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夜の山のカレー食堂250329「子育てママフェスin岩国」241120「大人が知っとく!子どもとネットのつきあい方」210220市民が作るTVF2012 市民賞「子ども達が教えてくれたこと」
久々に、自然菓子工房 欧舌の大下さんのブログを見てみたら、私も以前(2010年6月13日の記事)に紹介した、大下さんちの「こびとのおうちえん」を追ったドキュメンタリー作品「子どもたちが教えてくれたこと」(17分36秒)が、市民がつくるTVF(東京ビデオフェスティバル)で市民賞を受賞していて、インターネット上で公開されていることを知りました。
さっそく見てみると、コンパクトな中に「こびとのおうちえん」の良さが詰まった、なかなかよくできた作品。 この作品を観ると、最近の子どもは、どうのこうのと言っている、私たち大人が子どもたちの可能性を一番つぶしているのではないかと考えさせてくれます。短いものなので、是非ご覧ください。 わたしも、毎年冬に、焚き火遊びをしていて実感します。子どもたちは、自然の中で自由にのびのび遊ぶことからいろいろ学ぶし、それをちょっと後押しするだけで、素晴らしい可能性を発揮するということを。 ちなみに、このフェスティバル、全然知らなかったのですが、2011年から始まって今回が2回目。映画監督の大林宣彦さんや作家の椎名誠さんなども審査員になっているのですね。入賞した30作品をインターネット上で観ることができます。 ![]() 大下さんちの「こびとのおうちえん」
午前中の芋づる植えを終えて、田布施の大下さんちへ。
今日は、麦刈りということで、昼食時から合流の予定で行ったのですが、雨で麦刈りが中止になっていたのでした(パソコンメールに中止メールは来ていた)。 それでも、近所の子どもたちやその親もちらほら来ていて、おいしいカレーや玄米おにぎりなどをいただいて、しっかりのんびりさせてもらいました。 見てみたかった大下さんちの敷地内の古い民家を改修してこの春から開園している保育施設「こびとのおうちえん」もしっかり見せてもらいました。 まずは、1階部分。真ん中が吹き抜けになっていて、ギャラリーのよう。 ![]() 階段も1枚板で作られていて素敵です。 ![]() 2階には、縄梯子やハンモックがあり、ちいさな隠れ家のような部屋もあります。 ![]() 厨房も子どもたちの目に触れるところにあり、楽しそうな雰囲気。現在十数人の子どもたちが通ってきているそうです。 今日、ちょうど子ども用の楽器が入荷したところでした。 ![]() 過程を楽しむ
NHKのどじまんで、予選からみっちり楽しんだことで、本選をより楽しむことができたことで思い出したことを。
15年以上も前のことですけど、長男が生まれたとき、ちょうど育児休業制度が整備され始められたころで、1歳になる直前の1ヵ月半ほど、相棒から引き継いで、育休を取らせてもらいました。 そのとき、だんだんつかまり立ちをしていて、一人で立つようになり、育休が終わるころに、いわゆる最初の一歩を、目の当たりにすることができたのです。そのときの感動というのは、なかなか忘れることができません。 それは、昼間は仕事をしていて、家に帰ってちょっと子どもと会って遊んで、気づいたら歩き始めていたというのとは、ぜんぜん違います。 いわば24時間一緒にいて、ちょっとずつ変化して(成長して)いく姿を見ていて、その結果として歩き始めるわけですかあら、感じるものが違います。日々刻々と成長している自分の子どもの姿をじっくり味わうことができるのですから。 こういうことを感じることができる可能性を持つ育児休業を、男性が取る率がまだまだ少ないというのは、本当にもったいないことだと思います。 髪を切ったときに思い起こすこと
今日、久々(2、3ヶ月ぶり?)に髪を切りました。
髪を切ると(いつもじゃないですけど)思い出すこと。それは、長男が生まれたときに、1歳になる直前に1ヶ月半ほど育児休業を取ったときのことです。 育児休業を取る前に、試験的に母親から離して、数日間私と息子だけで過ごしてみました。そうすると、母親より、私のほうに向かってくるのです。気分をよくしているところで、育児休業に向けて、身軽に過ごすために、髪をスポーツ刈にしました。 床屋から帰ってくると、息子はなんだか不思議そうな顔をして、私を避け、母親のほうに向かっていくのです。私としては、これから主夫として気持ちよく過ごすために、息子のために髪を切ったのに、ちょっとショックでした。 でもよく考えると、そんなことは息子にとってはどうでもよくて、ただ、雰囲気がかわった父親に違和感を持っただけなのでしょう。誰かのためだなんて言ったって、実は自分のためだったりするわけで、それによって相手が期待通りの反応をしてくれなかったからといって、ショックを受ける必要はないのですよね。 ために思ってやっても、それが、本当にその人のためになるかどうかなんてわからないのですから。 そういうことって、意外とよくあることではないでしょうか? そんな長男も、すでに高校生になっています。 子どもと一緒に社会の仕組みを作る
前の記事つながりで、ついでに。
そういった地域のために働く人が集まる事務所は、理想的には、地域の小学校の空き教室などが望ましい。 というのも、2008年7月1日の記事(読書メモ)で紹介した『子どもの社会力』にもあるように、現在の子どもに大切なのは、既存の社会に合わせる社会性ではなくて、これからの社会をみんなで作っていくという社会力なのだから、子どもが何気にいる小学校にそういった事務所があり、地域をよくするために大人たちがああでもない、こうでもないと試行錯誤しているところを見れたり、時には、子どもたちの意見を聞いたり、子どもたちと一緒に新しい社会システムについて考えていくことができたらいいと思うから。 子育て、という観点から言っても、一見社会はもうすでに決まりきっていて、自分と社会にはかかわりがないと感じてしまうような現在にあって、実際にはそうではないということを学ぶ機会が身近にあることは大切なことだと思うのです。 理想論で現実味がないようにに聞こえるかもしれませんが、全国的に見れば、学校の空き教室を地域の人たちの生涯学習施設的に利用している例は実際にあるし、私自身も、そういうことが取り組めないかと考えています。クリアしなくてはいけない問題もたくさんありますし、無理して進めてもよいことにはならないので、ぼちぼち進めていくつもりです。 『子どもの文化人類学』
『子どもの文化人類学』(原ひろ子著、晶文社、1979年)
私が買った1991年時点で、23刷になっているので結構売れている本(ちなみに、調べてみたらまだ絶版になっていなかった)。 文化人類学者である著者が、世界の各地で調査したいろいろな民族の子育てについて書かれていて、主に取り上げられている、極北の雪原に生きるヘヤー・インディアンの文化が興味深い。 著者がどんな人間社会にも存在すると考えていた「教えよう・教えられよう」とする意識的行動が、ヘヤー・インディアンにはまったくみられず、「○○は誰に教えてもらったの?」と聞いても、「自分で覚えた」としか回答は返ってこない。 例えば、折り鶴を折ってみせても、決して折り方を教えてくれとは言わずに、ひたすら観察して自分なりにやってみて、できたと思ったらみせに来て、「この鶴は疲れているみたい」とか言われるのを楽しそうに聞いていたりする。彼らは、「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」。 彼らが住んでいるところは、ちょっとしたミスで死に至ってしまうほど自然環境が厳しく、それぞれが、自分の身は自分で守らなくてはならないので、3歳の子どもでも、零下数十度の中でキャンプを移動したあとに、自分の身体のどこの部分が冷えているかがわかり、凍傷で肉が落ちてしまうのを防ぐために、そこを十分ほぐしてから焚き火にあたるということを知っていたりする。 彼らは10歳ぐらいになるまでに、一人ひとりに特定の守護神がつく(11、2歳になっても夢に守護神が現れない場合には、キャンプから少しはなれたところに一人で行って断食して、眠らずに守護神の現れるのを待つ)。そして、他人に聞くのではなくその守護神と相談しながらいろんなことを行っていく。著者は、慎重に明言をさけているけど、文章の小見出しが「からだとつきあう」となっているように、その守護神とは、「自分のからだ」なのだと思う。 その上で、著者は、こう書いています。 (前略)現代の日本を見るとき、「教えよう・教えられよう」という意識的行動が氾濫しすぎていて、成長する子どもや、私たち大人の「学ぼう」とする態度までが抑えつけられている傾向があるのではないかしら(中略) 日本でも職人の世界では、「自分で覚える」ということを大事にしていたようです。(中略) 幼時に「自分で覚える喜び」を深く体験している子どもだったら、(中略)自分の世界を築く自信を失わない十代を過ごしえるのではないでしょうか。 そのためには、「よく観て」、「自分でやってみる」という時間が必要です。そしておとなの側に、それを待ってやるゆとりが必要であるように思われます。 子どもの学ぶ意欲をまったく無視して、「教えよう」という傾向がますます強くなっていて、前回の記事で書いた橋下大阪府知事の話は、その極端な例だなと思い出して、読み返してみました。 |
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