『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』
『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』(宮台真司+飯田哲也著、講談社現代新書、2011年)

今、原子力発電所が話題になっているので、このタイトルを見ると、原発問題というものに目が行ってしまうのですが、この本は、むしろ、2011年3月11日の大きな地震をきっかけとして起こった原発事故を契機に、これからの社会を考えていこう、原子力発電所を受け入れてきたことに象徴される「原発社会」というものから脱皮して、新しい共同体自治を考えていこう、という趣旨のもののようです。
先日このブログでも紹介した、東京電力による社内調査報告書である「福島原子力事故調査報告書」などを見て私などが単純に疑問に思う(というか違和感がある)のは、あれだけの事故を起こしておきながら、今後も原子力発電所を使い続けることを前提に、淡々と、安心・安全対策を行っていきますと書いていることです。今後のどれだけかかるかわからない補償問題があり、それに加えてこれから考えうる安全対策に膨大な費用がかかると考えると、対応にかかる費用次第では、原子力発電所を事業としてやめていくという可能性もあるということを、事故報告書に書いてあってもおかしくはないと思うのですが、そういう視点はないのですよね。
通常の会社であれば事業にかかわる保険をかけたりするのですが、原子力発電所には保険が適応されず、大きな事故が起こった場合には、国が肩代わりする仕組みになっているので、国が推進する限りは推進していきます。といった雰囲気ですが、国が肩代わりするということは、私たちの税金が使われるということなのですが。そういう原子力発電所を受け入れてしまっている社会って・・・?
閑話休題
この本の中で印象に残ったのは、就職当初、「原子力ムラ」の中で、原子力関係の仕事を疑問を感じながらもしっかりこなしたあと、ヨーロッパに渡って、自然エネルギー事情を学んだ飯田さんが、1996年、「市民によるエネルギー円卓会議」を主催し、東京電力の副社長勝俣さんと原子力資料情報室の高木仁三郎さんを招き、さらには通産省、文部省の官僚、審議会の学者、グリーンピースなどの環境NGO、つまりは、原発推進・反対の両派を呼んで、その段階で合意を創り上げたこと。その合意とは、
1 自然エネルギーを増やすこと
2 省エネルギーをすすめること
3 エネルギー政策の意思決定の場をもっと一般に開くこと
飯田さんが自ら、「今から見ると素朴な合意」と語っているものの、その段階で、「原発を推進したい東京電力と原発批判の環境NGOが、酒を飲みながら原発を議論し、でも太陽光は一緒にやろうという、初めてのコラボレーション」を3年間も続けていたことは驚きです。
明治維新以来、日本で進んできた中央集権型の物事の進め方、その象徴としての原子力発電所のことを考えされてくれるこの本の肝は、北欧のスウェーデンなどでは、電力が自由化され小規模な発電が自分たちの目に見える形で行われていて、どこから電力を買うかを選ぶことができると同時に、各家庭にスマートメーターという電気メーターが付いていて、電気料金の請求書にはグラフが同封され、各時間ごとの電力使用量と、ピークを避けるための時間別電気料金体系が掲載されて、前年同月との比較もできる。それを見ながら、家族や町工場の人たちが自分たちの生活や活動をどうしようかと相談している状態があるということを紹介してくれているところでしょうか。
つまり、エネルギー自治が、エネルギーのことだけでなく、自分たちがどういう生活をしていくかを考えるきっかけにもなっている。そして、そういうことは、もしかしたら、中央で考えるのではなく、それぞれの地方で、顔の見えるところで実践しながら考えていくことでこそ、変えることができるかもしれない。
エネルギーの在り方を考えることが、現在国が進めている地方分権ではなくて、地方が官民にこだわらずに主体性を持って自らの自治を考えていく地域主権のようなものにつながってく可能性があることについて考えさせてくれる本です。
今、原子力発電所が話題になっているので、このタイトルを見ると、原発問題というものに目が行ってしまうのですが、この本は、むしろ、2011年3月11日の大きな地震をきっかけとして起こった原発事故を契機に、これからの社会を考えていこう、原子力発電所を受け入れてきたことに象徴される「原発社会」というものから脱皮して、新しい共同体自治を考えていこう、という趣旨のもののようです。
先日このブログでも紹介した、東京電力による社内調査報告書である「福島原子力事故調査報告書」などを見て私などが単純に疑問に思う(というか違和感がある)のは、あれだけの事故を起こしておきながら、今後も原子力発電所を使い続けることを前提に、淡々と、安心・安全対策を行っていきますと書いていることです。今後のどれだけかかるかわからない補償問題があり、それに加えてこれから考えうる安全対策に膨大な費用がかかると考えると、対応にかかる費用次第では、原子力発電所を事業としてやめていくという可能性もあるということを、事故報告書に書いてあってもおかしくはないと思うのですが、そういう視点はないのですよね。
通常の会社であれば事業にかかわる保険をかけたりするのですが、原子力発電所には保険が適応されず、大きな事故が起こった場合には、国が肩代わりする仕組みになっているので、国が推進する限りは推進していきます。といった雰囲気ですが、国が肩代わりするということは、私たちの税金が使われるということなのですが。そういう原子力発電所を受け入れてしまっている社会って・・・?
閑話休題
この本の中で印象に残ったのは、就職当初、「原子力ムラ」の中で、原子力関係の仕事を疑問を感じながらもしっかりこなしたあと、ヨーロッパに渡って、自然エネルギー事情を学んだ飯田さんが、1996年、「市民によるエネルギー円卓会議」を主催し、東京電力の副社長勝俣さんと原子力資料情報室の高木仁三郎さんを招き、さらには通産省、文部省の官僚、審議会の学者、グリーンピースなどの環境NGO、つまりは、原発推進・反対の両派を呼んで、その段階で合意を創り上げたこと。その合意とは、
1 自然エネルギーを増やすこと
2 省エネルギーをすすめること
3 エネルギー政策の意思決定の場をもっと一般に開くこと
飯田さんが自ら、「今から見ると素朴な合意」と語っているものの、その段階で、「原発を推進したい東京電力と原発批判の環境NGOが、酒を飲みながら原発を議論し、でも太陽光は一緒にやろうという、初めてのコラボレーション」を3年間も続けていたことは驚きです。
明治維新以来、日本で進んできた中央集権型の物事の進め方、その象徴としての原子力発電所のことを考えされてくれるこの本の肝は、北欧のスウェーデンなどでは、電力が自由化され小規模な発電が自分たちの目に見える形で行われていて、どこから電力を買うかを選ぶことができると同時に、各家庭にスマートメーターという電気メーターが付いていて、電気料金の請求書にはグラフが同封され、各時間ごとの電力使用量と、ピークを避けるための時間別電気料金体系が掲載されて、前年同月との比較もできる。それを見ながら、家族や町工場の人たちが自分たちの生活や活動をどうしようかと相談している状態があるということを紹介してくれているところでしょうか。
つまり、エネルギー自治が、エネルギーのことだけでなく、自分たちがどういう生活をしていくかを考えるきっかけにもなっている。そして、そういうことは、もしかしたら、中央で考えるのではなく、それぞれの地方で、顔の見えるところで実践しながら考えていくことでこそ、変えることができるかもしれない。
エネルギーの在り方を考えることが、現在国が進めている地方分権ではなくて、地方が官民にこだわらずに主体性を持って自らの自治を考えていく地域主権のようなものにつながってく可能性があることについて考えさせてくれる本です。
