近づき、最終的に短いトンネルと通ると街に出てくるという道順で、これまでほとんど意識していなかったのに、最近は、トンネルを超えると途端に眩しく感じます。それで、あまりひどいと度入りのサングラスに掛け替えるたりします。

人工物の多い街というのが、どれだけ光を反射して明るい状態になっているかというのをこれまで考えたこともありませんでした(逆に、緑の多い場所は目にやさしいのですね)。

で、眼圧を下げる点眼をはじめて3ヶ月近くになるので、お休みをもらって眼科へ行ってきました。

先生の診察を受ける前に、眼圧や視力など基礎的な検査を受けるわけですが、その時、看護士の人に、目がいつもしょぼしょぼすることや、これまで以上に眩しくなったこと、さらには、先週と今週、微熱と軽い頭痛が伴い、やたら喉が渇いて水分をたくさんとって小便がたくさん出る風邪にかかり、薬を基本的に飲まない私にとって、点眼が強く作用してそうなったのかもしれない(あくまでかもしれない)ということを話させてもらいました。

瞳孔を拡げる点眼をして20分くらいして、先生の診察の時、先生はいつも言葉は少ないのですが、事前に看護士に話したことが十分に先生に伝わっていることがわかるような対応で、眼底の検査に加えて、目の表面が薬によるダメージを受けていないかの検査をしてくれて、眼圧は下がっていて緑内障にとっていい状態であること、目の表面が少し乾き気味であること、眼底の状況は変わっていない(悪化していない)こと、これまでの点眼とほぼ同等の効果が期待でき、より刺激の少ないものに変えてみようということにしてくれました(看護士と先生が直接話をする余裕はないと思われるので、問診結果を文書で伝えているのだと思います)。

緑内障は気の長い病気なので、私もすぐに改善は期待していないのですが、疑問に思ったことを看護士に話すと、ちゃんとそれなりの対応をしてもらえて、今かかっている病院に対して、またまた、印象が良くなったのでした。

朝7時に順番を取りに行って、一旦家に帰って公共交通機関で病院へ行き、運が悪いと診察してもらえるのが昼近くになり、さらに瞳孔を拡げる検査をするために車の運転もできず、ほぼ1日が潰れてしまうという面倒がありながらも、仕方ないか、と思える対応なのです。

追記:車の運転ができないのも、たまになら案外いい経験になります。電車やバスを乗り継いでみると、もちろん車で動く手軽さはないものの、思った以上に便利で、自分で運転するのではないので、リラックスして外の景色や音を楽しむことができます。日常的にももっと、時間の余裕を持って、公共交通機関を利用したほうがいいのではないか、と思えできます。

私も、もうお年寄り予備軍ですから、車を運転できないお年寄りの気持ちにもたまにはならないとね。

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風邪が世界を救う(かも知れない)

[2014年05月23日(Fri)]
長くて、大風呂敷な話(話半分に聞いてください)。

一昨日、久々に風邪をひいてみて、あらためて考えたことを書いてみたいと思います。

なお、風邪にかかりやすい人もいるでしょうし、重篤な合併症を発症してしまう場合もありますので、経過をちゃんと見て、必要であると感じたら速やかに病院へ行くことをオススメします。くれぐれも、病院へ行かないことの勧めではないことをお断りしておきます。

考えてみると、私が意識して風邪のことを考え始めたのは、今から30年以上も前になる高校生の頃です。

当時、風邪の治し方を発見したらノーベル賞をもらえる、という話がありました(光合成の仕組みを解明して人工的に澱粉が合成できるようになったらノーベル賞がもらえる、という話と同時に)。

当時も今も、私は自分がノーベル賞をもらえるような人になるとは思っていなかったので、ノーベル賞がもらえる部分には関心がなかったのですが、それより、最も身近な病気である風邪というものが解明されていないということが不思議で面白いなと感じたものです(光合成の話も面白いなと思いましたが、今では、謎の解明としては興味深いものの、自分ではたけをやっていて、光と水で澱粉を合成できるという効率の良い仕組みをせっかく生命が生み出したのだから、それを活用するはたけを楽しむだけでいいじゃん、と思います)。

以来というか、それ以前の子どもの頃風邪にどう対処していたかというのはあまり覚えていないということもありますが、風邪というのは必ず治るわけだし、治し方も解明されていないわけだから医者に行っても仕方ないと思い、風邪で病院へ行ったことはありません(正確に言うと、20年以上前くらいに一度、40℃近い熱が1週間近く続いた時には近くの病院へ行きました。しかし、その時も結局朝点滴をして熱が下がるのですが、その後徐々に熱が上がり40℃近くまで上がっていて、一旦少し楽になってからだんだん熱が上がって行くときのほうが気持ち悪かったので、いかなかったほうが良かったと思う)し、風邪薬というものを飲んだこともありません。

その後、野口整体というものに出会う機会があり、名著と言われる『風邪の効用』を読むに至って、我が意を得たりという気持ちになったものです。

この本は、1962年に刊行されていますが、2003年にちくま文庫として若干編集し直して復刻されていて、手軽に読めるのでオススメです。

1405風邪の効用.JPG

この本の裏表紙に書かれている文章を引用します。

風邪は自然の健康法である。風邪は治すべきものではない、経過するものであると主張する著者は、自然な経過を乱しさえしなければ、風邪をひいた後は、あたかも蛇が脱皮するように新鮮な体になると説く。本書は、「闘病」という言葉に象徴される時代の病気に対する考え方を一変させる。風邪を通して、人間の心や生き方を見つめた野口晴哉の名著。

ちなみに、野口整体については、同じちくま文庫で『整体入門』というのが復刻されています。非常に示唆の多い考え方だと思いますので、興味のある方はどうぞ。

1405整体入門.JPG

ちょっと話がずれましたが、本題に移る前段として必要だったのでご勘弁を。

で、風邪というものは、人間の体が、自分の体の不具合を調整するために、(自発的にかどうかは別にして)周りに常にいる風邪を引き起こす細菌を体に招き入れて、体内の水分の循環を早めて新陳代謝を通常より早めて通常の代謝では排出しきれないものを発汗や鼻水、下痢、嘔吐、小便などとして出し、体をリニューアルすることだと思っていて、たまにかかる程度なら風邪はむしろ歓迎すべきものだと思っています。

今回さらに思ったのは、その体の不具合には大雑把に2種類あって(お互い絡み合っていて正確に2分できるわけではありませんが)、それは、「体の不具合」と「体と心の不具合」ということになります。体の不具合は文字通り、体を酷使して疲れているとかいうことになるわけです。そして体と心の不具合というのは、頭が働きすぎて体がついていけないという状態。

私の例でいくと、まさに一昨日の風邪。最近、頭が働きすぎて、眠ったかと思うと2、3時間後には目が覚めて眠れなくなってしまう。起きた時にはいいのですが、だんだん体はしんどくなって、夜になると倒れるように眠ってしまう。なのに、やはり2時、3時には目が覚めてしまう。という日々が続いていました。まさに、心と体のバランスが崩れている状態です。そこで、体も心も休めるために風邪になったというわけです。

違った例で言うと、自分の子どもで体験したのですが、子どもが小さい頃、やはり風邪で病院に行くことはなく、風邪薬も使わず、できるだけだれかが自宅で様子をしっかり見ながら経過させるようにしていました。その中で、風邪を経過したあとに、妙に大人びたなあ、ということが何度かありました。

今はもうあまり使われない言葉かもしれませんが、「知恵熱」という言葉があります。小さい子どもの頃は、体も心も急速に成長していきます。その時、心の成長が早すぎて、体がついていけないような状態が起こったときに、それを調整するために風邪をひくことがあって、そのことを昔の人は体験的によくわかっていて「知恵熱」という言葉で表現していたのではないかと思うのです。

本当に、たったの2、3日でびっくりするように、精神的に成長したなあ、と思うことが何度がありました。それも、風邪が邪悪な避けるべきものではなく、生まれ変わる契機であると思いながら接することができたから感じることができたのだとは思います。

やっと、本題にやってきました。

体という厄介(と感じている)な実体を持ちながら、外界を認識する神経から発達した脳という(思考のみを突き詰めていくことのできる)特殊な器官を発達させた人間は、ともすれば妄想して暴走する脳の行き過ぎを調整するために、同じ地球上に共生しながら暮らしている細菌の力を借りて、風邪という現象を起こしているのではないか(そういう意味では、風邪というのは、脳が発達した生物にしかない病気なのかもしれません。病気という名称はもはや適切ではないかもしれませんが)。

私が常に気にしている、体と心の問題、自然と都市の問題、自然と人間の共生、人工知能の問題など解決するモデルがこんな身近にあったとは。風邪を排除すべき、忌むべきものとしてとらえるのではなく、人間の体が太古から行ってきた、体と知能の調和を図るための調整機能であるという面をきちんと伝えることによって、もっと調和のとれた社会を目指すことができるのではないか。もちろん風邪は一例に過ぎませんが、非常に身近で実感できる例として活用できないか、考えていきたいと思います。

逆に、インターネットやコンピュータなどは、人間の脳の思考の部分だけを拡張させる機能を持っていて、実体を伴っていないから、容易に暴走するという面があるように思います。インターネットやコンピュータを実体を伴うとか、実体とうまくリンクさせるようにデザインすることによって、より適正な発展ができるように考えることはできないのか、ということも気になる点です。

と、言いながら、風邪が治った途端に早起きしてこんなことを考えるのにうつつをぬかしている愚かな私です。

追記:インフルエンザと風邪とは違うんだよ、という人がいますが、私は基本的には一緒だと思っています。感染力の強さがかなり違うというのは、もしかしたら、風邪を排除しすぎたせいで、変なところでウイルスが発達してしまったのではないか、と勘ぐっています(菌を排除しすぎた病院内で、抗生物質耐性菌が流行るように)。

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風邪でお休みしました

[2014年05月22日(Thu)]
食事中の人は読まないでください。

昨日は、久々(記憶にないので少なくとも2年以上ぶり)に風邪で仕事を休みました。

今回の風邪は少し不思議な風邪で、軽い頭痛と微熱(37℃くらい)が続き、昼間中ずっと喉が渇いた(飲んでも飲んでも乾きがおさまらない感じ)ので水やお茶やアクエリアスなど3リットル以上を飲み続け、その間頻繁に(多い時は10分間隔)で小便が生産され続けました(20回以上はトイレに行った)。

いわゆる脱水症状ということになるのでしょうが、脱水症状というと下痢などが伴うイメージなのに、大便の方はいつものように1日一回の普通のものだったのです。

つまり、体内の新陳代謝を活発にして水分を循環させて何か悪いものを排出したかったのでしょう。何を出したかったのかは不明です(最近になって体に取り入れている化学物質問といえば、緑内障に関して眼圧を下げるための点眼くらいです)。しかし、風邪をひいた時に、そういうことを考えるのは好きです。

以前にも書きましたが、風邪というのは、基本的には、体の調整をするために、体が(自発的にかどうかは別にして)細菌を取り入れて何かを排出したり、体を無理にでも休ませたり、するものだと思っています(でないと、風邪の原因になる細菌は世の中に常に溢れているのに、風邪にかかったりかからなかったりする理由が説明できない)。

なので、風邪をひいたらできるだけ安静にして、「ああ、最近忙しかったなあ」とかいったことを考えながら、「今、体がリニューアルしてるんだな」ということを実感するのが正しいあり方だと思っています。

ここ数ヶ月で久しぶりに長時間寝たので、大分体が復活してきました。

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『おとなのかがく』と3Dプリンターと集団的自衛権と

[2014年05月14日(Wed)]
『おとなのかがく』(ドキュメンタリー映画、監督:忠地裕子、50分、2013年)

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現在、渋谷のユーロスペースで上映されているドキュメンタリー映画『おとなのかがく』を観てきました。

『大人の科学マガジン』の世界最高の“ふろく”をつくる人たちを追った作品。

風の力で動く巨大オブジェで知られるテオ・ヤンセンさんの作品を、動くミニチュア付録にする過程を、試作屋・永岡昌光さんを中心に描いています。
設計図を引いて、実際に試作品を作ってみると、想定していたこととは別の問題が生じて0.05o単位の補正を余儀なくされ、それを繰り返していくことによって試作品が作られていく。そして完成したものを設計図に再度起こしていく。

そこまででも大変なのに、今度はそれを量産製品にするために、中国の工場に設計図を送ってプラスチックの型枠を作成してもらい、製品ができたら、現地に赴いて製品を実際に組み立てる。すると量産品ならではの不具合が出て、その場で修正を指示して、現場で型枠を修正して製品を作り、完成させていく。

普段知ることのない現場合わせの緻密な作業が繰り広げられていきます。

つまり、設計と実装のせめぎあいが、いろんな人の手を経ることによって完成していくわけです。

こういうことは、現場に携わっている人にはわかっているものの、なかなか一般的にはならないのですよね。

日本では、永岡さんのような職人さんの仕事が、目に見えないコストのかかる部門として切り捨て(外注)られる一方で、中国では、そういう職人を育てる専門学校があって、職人が育てられている。

中国の工場で永岡さんが、何点かの修正を出すと、すぐに型枠を修正して製品を作ってくれるという場面があって、永岡さんが、「これだけの修正をお願いすれば、普通は1日半はかかるのに、ここでは1時間半でやるんです。さらには、ここはこうしたらいいのでは、という提案もしてくれて、それが自分の思いと一致したりすることもあって、よくやってくれたという思いになる」といってるところが心に残りました。

永岡さんの、「でも、日本の企業が悪いんじゃないんです。国が悪い」と言っている場面も印象的です。それ以上のことは語られていませんでしたが、推測するに、グローバル化の中で目に見える部分としてのコストカットばかりが要求されて、日本のものづくりの現場が空洞化していることを言っているのだと思いました。

最近話題になっている3Dプリンター。それ自体は面白いのですが、設計図さえあれば何でもできると勘違いしている人が多いのではないかと思いますが、実際に素晴らしいものを作ろうとすると、実はさまざまな人が、実物と関わりながら現場で工夫することによってものができているということをこの映画は教えてくれます。

5月3日から上映がはじまったところで、終演時期は決まっていないようですが、今しばらくはやっていると思います。

現場に置いてあった、実際の付録と、テオ・ヤンセンさんの風で動く巨大オブジェを紹介するビデオ。

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追記:ごく最近話題になった、人を殺傷する道具が3Dプリンターで作られたという話でいうと、あの道具自体は今となってはローテク製品であり、仕組み自体シンプルなもので、少しくらいの誤差があってもできるものなので、いわば3Dプリンターでできてしまうのは当たり前のことなのです。

それよりも問題なのは、犯人がその道具のことを「弱者を守るためには必要なものだ」と思っているということ。知り合いの話では、日本と関係の深い、そういった道具をつくる産業が国の基幹産業とも言える国が、何年も前から日本にそういった道具を売りたがっていて、まさに「弱者を守るための必要な道具」という理論で認知させようとしているという話があると言っていました。

犯人が、そういう話を知っていたり、関係者に説得されたかどうかは別にして(また、本人が意識するとせざるにかかわらず)、リンクしている話で少し心配です(その理論が破綻していることは、2002年にマイケル・ムーア監督によって制作されたドキュメンタリー映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』によって痛快に描かれているにもかかわらず)。

今話題になっている集団的自衛権の話でも、弱い国同士が、強い相手に対抗するために協力し合うというのなら、まだ少しは話がわかるのですが、圧倒的に強い力を持った国の傘下にある国が、集団的自衛権の話をするというのは、その権利を行使するためにいろいろと購入しないといけないものがあるだろうことを考えると、圧倒的に強い力を持った国のその分野の産業を支えるためなのではないか、というふうに思えてきて心配です。

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緑内障について2

[2014年05月13日(Tue)]
人間ドックで緑内障が発覚(ついでに、白内障と網膜はく離も)したことを最近書きました。

その中で、まだ視野欠損が始まったばかりで、自覚症状がほとんどないこと、実際に行っていることといえば、緑内障進行の大きな要因として考えられている眼圧を下げるための点眼を1日1回しているだけだということも書いたと思います。

トラバタンズ.JPG

現状について思うことを書いてみたいと思います。

点眼をすることによって、眼圧が若干下がっているのだと思うのですが、全体的に目力(めぢから)が低下しているようで、いつもなんとなく目がしょぼしょぼします(しょぼしょぼするのはこのところの寝不足もありますが、明らかにそれだけではない)。昼間の明るい光がこれまで以上にとてもまぶしく感じます。また、元々、奥二重気味の目立ったのが、完全に二重になってしまいました。しかも、まつげの色が濃く、しかも若干長くなってきているようです(目だけ見るとかわいくなった!?)。まつげが濃く長くなっているのは、弱まっている目を守ろうとしているのでしょうか?

緑内障は、視野(見える範囲)がだんだん欠損していって、最悪は失明するというやっかいな病気です。

その病状が進行する大きな要因として考えられているのが、眼圧が高くなっているということ。そこで点眼で眼圧を下げようとするわけです。で、もとをたどれば眼圧が高いというのは近眼の人に多いらしく、つまりは、目を酷使する人が眼圧が高くなる?

ということは、緑内障というのは現代病なのかなと。

近年、インターネットなどの普及もあり、ビジュアルメディアの発展が目覚しいなかで、私たちは日々目を酷使しながら仕事や遊びをこなしています。それによって眼圧があがり、緑内障になって、最悪の場合は、ビジュアルメディアを見ることができなくなる。

ということは、もっと目を酷使しない生活をすればいい、ということになります。薄目をするくらいで、あまり注視しない。もしかしたら、それくらいの目の使い方のほうがいいのかもしせん。

だって、視力というのは、いろいろある感覚の中のたった一つの感覚なのですから、それだけに頼る必要はないのではないでしょうか?

ここまで書いて、一つの疑問が。

大昔の人は、野獣に食べられる危険に囲まれているわけですから、常に周りを注視してみていなくてはならなかったはず。獲物を捕まえるためにも、目を凝らすことが多かったはず。なら、大昔の人はもっと緑内障になって失明していた人が多かったはずなのに、あまりそういうことを聞いたことがありません。

それに対してとりあえず思いつく一つの答えは、昔は寿命が短く、目を酷使して緑内障になっても、寿命を迎えるまでにはまだ目が見えていたのではないかという考え方。

しかし、私は、別のことを考えます。

昔の人(もちろん全員が全員そうだったわけでなくて、全体としての傾向のことです)は、目だけで外界を把握していなかったのではないかということ。触覚、臭覚、聴覚、味覚、そして視覚(+第六感?)を総動員して、周りの変化をとらえ、対応していたのではないか。だから、現代はもっぱらビジュアル・メディアにさらされ、視覚という感覚を駆使するという偏った感覚の使い方をしているために、動物としての感覚が鈍いと感じる(物理的な危機管理能力に欠ける)人を結構見かけるのではないか。

ここまで書いてくると、つまりは、眼圧を下げる点眼などに頼らなくても、目を酷使しないようにして、他の感覚を使うように心がけることによって、緑内障の進行を抑えることができるのではないか、という仮説が生まれます。

ああ、でも、カメラが好きで、目を酷使することが趣味のような私などはどうすれば・・・。それは、自業自得なわけですから、せいぜい点眼を続けてみるしかないわけでしょうか。

でも、

ちょっと、気持ちだけでも、目をいたわってあげようと思う今日この頃です。

緑内障の人だけでなく、すべての人に通じるキャッチフレーズを思いつきましたので、最後に。

「視力以外の感覚でも、世界を感じるようにしよう!」


これって、私がテーマの一つとしている身体感覚に関係する話題です。

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『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』(暗闇の中での対話)

[2014年01月21日(Tue)]
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まっくらなスペースの中を、何人かのグループで、視覚障がい者のガイドに従って、いくつかのイベントを楽しみながら進んでいくワークショップ。

今となっては、何で知ったか忘れてしまったのですが、何年か前に知ったこの『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』に、先日江戸行きの用事があって、たまたま日程があったので参加してみました。

ドイツ生まれで、日本では1999年からイベント的に始められ、2009年からは江戸にあるビルの地階を借りて常設されるようになったようです。

ちなみに、その会場にこんな本も売っていましたので、事前に知ってみたい人は、読んでみるのもいいかもしれません。

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『まっくらな中での対話』(茂木健一郎withダイアログ・イン・ザ・ダーク著、講談社文庫、2011年)
脳科学者の茂木健一郎さんとダイアログ・イン・ザ・ダークの理事の志村季世恵さんらによる対談で、読みやすそうです(現在読んでいるところ)。

さてさて、感想です(事前に予備知識が欲しくない人は、ここからは読まないほうがいいかも。あまり詳しくは書きませんが)。

私が参加したのは5人のグループ(予約状況によって最大8人らしい)で、私以外の4人は、同じ職場の知り合い同士でした。

少し暗い部屋で、軽く自己紹介や注意事項などのオリエンテーション。そして、そこをさらに暗くして、いよいよまっくらな部屋へ。

季節によって体験内容を変えているようで、今回のものを一つだけ紹介すると、書初め。もちろん、全く何も見えない中で、硯に入った墨を使って、筆で色紙に書くのです。

暗闇の中で頼れるのは、自分の視覚以外の感覚。そして、ガイドと白い杖とグループのメンバー。

私はというと、暗闇に結構すぐ慣れることができて、何と表現したらいいのか、自分とそれ以外の環境の境がなくなった感じで、自由になれたような面白い感覚を味わうことができました(もともと暗闇が怖いというメンバーの1人は、最初怖かったそうです)。専用の場が設定してあるので、私はその場を信頼することができ、身を委ねることができたということはあるのだと思います(いきなり、ひとりで知らないところで視覚を奪われたらそうはいかないでしょう)。

手を伸ばすと、すぐ近くに隣の人がいたりするのに、黙っているとその気配はわからないものです。だから自然と声をかけあい、手助けしあいます。

床面の感覚や、皮膚の感覚、聞こえる音、味覚に対して敏感になります。

声をかけあって乾杯することもできます。

イベントをこなしているうちに過ぎたあっという間の1時間半で、個人的には、もう少し暗闇をじっくり味わいたかったなあという少し物足りない感がありました。

そのあたりが、バランスが難しいんだろうなあ。暗闇が怖い人にとっては、あまり時間的に余裕がありすぎてもいやかもしれないし。

知り合いにこのことを話したら、「田舎だったらどこにでも暗闇はあるんじゃない?」と言われてしまい、確かに、どんどん物理的には明るくなってきた都会にあってこそ、すごいコントラストを成すイベントなんだとは思います。しかし、最近では、田舎でも、本当の意味での暗闇は少なくなってきているし(田舎では月夜がとても明るいことは実感できますよ)、安心して暗闇を体験できていろいろ発見できる可能性があるというのは大きいのかな、と。

5000円というチケット料金は、高いという気もします。しかし、一度に体験できる人数が限られていて、しかも、ガイドをしている視覚障がいがある人の得意分野を生かした就業の場となっているということなどを考えると、大きなスポンサーなどが付かない限りは仕方ないかもしれません。

興味のある人は、ダイアログ・イン・ザ・ダークで検索すれば公式ホームページがでてきます。日程がわかったり、予約もできます(私も、インターネット予約をして近所のコンビニでチケット購入しました)。


クライミングウォール(山口県セミナーパークにて)

[2012年06月17日(Sun)]
先日、山口県の研修施設であるセミナーパークに寄る用事がありました。この施設、ちょっと田舎にあるのですが、広い敷地があり、グラウンドや体育館、テニスコート、簡単な農園、山口県のいろんな植物を植えてあってめぐることのできる場所、野鳥観察施設、クロスカントリーの大会を時々やっているほど立派な敷地を周回できる芝生のランニングコースなどがあって、官民を問わない研修(教員や福祉関係者専用の設備もある)、学生の勉強合宿やクラブの合宿など幅広く利用されています。

中でも私が前から気になっているのが、クライミングウォール。屋根もちゃんとついていて、全天候型です。

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今年度山口県で国体があり、クライミング(ボルダリング)の大会が開催されたこともあってか、子どもや初心者?向けに施設が充実していました。

講習会なども時々行われており、一度基本的なことを学んでみたいなあと思っているのですが、県東部からは100キロくらい離れているのでなかなか参加できません。

たまに、観光地などにも簡単な施設があることがあってやったりすることがあります。バランスのとり方が結構難しく、身体に聴きながら次にどう進めるのかを考えるのはなかなか楽しい。

ぶら下がるのって、慢性の肩こり症の私にはよさそうな気もするのです。

ちなみに、危険が伴うので、現地には看板も書いてあるとおり、許可なく使用することはできないようになっているようです。


身体がここにいたくないと訴える日本

[2010年06月09日(Wed)]
先日の松元ヒロソロライブの打ち上げの時に、松元ヒロさんから聞いたこぼれ話。

ヒロさんはダンサーの田中泯(たなか みん)さん(一般には、映画『たそがれ清兵衛』で、最後に清兵衛と壮絶な立ち回りを行った余吾善右衛門役として有名)とも親交があり、ある時、田中さんが‘日本はおかしい。毎年3万人も自殺しているのは、理屈ではなくて、身体がここにいたくないと言っているのだと思う’という意味のことを言われたそうです。

田中さんはアジアや日本各地の田舎で舞踊をされているそうで、身体で時代を感じている人ならではの感性だなあ、と印象に残りました。

田中さんについては、公式ホームページがありますので、そちらをご覧ください。



<『iPad』はUIをどう変えるか:アラン・ケイが夢見たビジョン>という記事

[2010年02月09日(Tue)]
もう一つ、グーグルニュースのピックアップに載っていて、気になった記事。

『iPad』はUIをどう変えるか:アラン・ケイが夢見たビジョン

アップル社の「ナレッジ・ナビゲーター」という構想?に基づく、「ニュートン」(アップル・ニュートンで検索すれば、ウィキペディアで概略がわかります)という電子手帳のようなものを一時的に持っていたものとしては、最近発表されたアップルのiPadの動きに注目しているからです。

しかし、以前のこのブログの記事に書いたのですけど、今のUI(=ユーザー・インターフェイス=コンピュータと人間をつなぐ入力方法)には、人間の思考についての基本的な考え方が抜け落ちていると思ってしまうのは私だけではないと思います。

最近のiPhoneなどに見られるUIは、できるだけ、調べ物などが心地よく短時間に済ませられるようにとデザインされていますが、人があることを思いついて、そのことを調べるために辞書をめくったり、書類をコピーしたりしている時間と言うのは、実は大切だと思うからです(時には、結論にたどりつけないことも大切だったりして)。

たどりつくまでに、費やしている間に、実は、脳の中でいろいろな考えが進んでいて、これまでの経験や学んだこととそれらが結びついて、自分では考えていなかったような考えに進化していたりするわけですが、あの心地よいUIによって、(その心地よさに引きずられて)、思考がストップしてしまうのではないかと感じるのです。

それが、以前私が書いた、iPhoneを触っている時間が「無駄な時間になってしまう」という意味です。言い換えると「やり過ごさないといけない時間」とか「そこに到達するために過ごさなければならない我慢できないストレスのたまる時間」でしょうか? さらに言い換えると、「指先の心地よさと脳の働きがマッチしていなくて、身体感覚と脳の感覚がずれてしまう」ということではないかと思うのです。

本当の意味で、人間の思考をアシスト(援助)してくれるUIへは、まだまだ道険しいと感じてしまいます。

そのあたりのことを、パーソナルコンピュータに大きな影響を与えるビジョンを示したとされるアラン・ケイは、どれほど見通していたのでしょうか?買って、読もうとしてすぐ挫折してしまった『アラン・ケイ』(鶴岡雄二翻訳、浜野保樹監修、アスキー出版局、1992年)を読み直してみようかなと思ったりしています。


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