緑内障について2
人間ドックで緑内障が発覚(ついでに、白内障と網膜はく離も)したことを最近書きました。
その中で、まだ視野欠損が始まったばかりで、自覚症状がほとんどないこと、実際に行っていることといえば、緑内障進行の大きな要因として考えられている眼圧を下げるための点眼を1日1回しているだけだということも書いたと思います。
現状について思うことを書いてみたいと思います。
点眼をすることによって、眼圧が若干下がっているのだと思うのですが、全体的に目力(めぢから)が低下しているようで、いつもなんとなく目がしょぼしょぼします(しょぼしょぼするのはこのところの寝不足もありますが、明らかにそれだけではない)。昼間の明るい光がこれまで以上にとてもまぶしく感じます。また、元々、奥二重気味の目立ったのが、完全に二重になってしまいました。しかも、まつげの色が濃く、しかも若干長くなってきているようです(目だけ見るとかわいくなった!?)。まつげが濃く長くなっているのは、弱まっている目を守ろうとしているのでしょうか?
緑内障は、視野(見える範囲)がだんだん欠損していって、最悪は失明するというやっかいな病気です。
その病状が進行する大きな要因として考えられているのが、眼圧が高くなっているということ。そこで点眼で眼圧を下げようとするわけです。で、もとをたどれば眼圧が高いというのは近眼の人に多いらしく、つまりは、目を酷使する人が眼圧が高くなる?
ということは、緑内障というのは現代病なのかなと。
近年、インターネットなどの普及もあり、ビジュアルメディアの発展が目覚しいなかで、私たちは日々目を酷使しながら仕事や遊びをこなしています。それによって眼圧があがり、緑内障になって、最悪の場合は、ビジュアルメディアを見ることができなくなる。
ということは、もっと目を酷使しない生活をすればいい、ということになります。薄目をするくらいで、あまり注視しない。もしかしたら、それくらいの目の使い方のほうがいいのかもしせん。
だって、視力というのは、いろいろある感覚の中のたった一つの感覚なのですから、それだけに頼る必要はないのではないでしょうか?
ここまで書いて、一つの疑問が。
大昔の人は、野獣に食べられる危険に囲まれているわけですから、常に周りを注視してみていなくてはならなかったはず。獲物を捕まえるためにも、目を凝らすことが多かったはず。なら、大昔の人はもっと緑内障になって失明していた人が多かったはずなのに、あまりそういうことを聞いたことがありません。
それに対してとりあえず思いつく一つの答えは、昔は寿命が短く、目を酷使して緑内障になっても、寿命を迎えるまでにはまだ目が見えていたのではないかという考え方。
しかし、私は、別のことを考えます。
昔の人(もちろん全員が全員そうだったわけでなくて、全体としての傾向のことです)は、目だけで外界を把握していなかったのではないかということ。触覚、臭覚、聴覚、味覚、そして視覚(+第六感?)を総動員して、周りの変化をとらえ、対応していたのではないか。だから、現代はもっぱらビジュアル・メディアにさらされ、視覚という感覚を駆使するという偏った感覚の使い方をしているために、動物としての感覚が鈍いと感じる(物理的な危機管理能力に欠ける)人を結構見かけるのではないか。
ここまで書いてくると、つまりは、眼圧を下げる点眼などに頼らなくても、目を酷使しないようにして、他の感覚を使うように心がけることによって、緑内障の進行を抑えることができるのではないか、という仮説が生まれます。
ああ、でも、カメラが好きで、目を酷使することが趣味のような私などはどうすれば・・・。それは、自業自得なわけですから、せいぜい点眼を続けてみるしかないわけでしょうか。
でも、
ちょっと、気持ちだけでも、目をいたわってあげようと思う今日この頃です。
緑内障の人だけでなく、すべての人に通じるキャッチフレーズを思いつきましたので、最後に。
「視力以外の感覚でも、世界を感じるようにしよう!」
これって、私がテーマの一つとしている身体感覚に関係する話題です。
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その中で、まだ視野欠損が始まったばかりで、自覚症状がほとんどないこと、実際に行っていることといえば、緑内障進行の大きな要因として考えられている眼圧を下げるための点眼を1日1回しているだけだということも書いたと思います。
現状について思うことを書いてみたいと思います。
点眼をすることによって、眼圧が若干下がっているのだと思うのですが、全体的に目力(めぢから)が低下しているようで、いつもなんとなく目がしょぼしょぼします(しょぼしょぼするのはこのところの寝不足もありますが、明らかにそれだけではない)。昼間の明るい光がこれまで以上にとてもまぶしく感じます。また、元々、奥二重気味の目立ったのが、完全に二重になってしまいました。しかも、まつげの色が濃く、しかも若干長くなってきているようです(目だけ見るとかわいくなった!?)。まつげが濃く長くなっているのは、弱まっている目を守ろうとしているのでしょうか?
緑内障は、視野(見える範囲)がだんだん欠損していって、最悪は失明するというやっかいな病気です。
その病状が進行する大きな要因として考えられているのが、眼圧が高くなっているということ。そこで点眼で眼圧を下げようとするわけです。で、もとをたどれば眼圧が高いというのは近眼の人に多いらしく、つまりは、目を酷使する人が眼圧が高くなる?
ということは、緑内障というのは現代病なのかなと。
近年、インターネットなどの普及もあり、ビジュアルメディアの発展が目覚しいなかで、私たちは日々目を酷使しながら仕事や遊びをこなしています。それによって眼圧があがり、緑内障になって、最悪の場合は、ビジュアルメディアを見ることができなくなる。
ということは、もっと目を酷使しない生活をすればいい、ということになります。薄目をするくらいで、あまり注視しない。もしかしたら、それくらいの目の使い方のほうがいいのかもしせん。
だって、視力というのは、いろいろある感覚の中のたった一つの感覚なのですから、それだけに頼る必要はないのではないでしょうか?
ここまで書いて、一つの疑問が。
大昔の人は、野獣に食べられる危険に囲まれているわけですから、常に周りを注視してみていなくてはならなかったはず。獲物を捕まえるためにも、目を凝らすことが多かったはず。なら、大昔の人はもっと緑内障になって失明していた人が多かったはずなのに、あまりそういうことを聞いたことがありません。
それに対してとりあえず思いつく一つの答えは、昔は寿命が短く、目を酷使して緑内障になっても、寿命を迎えるまでにはまだ目が見えていたのではないかという考え方。
しかし、私は、別のことを考えます。
昔の人(もちろん全員が全員そうだったわけでなくて、全体としての傾向のことです)は、目だけで外界を把握していなかったのではないかということ。触覚、臭覚、聴覚、味覚、そして視覚(+第六感?)を総動員して、周りの変化をとらえ、対応していたのではないか。だから、現代はもっぱらビジュアル・メディアにさらされ、視覚という感覚を駆使するという偏った感覚の使い方をしているために、動物としての感覚が鈍いと感じる(物理的な危機管理能力に欠ける)人を結構見かけるのではないか。
ここまで書いてくると、つまりは、眼圧を下げる点眼などに頼らなくても、目を酷使しないようにして、他の感覚を使うように心がけることによって、緑内障の進行を抑えることができるのではないか、という仮説が生まれます。
ああ、でも、カメラが好きで、目を酷使することが趣味のような私などはどうすれば・・・。それは、自業自得なわけですから、せいぜい点眼を続けてみるしかないわけでしょうか。
でも、
ちょっと、気持ちだけでも、目をいたわってあげようと思う今日この頃です。
緑内障の人だけでなく、すべての人に通じるキャッチフレーズを思いつきましたので、最後に。
「視力以外の感覚でも、世界を感じるようにしよう!」
これって、私がテーマの一つとしている身体感覚に関係する話題です。
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