招魂場の整備220409
一般に、明治維新以降、体制側の立場に立って(内戦も含む)戦争で戦って亡くなった人を祀る記念碑を忠魂碑と言い全国各地で建てられ、その場所や神社を招魂場と呼ぶようで、(「平成の」ではなく)昭和の大合併の時に岩国市の一部となった私の住む元小さな村にもあります。
主に第二次世界大戦の戦没者の遺族会である郷友会によって維持されているのですが、会の高齢化により、私も所属するもう少しだけ若い世代の地域の環境整備を行う会も加わって、植栽の選定や草取りなどを春に行っています。
すでに桜は散りつつありました。
碑の周りに、戦没日と名前が記された墓標のようなものが立てられており、かつて調べたら、西南の役から第二次世界大戦にかけて187人の方が小さな村から出征し、戦死されたようです。
私自身は遺族にはあたらないので、直接的な関係はないのですが、全国各地で、忠魂碑の維持が難しくなっていると言われる昨今にあって、地域の歴史の一端として、彼らを神格化するのではなく、彼らが関わった戦地で亡くなったりけがを負った現地の人々や日本と戦った人々、そして、近くは終戦前日に岩国駅前の空襲や、8月6日に広島の原爆投下で亡くなったりけがを負った人たち、そして戦争で理不尽な目にあった人たちを同時に思い起こす契機となるしるしとして、維持していければいいのではないかと考えています。
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主に第二次世界大戦の戦没者の遺族会である郷友会によって維持されているのですが、会の高齢化により、私も所属するもう少しだけ若い世代の地域の環境整備を行う会も加わって、植栽の選定や草取りなどを春に行っています。
すでに桜は散りつつありました。
碑の周りに、戦没日と名前が記された墓標のようなものが立てられており、かつて調べたら、西南の役から第二次世界大戦にかけて187人の方が小さな村から出征し、戦死されたようです。
私自身は遺族にはあたらないので、直接的な関係はないのですが、全国各地で、忠魂碑の維持が難しくなっていると言われる昨今にあって、地域の歴史の一端として、彼らを神格化するのではなく、彼らが関わった戦地で亡くなったりけがを負った現地の人々や日本と戦った人々、そして、近くは終戦前日に岩国駅前の空襲や、8月6日に広島の原爆投下で亡くなったりけがを負った人たち、そして戦争で理不尽な目にあった人たちを同時に思い起こす契機となるしるしとして、維持していければいいのではないかと考えています。
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