長くて、大風呂敷な話(話半分に聞いてください)。
一昨日、久々に風邪をひいてみて、あらためて考えたことを書いてみたいと思います。
なお、風邪にかかりやすい人もいるでしょうし、重篤な合併症を発症してしまう場合もありますので、経過をちゃんと見て、必要であると感じたら速やかに病院へ行くことをオススメします。くれぐれも、病院へ行かないことの勧めではないことをお断りしておきます。
考えてみると、私が意識して風邪のことを考え始めたのは、今から30年以上も前になる高校生の頃です。
当時、風邪の治し方を発見したらノーベル賞をもらえる、という話がありました(光合成の仕組みを解明して人工的に澱粉が合成できるようになったらノーベル賞がもらえる、という話と同時に)。
当時も今も、私は自分がノーベル賞をもらえるような人になるとは思っていなかったので、ノーベル賞がもらえる部分には関心がなかったのですが、それより、最も身近な病気である風邪というものが解明されていないということが不思議で面白いなと感じたものです(光合成の話も面白いなと思いましたが、今では、謎の解明としては興味深いものの、自分ではたけをやっていて、光と水で澱粉を合成できるという効率の良い仕組みをせっかく生命が生み出したのだから、それを活用するはたけを楽しむだけでいいじゃん、と思います)。
以来というか、それ以前の子どもの頃風邪にどう対処していたかというのはあまり覚えていないということもありますが、風邪というのは必ず治るわけだし、治し方も解明されていないわけだから医者に行っても仕方ないと思い、風邪で病院へ行ったことはありません(正確に言うと、20年以上前くらいに一度、40℃近い熱が1週間近く続いた時には近くの病院へ行きました。しかし、その時も結局朝点滴をして熱が下がるのですが、その後徐々に熱が上がり40℃近くまで上がっていて、一旦少し楽になってからだんだん熱が上がって行くときのほうが気持ち悪かったので、いかなかったほうが良かったと思う)し、風邪薬というものを飲んだこともありません。
その後、野口整体というものに出会う機会があり、名著と言われる『風邪の効用』を読むに至って、我が意を得たりという気持ちになったものです。
この本は、1962年に刊行されていますが、2003年にちくま文庫として若干編集し直して復刻されていて、手軽に読めるのでオススメです。
この本の裏表紙に書かれている文章を引用します。
風邪は自然の健康法である。風邪は治すべきものではない、経過するものであると主張する著者は、自然な経過を乱しさえしなければ、風邪をひいた後は、あたかも蛇が脱皮するように新鮮な体になると説く。本書は、「闘病」という言葉に象徴される時代の病気に対する考え方を一変させる。風邪を通して、人間の心や生き方を見つめた野口晴哉の名著。
ちなみに、野口整体については、同じちくま文庫で『整体入門』というのが復刻されています。非常に示唆の多い考え方だと思いますので、興味のある方はどうぞ。
ちょっと話がずれましたが、本題に移る前段として必要だったのでご勘弁を。
で、風邪というものは、人間の体が、自分の体の不具合を調整するために、(自発的にかどうかは別にして)周りに常にいる風邪を引き起こす細菌を体に招き入れて、体内の水分の循環を早めて新陳代謝を通常より早めて通常の代謝では排出しきれないものを発汗や鼻水、下痢、嘔吐、小便などとして出し、体をリニューアルすることだと思っていて、たまにかかる程度なら風邪はむしろ歓迎すべきものだと思っています。
今回さらに思ったのは、その体の不具合には大雑把に2種類あって(お互い絡み合っていて正確に2分できるわけではありませんが)、それは、「体の不具合」と「体と心の不具合」ということになります。体の不具合は文字通り、体を酷使して疲れているとかいうことになるわけです。そして体と心の不具合というのは、頭が働きすぎて体がついていけないという状態。
私の例でいくと、まさに一昨日の風邪。最近、頭が働きすぎて、眠ったかと思うと2、3時間後には目が覚めて眠れなくなってしまう。起きた時にはいいのですが、だんだん体はしんどくなって、夜になると倒れるように眠ってしまう。なのに、やはり2時、3時には目が覚めてしまう。という日々が続いていました。まさに、心と体のバランスが崩れている状態です。そこで、体も心も休めるために風邪になったというわけです。
違った例で言うと、自分の子どもで体験したのですが、子どもが小さい頃、やはり風邪で病院に行くことはなく、風邪薬も使わず、できるだけだれかが自宅で様子をしっかり見ながら経過させるようにしていました。その中で、風邪を経過したあとに、妙に大人びたなあ、ということが何度かありました。
今はもうあまり使われない言葉かもしれませんが、「知恵熱」という言葉があります。小さい子どもの頃は、体も心も急速に成長していきます。その時、心の成長が早すぎて、体がついていけないような状態が起こったときに、それを調整するために風邪をひくことがあって、そのことを昔の人は体験的によくわかっていて「知恵熱」という言葉で表現していたのではないかと思うのです。
本当に、たったの2、3日でびっくりするように、精神的に成長したなあ、と思うことが何度がありました。それも、風邪が邪悪な避けるべきものではなく、生まれ変わる契機であると思いながら接することができたから感じることができたのだとは思います。
やっと、本題にやってきました。
体という厄介(と感じている)な実体を持ちながら、外界を認識する神経から発達した脳という(思考のみを突き詰めていくことのできる)特殊な器官を発達させた人間は、ともすれば妄想して暴走する脳の行き過ぎを調整するために、同じ地球上に共生しながら暮らしている細菌の力を借りて、風邪という現象を起こしているのではないか(そういう意味では、風邪というのは、脳が発達した生物にしかない病気なのかもしれません。病気という名称はもはや適切ではないかもしれませんが)。
私が常に気にしている、体と心の問題、自然と都市の問題、自然と人間の共生、人工知能の問題など解決するモデルがこんな身近にあったとは。風邪を排除すべき、忌むべきものとしてとらえるのではなく、人間の体が太古から行ってきた、体と知能の調和を図るための調整機能であるという面をきちんと伝えることによって、もっと調和のとれた社会を目指すことができるのではないか。もちろん風邪は一例に過ぎませんが、非常に身近で実感できる例として活用できないか、考えていきたいと思います。
逆に、インターネットやコンピュータなどは、人間の脳の思考の部分だけを拡張させる機能を持っていて、実体を伴っていないから、容易に暴走するという面があるように思います。インターネットやコンピュータを実体を伴うとか、実体とうまくリンクさせるようにデザインすることによって、より適正な発展ができるように考えることはできないのか、ということも気になる点です。
と、言いながら、風邪が治った途端に早起きしてこんなことを考えるのにうつつをぬかしている愚かな私です。
追記:インフルエンザと風邪とは違うんだよ、という人がいますが、私は基本的には一緒だと思っています。感染力の強さがかなり違うというのは、もしかしたら、風邪を排除しすぎたせいで、変なところでウイルスが発達してしまったのではないか、と勘ぐっています(菌を排除しすぎた病院内で、抗生物質耐性菌が流行るように)。
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