夢トークinやまぐち「わかりあえないことから」平田オリザ講演140808
山口県ひとづくり財団の事業として行われている夢トークinやまぐちの一環で行われた講座。
平田オリザさんの劇は幾つか観たことがあるのですが、本人の話を直接聴いたことがなかったので、休みを取って聴きに行きました。
私自身は演劇が好きなほうです。でも、演劇という分野は芸術の中でも今ではかなりマイナーになっていることも認識はしています。その演劇界においてはかなり有名な平田オリザさんが書いているこの『わかりあえないことから』という本は、一般の人が描いているかもしれない演劇の、絵空事的なイメージとはまったく違って、徹頭徹尾実際的な話で、驚かされます。
最近の若者は、コミュニケーション能力が欠けていると言われていますが、コミュニケーション能力にもいろいろあって、一概には欠けているとは言えず、むしろ能力自体は徐々に上向いているかもしれない。
しかし、それを使う現場が失われてしまっている(少子高齢化もあいまって、せまい周りの人との付き合いばかりで日常生活の中に他者がいないので意識してコミュニケーションする必要がない)ということと、社会に出てしまうと、世界がより身近になっていて、いきなりコミュニケーション能力が要求されるというギャップが激しすぎるという現実。
そして、それを補う地域社会が崩壊しつつあるために、結果として、学校教育がそのことを負わざるを得なくなっているのに、そういう方面での教育改革が進んでいないという現状に対して、他者を身近なところで現出させる演劇という手法が有効であり、それを実践している平田さんの話には説得力があります。
印象に残った話を少しだけ書きます。
まず一つは、今大切なコミュニケーションには、異文化コミュニケーションと、世代間コミュニケーション、ジェンダー(異性間のコミュニケーション)と言われているが、文部科学省は、異文化コミュニケーションを重視しすぎているという話。
異文化コミュニケーションに力を入れているスーパーグローバルハイスクールの成功校では、英語で、例えば臓器移植についてのディベートを行なったりしていてすごいが、そこに平田さんが手伝いに行って、演劇ワークショップでグループ分けをしようとしたら、男女共学校なのにも関わらず、男女が別々にこそこそ話しをして別々のグループになったりする光景が見られ、少子化の世の中にあって、むしろそちら(男女間のコミュニケーション)のほうが大事なのではないかとの話に、私も深く共感します。
平田さんは、基礎教育においては、素晴しいコミュニケーション能力を身につけるというより、昔からいた一部のコミュニケーションが苦手で無口な人でも、挨拶ができるとか、最低限の自己アピールができるようになることのほうが大切だと力説するのにも同感です。
一昔前であれば、そういう人(特に男性)は、研究所にこもる研究者になったり、製造業における職人さんになったりして、それなりに一生を終えることができたのですが、今では、研究室にも女性がやってくるので、女性ともちゃんとコミュニケーションができないといけないし、製造業にも社会的弱者である女性や障害者、外国人労働者なども参入してくる。その場合、無口な職人は、結果として(本人の意図とは別に)古い男性社会における既得権者として振舞うことになるため、それでは困るのだと。
また、(特に金子みすず生誕の地である山口では)「みんな違って、みんないい」などというが、本当は「みんな違って、大変だ」。それでも、なんとかやっていかないといけない、なんとかやっていける人が大切な時代なのだということを次のような実例で示してくれました。
日本では、A、、B、C、D、E、Fの6人のグループがいたとして、最終的にBの意見にまとまったとき、Bが褒め称えられるが、例えば、同じ例でフィンランドでは、Fは何も意見を言わなかったけど、最終的にBの意見に取りまとめるのに大きな役割を果たしたとしたら、Bではなくて、Fが賞賛されるのだという。つまり、現代では、一つの事柄に対して多様な意見や感じ方を持つのは当然で、しかし、時間を決めて、とりあえず、何らかの方向性を出さないといけないという場合が多いので、ただ自分の意見を主張するより、それを取りまとめるコミュニケーション能力が大切なのだということです。
6年前にこのブログで紹介した『子どもの社会力』の中で、今の子どもたちに必要なのは、既にある社会に個人として適応する側面に重きをおいた「社会性」ではなくて、社会的動物ないし社会的存在たるに相応しい人間の資質能力である「社会力」である、という考え方(私も大いに賛同しています)を紹介しましたが、平田さんは、「協調性から社交性へ」という言葉で似たようなことを説明しています。
「平田君は、自分の好きなことは一生懸命、集中して頑張るけれども、どうも協調性に欠けるようです」と小学校1年生から通信簿に書かれていた平田少年が、そのまま長じて劇作家になった。しかし、演劇は集団で行う芸術なので、演劇人には「社交性」はある。「社交性」というと、うわべだけのことだとマイナスイメージでとらえられがちだが、必ずしもそうではなくて、多様な中でみんなとなんとかやっていくための必要最小限の技術だと言うのです。
今回の講演の演題になった新書『わかりあえないことから』は、以前読んだことがあり、最近寝不足気味で長距離の自動車運転をするのが怖いので鈍行列車で行くことにしましたので、岩国から約2時間の車中で読み返し、そして結果として今回の講演は、本人によってその本の要約をしてもらった形だったので、本を3回楽しんだ感じになりました。
個人的にはもう少し新しい話もしてほしかったのですが、200人を集めた講演ですからそのあたりは致し方ないでしょう。それでも、本人から直接話が聞けて、例によってサインをしてもらって少しだけ言葉を交わせたので、私の中により印象が残ったので良しとしましょう。
本にサインしてもらい、さらに2年弱前に観た、5時間42分に及ぶ平田オリザさんを追ったドキュメンタリーフィルム『演劇1』『演劇2』のチラシの裏にもちゃっかりサインをしてもらいました。
平田さんの著書『わかりあえないことから』は、オススメです。

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平田オリザさんの劇は幾つか観たことがあるのですが、本人の話を直接聴いたことがなかったので、休みを取って聴きに行きました。
私自身は演劇が好きなほうです。でも、演劇という分野は芸術の中でも今ではかなりマイナーになっていることも認識はしています。その演劇界においてはかなり有名な平田オリザさんが書いているこの『わかりあえないことから』という本は、一般の人が描いているかもしれない演劇の、絵空事的なイメージとはまったく違って、徹頭徹尾実際的な話で、驚かされます。
最近の若者は、コミュニケーション能力が欠けていると言われていますが、コミュニケーション能力にもいろいろあって、一概には欠けているとは言えず、むしろ能力自体は徐々に上向いているかもしれない。
しかし、それを使う現場が失われてしまっている(少子高齢化もあいまって、せまい周りの人との付き合いばかりで日常生活の中に他者がいないので意識してコミュニケーションする必要がない)ということと、社会に出てしまうと、世界がより身近になっていて、いきなりコミュニケーション能力が要求されるというギャップが激しすぎるという現実。
そして、それを補う地域社会が崩壊しつつあるために、結果として、学校教育がそのことを負わざるを得なくなっているのに、そういう方面での教育改革が進んでいないという現状に対して、他者を身近なところで現出させる演劇という手法が有効であり、それを実践している平田さんの話には説得力があります。
印象に残った話を少しだけ書きます。
まず一つは、今大切なコミュニケーションには、異文化コミュニケーションと、世代間コミュニケーション、ジェンダー(異性間のコミュニケーション)と言われているが、文部科学省は、異文化コミュニケーションを重視しすぎているという話。
異文化コミュニケーションに力を入れているスーパーグローバルハイスクールの成功校では、英語で、例えば臓器移植についてのディベートを行なったりしていてすごいが、そこに平田さんが手伝いに行って、演劇ワークショップでグループ分けをしようとしたら、男女共学校なのにも関わらず、男女が別々にこそこそ話しをして別々のグループになったりする光景が見られ、少子化の世の中にあって、むしろそちら(男女間のコミュニケーション)のほうが大事なのではないかとの話に、私も深く共感します。
平田さんは、基礎教育においては、素晴しいコミュニケーション能力を身につけるというより、昔からいた一部のコミュニケーションが苦手で無口な人でも、挨拶ができるとか、最低限の自己アピールができるようになることのほうが大切だと力説するのにも同感です。
一昔前であれば、そういう人(特に男性)は、研究所にこもる研究者になったり、製造業における職人さんになったりして、それなりに一生を終えることができたのですが、今では、研究室にも女性がやってくるので、女性ともちゃんとコミュニケーションができないといけないし、製造業にも社会的弱者である女性や障害者、外国人労働者なども参入してくる。その場合、無口な職人は、結果として(本人の意図とは別に)古い男性社会における既得権者として振舞うことになるため、それでは困るのだと。
また、(特に金子みすず生誕の地である山口では)「みんな違って、みんないい」などというが、本当は「みんな違って、大変だ」。それでも、なんとかやっていかないといけない、なんとかやっていける人が大切な時代なのだということを次のような実例で示してくれました。
日本では、A、、B、C、D、E、Fの6人のグループがいたとして、最終的にBの意見にまとまったとき、Bが褒め称えられるが、例えば、同じ例でフィンランドでは、Fは何も意見を言わなかったけど、最終的にBの意見に取りまとめるのに大きな役割を果たしたとしたら、Bではなくて、Fが賞賛されるのだという。つまり、現代では、一つの事柄に対して多様な意見や感じ方を持つのは当然で、しかし、時間を決めて、とりあえず、何らかの方向性を出さないといけないという場合が多いので、ただ自分の意見を主張するより、それを取りまとめるコミュニケーション能力が大切なのだということです。
6年前にこのブログで紹介した『子どもの社会力』の中で、今の子どもたちに必要なのは、既にある社会に個人として適応する側面に重きをおいた「社会性」ではなくて、社会的動物ないし社会的存在たるに相応しい人間の資質能力である「社会力」である、という考え方(私も大いに賛同しています)を紹介しましたが、平田さんは、「協調性から社交性へ」という言葉で似たようなことを説明しています。
「平田君は、自分の好きなことは一生懸命、集中して頑張るけれども、どうも協調性に欠けるようです」と小学校1年生から通信簿に書かれていた平田少年が、そのまま長じて劇作家になった。しかし、演劇は集団で行う芸術なので、演劇人には「社交性」はある。「社交性」というと、うわべだけのことだとマイナスイメージでとらえられがちだが、必ずしもそうではなくて、多様な中でみんなとなんとかやっていくための必要最小限の技術だと言うのです。
今回の講演の演題になった新書『わかりあえないことから』は、以前読んだことがあり、最近寝不足気味で長距離の自動車運転をするのが怖いので鈍行列車で行くことにしましたので、岩国から約2時間の車中で読み返し、そして結果として今回の講演は、本人によってその本の要約をしてもらった形だったので、本を3回楽しんだ感じになりました。
個人的にはもう少し新しい話もしてほしかったのですが、200人を集めた講演ですからそのあたりは致し方ないでしょう。それでも、本人から直接話が聞けて、例によってサインをしてもらって少しだけ言葉を交わせたので、私の中により印象が残ったので良しとしましょう。
本にサインしてもらい、さらに2年弱前に観た、5時間42分に及ぶ平田オリザさんを追ったドキュメンタリーフィルム『演劇1』『演劇2』のチラシの裏にもちゃっかりサインをしてもらいました。
平田さんの著書『わかりあえないことから』は、オススメです。

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