尖閣諸島問題の話の続き(私たちのできること)
4月21日の記事、「尖閣諸島問題の肝は?」で書いたこと続きです。
その記事では、いきなり国家レベルの話しを書いてしまって、ちょっと上から目線だったかもしれないと反省しつつ。
私たち普通の人ができる可能性のある話を。
結論から書いてしてしまうと、民間レベルと国家レベルの話は別で、国家レベルの対立を、個人が背負う必要はなくて、(中国は困った国だなどと一物持ちながらではなくて)個人個人が楽しく(もちろん文化的な違いなどで必要なところでは喧嘩したっていい)直接的に交流を図ることが大切で、その時に、ある視点(ここでは、「格差ってのは結構問題かもね」という視点)を持っていたり共有できていたりするだけで、ずいぶん個人個人の動きも変わってくる可能性があると思うのです。
本当は、大手マスコミなどが、そういう問題解決のための雰囲気づくりをするお手伝いができたらいいのでしょうけど、今の硬直化した大手マスコミでは、一般受けしそうな、キャッチーな、センセーショナルな、ゴシップ的な記事しか書けなくなっているという感じがします。
これは、良い悪いでなくて、記事を校閲する人が意識しているしていないの問題でもなくて、インターネットに押されて購読部数がどんどん減少している新聞社は、購読者を増やすために一般受けするようなものを書かざるをえなくなっているし、そういう切羽詰った状態では、大手広告主(電力会社など)の意向も無視できない。
マスコミの中でも、頑張っている個人がいて、組織的にも機動力のある比較的小さな新聞社、例えば東京新聞などがいい記事を書いているといううわさが片田舎にいる私などにも聞こえてきたりはしますけど、全体としては、現場で働いている記者の人たちは大変だと思います。見えにくい自主規制の網にからめとられてしまっているので。
あっ、また大げさな話になってしまった。
そうではなくて、中国の話で言えば、企業など、民間レベルでの交流というものが一方で増えている現在。国家レベルの話に流されるのではなく、個人個人のつながりを大切にする。必要上つながりのできた人とのかかわりの中で、自分のできる中国(や日本)の格差の問題について、語り合ったり、何かできることがないか考えてみる。もし、できることがほんの少しでもあったらそれをやってみる。
何だか、ちまちましたような、まどろっこしいような話に聞こえるかもしれませんが、それが、例えば尖閣諸島問題の、解決への最も根本的なアプローチだと私は思っています。
発展途上国における格差の問題(じゃあ、いわゆる先進諸国の格差の問題は?)は、それがバネになって成長していくのだから仕方ないとかいった考え方もあるかとも思います。しかし、貧困層の人はお金を稼ぐのに汲々とし、じゃあ裕福な人たちは余裕があるかというと、コネなどを活用して上に上がっていくためのいろいろで、やはり汲々としていて余裕がなかったりする。そういった不満の捌け口を為政者は外に向ける、といった構造を突き崩していけるのは、結局「個人個人のつながり」(それは、フェイスブックやツイッターなどによるフラットな関係ではなくて、より直接的なつながりですが、これはこれでまた大きなテーマなので別の機会に)でしかないのでは、と思うのです。
「個人個人の直接的な(←ここがポイント!)つながりを増やしていくこと」であれば、機会があれば誰でもできる可能性のあることでしょ?
その記事では、いきなり国家レベルの話しを書いてしまって、ちょっと上から目線だったかもしれないと反省しつつ。
私たち普通の人ができる可能性のある話を。
結論から書いてしてしまうと、民間レベルと国家レベルの話は別で、国家レベルの対立を、個人が背負う必要はなくて、(中国は困った国だなどと一物持ちながらではなくて)個人個人が楽しく(もちろん文化的な違いなどで必要なところでは喧嘩したっていい)直接的に交流を図ることが大切で、その時に、ある視点(ここでは、「格差ってのは結構問題かもね」という視点)を持っていたり共有できていたりするだけで、ずいぶん個人個人の動きも変わってくる可能性があると思うのです。
本当は、大手マスコミなどが、そういう問題解決のための雰囲気づくりをするお手伝いができたらいいのでしょうけど、今の硬直化した大手マスコミでは、一般受けしそうな、キャッチーな、センセーショナルな、ゴシップ的な記事しか書けなくなっているという感じがします。
これは、良い悪いでなくて、記事を校閲する人が意識しているしていないの問題でもなくて、インターネットに押されて購読部数がどんどん減少している新聞社は、購読者を増やすために一般受けするようなものを書かざるをえなくなっているし、そういう切羽詰った状態では、大手広告主(電力会社など)の意向も無視できない。
マスコミの中でも、頑張っている個人がいて、組織的にも機動力のある比較的小さな新聞社、例えば東京新聞などがいい記事を書いているといううわさが片田舎にいる私などにも聞こえてきたりはしますけど、全体としては、現場で働いている記者の人たちは大変だと思います。見えにくい自主規制の網にからめとられてしまっているので。
あっ、また大げさな話になってしまった。
そうではなくて、中国の話で言えば、企業など、民間レベルでの交流というものが一方で増えている現在。国家レベルの話に流されるのではなく、個人個人のつながりを大切にする。必要上つながりのできた人とのかかわりの中で、自分のできる中国(や日本)の格差の問題について、語り合ったり、何かできることがないか考えてみる。もし、できることがほんの少しでもあったらそれをやってみる。
何だか、ちまちましたような、まどろっこしいような話に聞こえるかもしれませんが、それが、例えば尖閣諸島問題の、解決への最も根本的なアプローチだと私は思っています。
発展途上国における格差の問題(じゃあ、いわゆる先進諸国の格差の問題は?)は、それがバネになって成長していくのだから仕方ないとかいった考え方もあるかとも思います。しかし、貧困層の人はお金を稼ぐのに汲々とし、じゃあ裕福な人たちは余裕があるかというと、コネなどを活用して上に上がっていくためのいろいろで、やはり汲々としていて余裕がなかったりする。そういった不満の捌け口を為政者は外に向ける、といった構造を突き崩していけるのは、結局「個人個人のつながり」(それは、フェイスブックやツイッターなどによるフラットな関係ではなくて、より直接的なつながりですが、これはこれでまた大きなテーマなので別の機会に)でしかないのでは、と思うのです。
「個人個人の直接的な(←ここがポイント!)つながりを増やしていくこと」であれば、機会があれば誰でもできる可能性のあることでしょ?