第40回ひろしま哲学カフェ「褒める/褒められる」201205
広島のソーシャルブックカフェ ハチドリ舎をメイン会場として行われていた「ひろしま哲学カフェ」。今年に入っての新型コロナウイルス感染症によって、オンラインに移行して何回目かの開催。
今回のテーマは、「褒める/褒められる」ということで、褒められたいけど褒められると疑ってしまったり、褒めるのが苦手だったりといったことについて、オンラインならではの特徴を生かして今回も進行役は新たな遠くの人にお願いする形で、話し合いました。
いつものように、いろんな話や意見が出て面白かったのですが、細かい内容は、その場ならではのこともあるので置いといて、私が、話を聞いたり話したりする中でその場で思いついたことを少し書いてみます。
私たちは日々いろんな価値判断をしてしまうわけですが、褒めるって結局、「特定の人の行為などに対して、プラスの価値判断を表出すること」なのかな。それは、直接知っている人であったりなかったり、故人であったり、あるいは、自分に対してだったり(日記に書いたり)。いずれにしても、それを表に出すことによって、他人に向けて言えば他人が共感してくれたりそうでもなかったりするし、自分に向けたとしても改めて自分で確認したり、自分の中にいる他人に問い直すことになったりして、結果としてそのことの確からしさを吟味しなおす機会になる。自分がこれがいいと思っている判断が正しいのか正しくないのか(良いのか悪いのか?)って、なかなかわからないからこそ、表に出してみて、確認したくなるってことなのじゃないかと思うのです。
それが基本なんだけど、その時に、発する側としては、本人や周りの人にどう思われるかというのが気になるので躊躇したり、受け手側もどういうつもりで言ってくれているんだろう?と考えてしまったり。さらに、褒めることによって、お互いに影響を及ぼしあうことが(経験上または研究上)わかっているために、教育的配慮?で、それほど思っていなくても褒めたりすることがあったりするので、いろいろ気になってしまって、素直に発したり受け取ったりすることができないことも多いような気がします。
私が考える基本に立ち返ってみると、褒める側は、その人の行為などがいいなと思ったら、できるだけ素直にそれを表現すればいいと思うし、受け取る側や周りの人は、自分もそう思う、とか、それまでそういう良さに気づいていなかったけど、言われてみるとそうだね、とか、私は別にいいとは思わない、なぜなら・・・とか、お互いに表出し合うと、もしかしたら、その良さの違った面が見えたり、考えが深まったりするのじゃないでしょうか(なかなかそうはいかないのが現実だとは思いますけど、少なくとも、他人のためを思って褒めるとかいうのは私は好きじゃないです)。
じゃあ、「マイナスの価値判断を表出すること」(怒ったり、叱ったり?)については?と考えが進みそうですが、長くなりそうなので、またの機会に。
今でこそ私は、比較的社交的で、よく自分の気持ちや思ったことをしゃべるほうだと自分でも思っていますが、中学生の頃は、多分妙に自意識過剰で、客観的と思われるようなことについてはまあまあしゃべることはできたものの、自分の思っている(自分の好きなことなど)ことを言葉にすることができない時期が結構あって、いろいろ考えたことがあるので、年を経るにしたがって、気楽に自分の思っていることを言えるようになった気がします(必ずしもそうなるとは限らないでしょう)。
改めて、他人と意見を交わすことによって、自分なりの「褒める/褒められる」ことが少し整理できたような気がして、面白かったです。
なお、主催者が時間が取れなくなったとのことで、「ひろしま哲学カフェ」は不定期開催になることになりました。哲学カフェも、主催者によって、テーマの設定や進行が若干異なるように思えて、「ひろしま哲学カフェ」は、私にはちょうどいい感じだったので少し残念ですが、またいつかの機会を楽しみにしていたいと思います。

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今回のテーマは、「褒める/褒められる」ということで、褒められたいけど褒められると疑ってしまったり、褒めるのが苦手だったりといったことについて、オンラインならではの特徴を生かして今回も進行役は新たな遠くの人にお願いする形で、話し合いました。
いつものように、いろんな話や意見が出て面白かったのですが、細かい内容は、その場ならではのこともあるので置いといて、私が、話を聞いたり話したりする中でその場で思いついたことを少し書いてみます。
私たちは日々いろんな価値判断をしてしまうわけですが、褒めるって結局、「特定の人の行為などに対して、プラスの価値判断を表出すること」なのかな。それは、直接知っている人であったりなかったり、故人であったり、あるいは、自分に対してだったり(日記に書いたり)。いずれにしても、それを表に出すことによって、他人に向けて言えば他人が共感してくれたりそうでもなかったりするし、自分に向けたとしても改めて自分で確認したり、自分の中にいる他人に問い直すことになったりして、結果としてそのことの確からしさを吟味しなおす機会になる。自分がこれがいいと思っている判断が正しいのか正しくないのか(良いのか悪いのか?)って、なかなかわからないからこそ、表に出してみて、確認したくなるってことなのじゃないかと思うのです。
それが基本なんだけど、その時に、発する側としては、本人や周りの人にどう思われるかというのが気になるので躊躇したり、受け手側もどういうつもりで言ってくれているんだろう?と考えてしまったり。さらに、褒めることによって、お互いに影響を及ぼしあうことが(経験上または研究上)わかっているために、教育的配慮?で、それほど思っていなくても褒めたりすることがあったりするので、いろいろ気になってしまって、素直に発したり受け取ったりすることができないことも多いような気がします。
私が考える基本に立ち返ってみると、褒める側は、その人の行為などがいいなと思ったら、できるだけ素直にそれを表現すればいいと思うし、受け取る側や周りの人は、自分もそう思う、とか、それまでそういう良さに気づいていなかったけど、言われてみるとそうだね、とか、私は別にいいとは思わない、なぜなら・・・とか、お互いに表出し合うと、もしかしたら、その良さの違った面が見えたり、考えが深まったりするのじゃないでしょうか(なかなかそうはいかないのが現実だとは思いますけど、少なくとも、他人のためを思って褒めるとかいうのは私は好きじゃないです)。
じゃあ、「マイナスの価値判断を表出すること」(怒ったり、叱ったり?)については?と考えが進みそうですが、長くなりそうなので、またの機会に。
今でこそ私は、比較的社交的で、よく自分の気持ちや思ったことをしゃべるほうだと自分でも思っていますが、中学生の頃は、多分妙に自意識過剰で、客観的と思われるようなことについてはまあまあしゃべることはできたものの、自分の思っている(自分の好きなことなど)ことを言葉にすることができない時期が結構あって、いろいろ考えたことがあるので、年を経るにしたがって、気楽に自分の思っていることを言えるようになった気がします(必ずしもそうなるとは限らないでしょう)。
改めて、他人と意見を交わすことによって、自分なりの「褒める/褒められる」ことが少し整理できたような気がして、面白かったです。
なお、主催者が時間が取れなくなったとのことで、「ひろしま哲学カフェ」は不定期開催になることになりました。哲学カフェも、主催者によって、テーマの設定や進行が若干異なるように思えて、「ひろしま哲学カフェ」は、私にはちょうどいい感じだったので少し残念ですが、またいつかの機会を楽しみにしていたいと思います。

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