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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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『皮膚の秘密』に書いてあった「石鹸を使わない」を実践してみた

[2021年06月02日(Wed)]
最近紹介したドイツの皮膚科医の書いた『皮膚の秘密』という本の中に、皮膚は大昔から変わっていなくて、自らを健康に保つ仕組みを持っているのだから、体を清潔に保つために石鹸はあまり使う必要はない。というより、せっかくのバリアを洗い流して皮膚を弱くしてしまって、保湿クリームを塗ったりするのは本末転倒。体の汚れは基本的に水溶性なので、お湯で流すだけで充分という意味のことが書いてありました。

そういうことについては、他の皮膚に関する本にも書いてあったし、知り合いで石鹸を使わない人も知っていたので、自分でも石鹸の使用は控えめにしているつもりだったのですが、あらためて書かれていたので、思い切って、まったく石鹸を使わないということを10日以上(正確には記録していない)行ってみました(今時なのと、はたけ仕事もするので、手指だけは石鹸や消毒用アルコールは使います)。

お風呂にも毎日入る必要はないと書いてあったのですが、さすがに毎日入ったものの、石鹸は一切使わなかったのです。

その代わりに、丁寧めにお湯で流す。

一番気になるのは、やはり、顔と頭です。いくら汚れは水溶性だといわれても、皮脂は油なので特に顔と頭の脂分というのはお湯では落ちませんので、若干のヌルヌル感が残ります。

しかし、ていねいにお湯で洗い流して、風呂から出てタオルで拭けばそれほど気にならないし、だんだん皮脂がたまってきてどうしようもなくなるということはありませんでした。

そして、体臭が気になるのではという心配も、悪臭を出すような悪い菌は、皮膚常在菌が健康なバランスを保っていればやっつけられてしまうので大丈夫という言葉通り、石鹸で丁寧に洗う時よりもむしろ気にならないくらいなのです。

まあ、たまには石鹸を使って(特に顔と頭は)さっぱりするのもいいかな、というのが実感です。

実際にやってみるものですね。


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オンテナがようやくやってきた190903

[2019年09月04日(Wed)]
主に聴覚障害者向けに、音を振動として感じてもらうために作られた、髪の毛や襟につけてもらうコミュニケーションデバイス「オンテナ」(音とアンテナをあわせた造語でしょう)。

私自身は、聴覚健聴者なのですが、数年前から、オンテナを開発していることを知り、注目していたところ、やっと製品化されることになり、8月にはインターネット上で注文サイトができましたので、早速注文して、ようやく現物が届きました。

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音を感じて、その大きさに応じて強弱をつけて光るようになっており、光は消すモードも選べます(写真では光がわかりにくいですが、結構はっきりわかります)。

190904オンテナ.JPG

また、音の大きさに合わせて強弱をつけた振動をするようにできていて、音の感度も、80デシベルから90デシベルまでと、より敏感に60デシベルから90デシベルまで感じる2つのモードがあります。

早速試してみました。私の場合、丸坊主にしているので、襟に装着することになります。

街を歩いていると、私の好きな鳥のさえずりにはさすがに反応はしません。自動車が近づいてくると、振動が続くのでより迫力をもって自動車を感じることができます(私は鳥が好きなので、鳥のさえずりは敏感に感じてしまいます。自分が音の強弱ではなくて、自分の興味で音を聞いていることがわかります)。

面白かったのは、電車通勤をしているので、駅のホームで待っていると、通過電車が通るときは長い間振動が続いたり、電車に乗っていると、振動の強弱が続くのですが、アナウンスや鉄橋を渡るとき、ドアの開閉があるとき、振動が強くなるのです。

音の大きさにしたがって、振動の強弱があるので当たり前なのですが、音の大きさと言うのは日頃あまり細かくは意識していないのが、強調されて感じるが面白いところです。

いろんな場面で使ってみたり、知り合いに紹介したりして楽しみ方を模索してみたいです。まだ、ほんの少ししか使っていませんけど、新しい感覚が芽生えそうです。

オンテナのことについて興味を持った人は、ホームページがありますのでご覧ください(スポーツ観戦のイベントなどで活用することが検討されているようです)。


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『リハビリの夜』

[2018年11月28日(Wed)]
『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、2009年、医学書院)

1811リハビリの夜.JPG

「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語りきれない地点から《ケア》の世界を探る「シリーズ ケアをひらく」(このシリーズの本は30冊以上出ているようで、面白そう。以前読んだ『驚きの介護民俗学』もこのシリーズだったみたい))の中に位置づけられている一冊。大学時代からの友人に薦められて読んでみました。

脳性まひ当事者であり、かつ現役の小児科医である著者が、自分の体験を通じて、どうやって思い通りにならない身体が世界とのつながりを結んでいったのかについて書いてあってとても興味深い。

タイトルは、子どもの頃夏休みに参加させられていたリハビリ合宿での夜のことのようです(本書の中でも象徴的なシーンです)。

以前記事に書いたことがありますが、私は、大学生時代、たまたま近くに住んでいた脳性まひで24時間介護が必要なおじさんの介護に月1、2回ペースで入っていたので脳性まひのことはある程度わかります。

あまり親しみのない人のために一応書いておくと、脳性まひは、脳の損傷が原因で起きる移動や運動の障がいのことだそうですが、どの部分に損傷を受けているかによって障がいの状況は千差万別のようです。

著者は子どもの頃、毎夏休みに健常者の運動モデルにあわせるためのリハビリ合宿に参加させられ、そのときの経験をもとにトレイナーとの関係を次の3つに分類しています。

@互いの動きを《ほどきつつ拾い合う関係》
A運動目標をめぐって《まなざし/まなざされる関係》
B私の体が発する信号を拾わずに介入される《加害/被害関係》

脳性まひの人は、体が緊張しやすく体がこわばっていることが多く、最初にそれをほぐすために無理やり固まっている関節などを伸ばすことがあるそうです。そうすると、最初は筋肉の抵抗が起こるものの、そのうち緊張が緩んできて遂にはゆるゆるになりトレイナーと自分の身体がなじんで、境界がなくなったような官能を伴う瞬間が訪れるとのこと。

しかし、その後は、健常者の動きをモデルにして身体を動かす訓練に移るため、トレイナーとの関係は分離してしまい、《まなざし/まなざされる関係》や《加害/被害関係》に移行してしまうらしい。

著者は、一般的には不自由と思われている脳性まひ者の視点からの他者や他のモノとのつながりを語ってくれているのですが、それほど不自由さを感じさせず、例えば、電動車いすによって得られる、大地までが身体の一部になったかのような感覚などは、いわゆる健常者よりも鮮烈な体験なのかもしれないと感じられます。

私たちは、自分は自由に動くことができると思っていますが、よく考えると、それはそれまでの経験でできることとできないことがわかっているからで、脳性まひの人は、その程度が違うので、そのことについて思い至りやすいのかもしれません。そして、チームでうまく動けているときの一体感というものが、より大きく感じるのかもしれません。

人間は、他の多くの生き物と違って外界に対して不適応な状態で生れ落ちる。しかしこの不適応期間があるからこそ人間は、世界との関係の取り結び方や、動きのレパートリーを多様に分化させることができたのではないか、と言うところも面白い。

「他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。」
いい言葉だと思います。

以前にも書いたことがありますが、身体障がい者の場合、見た目でサポートする側される側というのがわかりやすく、区別してしまいがちなような気がします。けれども、実際には、人と人(や人とモノ)との関係というのは(障がいとかとはかかわらず)一方的なものではなくて、本来的に、相互的なかかわりなのだとあらためて思い至らせてくれる本です。


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「森田真生 数学の演奏会in周防大島 Talk & Walk Live」に行って来た181111

[2018年11月17日(Sat)]
周防大島の小泊にある正覚寺で開催された、若き独立研究者の森田さんによる数学の演奏会。

10月下旬の大島大橋への貨物船衝突事故により、水道が止まっていたり、橋が片側交互通行になっていたりと大変な状況になって、中止になったイベントもあるようですが、島のお店なども徐々に営業を再開しているようです(11月18日からは、橋の補強工事の第一弾が終わって、風による通行止めは減る予定)。

今回のイベントも主催者は開催するかどうか迷いがあったそうです。

当日、私は午前中にいろいろ用事があって、大島大橋の状況を把握せず、少し早めに出たところ、風が強めで朝から通行止めになっていて、足止めをくらってしまいました。前の週の例もあるので、しばらく(1時間半くらい)待っていたら、午後の1時半頃に解除になったので、最初の挨拶には間に合いませんでしたが、森田さんの演奏会が始まるところでなんとか滑り込むことができました(中には、車での島内入りをあきらめて、柳井港から出ている臨時の渡船で大島に渡った人もいたようです)。

私にとって、2回目の数学の演奏会。

森田さんのお話は、とても刺激的で、面白い。ちょっと難しい話も出てくるものの、数学の歴史や数学を研究してきた人のことを糸口に、人工知能など現代的な話題の中にこれからの私たちの生き方を探ろうとしているからこそ発せられる言葉があり、今まで自分で考えてきたことさらに考えるヒントになったり、違った角度からの見方を教えてくれたりするからなのだと思う。

その面白さは、会場の雰囲気も含めて、現場で体験しないとわからないし、多分、参加者によって話の内容も微妙に変わってくるのだろうと思います。

印象に残ったことを、少しだけごく簡単に書いてみます。

現在大きな壁に突当たっていると言われている人工知能。経済学などの世界では失敗しているものの物理学の世界などでは成功をおさめている数学の歴史の中で、数式化できた部分を機械に実行させることで実現した人工知能は、その理念を作った一人とされるアラン・チューリングさんの師匠にあたるヴィドゲンシュタインさんが指摘したとおり、限られた範囲で規則に沿った計算はできても、現実に近づけていくためにはその規則を適用するための規則を延々つくらないといけないという制約を越えることができていない?

1980年代からはじまったと言われる人工生命(今年、世界会議のようなものが東京であったらしい)の研究者の1人であるロドニー・ブルックスさんは、ルンバの開発者として有名で、それまでの全体を把握して動くロボットに代わって、センサーとモーターを使って、身体感覚的なものを持たせ、その場その場で対応できるようなロボットを考えて、すばやい動きを実現しつつある。

Talk & Walk Live とあるとおり、30分ばかりの散歩休憩の後、質疑応答コーナーのようなものがあり、運よく、私の質問も選んでもらえて、やり取りをすることができました(私が関心を持っているグラフについて聞いてみました)。

それはそうと、小学校教育の中に取り入れられようとしている、英語教育やプログラミング教育については、最近私が読む本、聞く人、ことごとく否定的であるのは興味深い。森田さんは、英語教育が、いつの間にか覚えてしまった母語以外の知らない言語を、文法から学ぶこと自体は意味があるが、現在のような第二言語としての英語を学ぶだけだと翻訳機械などの発達と共に不要になる可能性があるし、ロボットを動かす方法として、現在はプログラミングで命令を忠実にこなすように動かしているが、まねをさせて学ばせるような動かし方をするロボットなども出てきていて、プログラミングが将来的に主流になるとは限らないことなどから子どもたちに必要かどうか疑問を呈していました。それよりも、これからは多様な他者とうまくやっていくことを学ぶことのほうが大切なのではと。


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「ヒトはなぜ体毛がほとんどないのか?」という疑問に関して考えていること(中間報告)

[2017年12月15日(Fri)]
「ヒトはなぜ体毛がほとんどないのか?」という疑問は、子どもの頃からの謎でした。それが気になっていたのは、子どもの頃から、動物や植物の図鑑を見るのが好きで、生態系の話などに感銘を受けていて、自然界には不都合と思われることにも何らかの理由があるはずだ、という思いがあったからだと思います。

ただ、その疑問も棚に吊ったままになっていたのですが、2010年代に入ってから、たまたま出会う本によって、皮膚が感じる触覚についてや、皮膚とそこに住んでいる常存菌との関係、感覚と脳の関係などを断片的に知る機会が増え、特に今年(2017年)に入ってからは比較的まとまって本を読むことになったので、徐々に考えがまとまってきました。

まだ、ちゃんと整理できてはいませんし、あくまで説というか、こういう考え方もあるというレベルですが、私的には現段階で一番納得できる理由です。

結論だけ書いてしまうと、

@従来、生物は主に少しずつ(時に大きく)変化する遺伝子によって(遺伝子にある程度しばられながら)、生命維持の様々な機能を代々伝えつつ進化してきたが、ヒトは、生まれた後に急激に発達する脳によって、遺伝子によらない進化の方法を手に入れ、肉体的にも精神的にも(個人的にも社会的にも)大きく進化を遂げることになる。それを効果的に行うために、(それまで多くの生物が外部の情報を取り入れながらも外界に対して閉じる方向で進化して来たのに対して、)外界との直接的なつながりを持つ皮膚を、できるだけ外界にさらす必要があった。

A同時に、他の動物よりもさらに臨機応変にヒト同士で協力・連携しあうことによって、危機を回避したり、よりよい社会を作ることができるようになった社会的動物であるヒトにとって、個々がより親密に直接的コミュニケーションをとる必要があり、そのために体毛が薄くなった(より大きく言うと、Aは@に含まれています)。

ちょっと、分かりにくいかもしれませんが、「ヒトはなぜ体毛がほとんどないのか?」という疑問は、ヒトの本質に関わる問題のような気がしています。

今後とも、追いかけたいテーマです。

そういう考えに至った経緯について大幅に端折ってメモを書いてみましたが、B5判8ページになってしまったので、別途pdfファイルで添付しますので、余裕があれば読んでみてください。


02ヒトはなぜ体毛がほとんどないのか?171215.pdf


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池袋MOTTAINAIてづくり市−耳たぶについてのあやしい仮説−(3年ぶりの江戸行き その8 一応完結)

[2017年02月26日(Sun)]
東京芸術劇場に演劇『足跡姫』を観にいったとき、たまたま、劇場前の公園でてづくりの小物を売る市をやっていたので、少しのぞいて見ました。

確か、何年か前に東京芸術劇場に行ったときもやっていたと思うので調べてみたら、毎月第2土曜日あたりにやっているようです。

残念ながら写真を撮りそびれたので様子を紹介できませんが、まあ、岩国でも行われているてづくり市の少し規模が大きいものと思って間違えはないと思います。やはり、江戸なので、若干クオリティが高いようにも感じました。しかし、こういった分野の横のつながりというのは、多分、私のようなものの想像をはるかに超えていると思われ、地方都市でもそんなに負けているとは思いません。

ステージもちゃんとあって、私が寄ったときはたまたまオーボエのソロ演奏で、なかなか聴かせてくれました。

(まちと田舎の)勝ち負けはどうでもよくて、何より、こういった催しの楽しみは、店主と直接やり取りができるということ。素材のことや、てづくりのこだわり、など、聞いてて楽しい。

それはそうと、

今回見て回って、気づいたのは、もちろん、アクセサリーが多いのですが、中でもピアスやイアリングの種類と量がダントツに多いということ、少し前より、増えているような気がしました。

そこで、ふと、思ったこと。

私自身、30年以上も前の学生の頃、いたずらでイアリングをしてみたことがあり、「何だ、イアリングって、男がしてもかわいいじゃん」と感じ、一時日常的にイアリングをしていたことがありました。以来、耳たぶっていうものはイアリングなどで飾るためにあるものだ、と思っていました(他人に要求するわけでもなく、今では自分でするわけでもないですが)。

それ以上でも以下でもなかったのですが、もしかしたら、大昔のいつかの時点で、イアリングのようなものがはやって、ますますイアリングを付けやすいように、みんなが耳たぶを少しずつ引っ張って、もともとそれほど大きくなかった耳たぶが、遺伝情報に残るほど大きくなってしまったのではないか、という仮説を思いついてしまいました。

耳たぶは、耳のほかの部分と違って、軟骨っぽいものもないし、化石などとしても残りにくいと思われるので、検証するのが難しいかもしれません。

でも、もしかしたら、耳飾の遺物が多く出る年代や、地域などがあって、調査している人がいたりして。

インターネットで調べたりすると、耳たぶがあることによって、集音効果があるとか、耳たぶ自体が音の振動を感じ取るんだとかいったもっともらしいことが書いてあったりするのですが、本当に効果があるのか疑わしいような気がします。

まあ一応上に書いたような効果があるとしても、以前このブログで書いたことがありますが、顔というのは、人間どおしのコミュニケーションにとってとりわけ関心の高い部分であり、そこを飾るために自分たちで徐々にその形態を変えてしまった、というほうが楽しくないですか。

もちろん、それが本当だなんて主張するつもりはありません。

でも、何かそれにまつわる情報があるとうれしいなあ。というか、これも、心の中の棚に釣っておいて、何かが引っかかってくることを待つとしよう。

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『図解 感覚器の進化 原始動物からヒトへ 水中から陸上へ』

[2014年10月07日(Tue)]
『図解 感覚器の進化 原始動物からヒトへ 水中から陸上へ』(岩堀修明著、ブルーバックス、2011年)

1409感覚器の進化.JPG

私たち(いろんな動物)の感覚というものが、どういう仕組みで感じられるようになっているのか、ということを進化の過程や細胞レベルの図解で説明してくれていて、興味深い。

ただし、著者がいみじくも、「(前略)動物たちがその刺激をどのような感覚として感じているか、本当のところはわからないということだ(後略)」と、「あとがき」で書いているように、残る謎のほうがはるかに多くて、大きい。

でも、こういう基礎的なことが、感覚というものを考えていく上での想像力の刺激になることは確かなので、楽しい(えてして、知識が邪魔になることもありますが)。

普通私たちが、五感として知っている、「視覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「触覚」を、それぞれ「視覚器」「味覚器」「嗅覚器」「平衡・聴覚器」「体性感覚器」の章を当てて解説してくれていますが、日頃あまり私が五感のなかで意識していない感覚器が含まれていました。

その一つは、聴覚の部分に書かれている平衡覚器です。全ての動物が地球上にいる限りのがれることのできない重力というものを感じる器官なので、基本的な仕組みはすべて同じなのだそうです(逆に、ほかの感覚器は同じ感覚をつかさどっていても違う仕組みだったりする)(無重力状態になる宇宙ステーションなどでは平衡覚器が働けない未知の状態なのですね)。

そして、もう一つが「体性感覚器」。体性感覚の中には「皮膚感覚」と「固有感覚」というのがあって、触覚というのは、「皮膚感覚」の中の一部なのだそう。「固有感覚」というのは、筋の収縮や間接の屈伸などによって生じる感覚で、この感覚をとらえる「固有感覚器」があるから、私たちは日頃特に意識せずに、階段を上り下りしたり、いろんな行動ができるらしい(ダンスを見て呼び起こされる感覚って、この「固有感覚器」を刺激するのでしょうか?)。

触角について、「(前略)動物が進化するにつれて、皮膚感覚には接触しているものの確認のほかに、もう一つの目的ができた。それは“スキンシップ”である。集団で社会生活や家庭生活を営む動物は、積極的に仲間に触れ合い、新密の度合いを示す。最初は自己防衛のために使われてきた皮膚感覚は、社会生活を維持するための感覚としても発展していったのである。(後略)」とさらりと触れている部分があって、そこについては詳しくは書いていません(もちろん、この本のテーマからはずれるからです)が、私は、ヒトが、あまりに傷つきやすい無防備な皮膚を持っているのは、そのあたりのことが大きな理由なのではないかと思っていて、あらためて考察したいテーマではあります(両刃の刃的な部分があるので、気をつけて書かないといけないと思っています)。

最後の7章「クジラの感覚器」が、また想像力を刺激します。

海の中から陸上にあがった動物が、再び海に戻っていったために、陸上生活に適合するために進化させていった感覚器を、再び海の中の生活に合わせるためにさらなる進化(進化は後戻りできないので)をさせなければならなかった過程が書かれているのです。

例えば、常に外気を取り込む呼吸器とセットになって進化した嗅覚器は、長時間息を止めざるを得ない状況では意味を成さないので退化していってほかの器官が発達したことや、体内で空気の流れを作り出すことによって水中でも声を出せるようになった工夫、水圧から開放された目を再び水圧から守る仕組みをつくっていったこと(水中と空中では見え方が違うのでピンとあわせが難しいらしいけど、イルカは水上でも近くにピントを合わせることができるらしい)など、興味深い。

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写真よりイラストのほうがイメージを伝えられることについて(写真とイラストの違い)

[2014年08月14日(Thu)]
先日(もう大分前になってしまいました)、ブログで私は写真の顔出しはしないのに、思いっきりイラストは出していることについて、写真だと知らない人でも認識しやすいのに、イラストだと、直接知っている人はわかるけど、イラストだけ見たのでは、たまたま本人に出会ってもわかりにくいから、というようなことを書きました。

そのことについて少し書いてみたいと思います。

つまり、直接知っている人にとっては、イラストは役に立つ。例えば、名刺交換する場合に名刺にイラストを入れておくと、印象に残りやすいけど、イラストだけ見ても、実際の本人と結びつきにくい。

これはどういうことなのでしょうか。

その前に、顔というのは、私たちにとって、特別なものだということは書いておかないといけないでしょう。

特に目。生まれたばかりの赤ちゃんでも、目が見えるようになるとと必ず目を合わせてきます。そして目が合ったときに見つめなおすと、必ず見つめなおしてきます。

そして、目を中心とした顔の表情というのは、私たちにとって特別な関心事です。それは、複雑な社会生活を行なうことによって成り立っている私たちにとって、コミュニケーションは欠かせないものであり、そのコミュニケーションにとって必要不可欠な感覚(五感)の中で、視覚は最後に来るものでありながら(胎児の状態でも、触覚や聴覚は確実にあり、遅くとも生まれてすぐに味覚や臭覚は発揮されるはずなので)、外界を能動的に認識する感覚であり、それを最初に発揮するのが、自分に近しい他人(母親であることが多い)の顔の表情を読み取ってやり取りをすることであるからです。

視覚が能動的な感覚であると書きましたが、じゃあテレビは能動的なのかというと、そうですねえ、受動的ですよねえ。顔の表情を見ながらやり取りをする中で、表情も育っていくと思うので、やり取りのないテレビなどばかり見ていると、(特に子どもは)表情が豊かにならないかもしれません。

元来は視覚は能動的なのだけど、その情報獲得量の多さを逆利用していろいろなメディアが作られていて、過剰で一方的な情報が与えられ続けると、受動的にならざるを得ない、ということなのでしょうか?

閑話休題。

写真というものは、実際は、光の色と濃淡(濃淡だけだとモノクロ)を写し取るだけです。それが、ある意味、真を写すということなのでしょう。

しかし、私たちは、特に人の顔については、色と濃淡だけを見ているのではなくて、表情を読み取って、その人とコミュニケーションを図ろうとします。

イラストと写真の大きな違い(特に顔を写し取る場合)は何かというと、イラストは、ヒト(イラストレーター)が実際の色と濃淡をそのまま写し取るのでなくて、その中から、表情を抽出(抽象)しようとするところにあるのではないかと思うのです。

だから、イラストの良し悪しがあるにしても、イラストは私たちの脳に、何か響いてくるものがある。直接会ったことのある人のイラストを見たとき、何だか、ああっ、そうそう、こんな感じ、て思うのです。きっと。

これは、実は、人のイラストに限らないような気がします。図鑑などでも、写真より、イラストのほうがわかりやすいという気がすることがありませんか?人がじっくり観察して描いたほうが、よけいな情報がなくてしかも、知りたいところを描いているのでわかりやすいのではないかと思います。

将来、もし、絵を描くロボットが作られたとして、人をどのように描くのかというのは関心のあるところです(ヒトと本当の意味でコミュニケーションが取れるようなロボットが生まれたとすると、そのロボットが描く人の絵というものがどういうものになるのだろうか、と想像すると興味は尽きません)。


追記:イラストがうまい人で、自分の似顔絵が苦手な人というのが結構いるように思います。これって、自分の顔は見すぎてて、抽出が難しくなってしまうって事?

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内田樹さんの身体に関する言葉

[2014年07月20日(Sun)]
身体感覚の重要性に関しては、主に20代から取り組んでいる合気道を通して語る内田樹さんの最新著書?『日本の身体』に関するインタビュー記事が、今日の中国新聞に載っていました。

ちなみにこの本は、固有の身体の動きを伴う漫画、茶の湯、文楽、ラグビー、大相撲、マタギなどの達人12人と身体運用について語り合う対話集のようで、読んでみたい本です。

この小さなインタビュー記事で相変わらず、気になる言葉を投げかけてきます。

最後の2段を抜粋させてください。

経済成長を最重要の目標に突き進み、一部の人や企業に権力や財貨が集中する今の日本を「国民国家の株式会社化だ」と批判する。一方、一極集中の東京を脱出する動きや、再生可能エネルギーの活用など、新しい日本の生活モデルをつくろうとする動きに希望を見る。
 「全能観を持って、スピードや効率を優先する人たちは、ものを壊す側に回ってしまう。壊すのは一瞬で、誰にもできる。しかし時間をかけてものをつくることは、生身の体にしかできません。そのパフォーマンスを最大にする日本固有の身体技法を、大事にしていきたい」


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緑内障について03(弱者の立場に立ってみる)

[2014年05月30日(Fri)]
昨年(2013年)6月の人間ドックで、緑内障の疑いありとの所見が出て、12月(半年放置)に眼科に行き、何段階かの検査を受けて緑内障が確定。今年(2014年)3月から眼圧を下げる点眼を続けていることはこれまでも書いてきました。

眼圧を下げるといことは、目力(めぢから)を低下させることになっているように感じること、そのことについての考察についても書きました。

目の力が弱まるということは、これまで感じていなかったことにも敏感になるということで、必ずしも悪いことばかりではないように思います。

例えば、私は通勤に基本は自動車を使うわけですが、最初山道を通って、だんだん街に近づき、最終的に短いトンネルと通ると街に出てくるという道順で、これまでほとんど意識していなかったのに、最近は、トンネルを超えると途端に眩しく感じます。それで、あまりひどいと度入りのサングラスに掛け替えるたりします。

人工物の多い街というのが、どれだけ光を反射して明るい状態になっているかというのをこれまで考えたこともありませんでした(逆に、緑の多い場所は目にやさしいのですね)。

で、眼圧を下げる点眼をはじめて3ヶ月近くになるので、お休みをもらって眼科へ行ってきました。

先生の診察を受ける前に、眼圧や視力など基礎的な検査を受けるわけですが、その時、看護士の人に、目がいつもしょぼしょぼすることや、これまで以上に眩しくなったこと、さらには、先週と今週、微熱と軽い頭痛が伴い、やたら喉が渇いて水分をたくさんとって小便がたくさん出る風邪にかかり、薬を基本的に飲まない私にとって、点眼が強く作用してそうなったのかもしれない(あくまでかもしれない)ということを話させてもらいました。

瞳孔を拡げる点眼をして20分くらいして、先生の診察の時、先生はいつも言葉は少ないのですが、事前に看護士に話したことが十分に先生に伝わっていることがわかるような対応で、眼底の検査に加えて、目の表面が薬によるダメージを受けていないかの検査をしてくれて、眼圧は下がっていて緑内障にとっていい状態であること、目の表面が少し乾き気味であること、眼底の状況は変わっていない(悪化していない)こと、これまでの点眼とほぼ同等の効果が期待でき、より刺激の少ないものに変えてみようということにしてくれました(看護士と先生が直接話をする余裕はないと思われるので、問診結果を文書で伝えているのだと思います)。

緑内障は気の長い病気なので、私もすぐに改善は期待していないのですが、疑問に思ったことを看護士に話すと、ちゃんとそれなりの対応をしてもらえて、今かかっている病院に対して、またまた、印象が良くなったのでした。

朝7時に順番を取りに行って、一旦家に帰って公共交通機関で病院へ行き、運が悪いと診察してもらえるのが昼近くになり、さらに瞳孔を拡げる検査をするために車の運転もできず、ほぼ1日が潰れてしまうという面倒がありながらも、仕方ないか、と思える対応なのです。

追記:車の運転ができないのも、たまになら案外いい経験になります。電車やバスを乗り継いでみると、もちろん車で動く手軽さはないものの、思った以上に便利で、自分で運転するのではないので、リラックスして外の景色や音を楽しむことができます。日常的にももっと、時間の余裕を持って、公共交通機関を利用したほうがいいのではないか、と思えできます。

私も、もうお年寄り予備軍ですから、車を運転できないお年寄りの気持ちにもたまにはならないとね。

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