トンヤレ節の作曲者として語られる「君尾」を一先ずおいて、作詞者について進む前に、とりあえず、「勤皇女性」ものを最近のもの順に整理しておく。
<勤皇烈女>
小川煙村
良国民社(豊島区巣鴨2-35?)
1943年
<維新侠艶録>
井筒月翁
萬里閣書房(日本橋区元大工町12? 発行者 小竹即一?)
1928年
<維新祕史 英雄と女>
小野蕪史
東亞堂書房(神田区鍛冶町8番地 発行者 伊東芳次郎)
1912/05/15
<勤皇藝者>
小川煙村
日高有倫堂(本郷区金助町32(33?)番地 発行者 日高藤兵衛)
1910/06/04
もっとも古い「勤皇藝者」の作者、小川煙村( 1877 - )も経歴の一部しかうかがい知ることができない。後藤宙外( 1867/01/27 – 1938/06/12 )の「明治文壇回顧録」などにより仏書専門の出版社、柳枝軒の主にして、「國史大図鑑」を編纂したりするなど、古史、古美術にも造詣が深かった、「知識人」だったようだ。
<東京日日新聞社社会部>
また、井筒の「維新侠艶録」と同じ年に、東京日日新聞社社会部が「戊辰物語」を同じ萬里閣書房(日本橋区元大工町12 発行者 小竹即一)から編集発行している。奥付の編集発行の代表者には、部長だったからと思われるが、小野賢一郎となっている。同一人物かどうかは別として、近い存在だったことは想像に難くない。
<日本人のはじまり、幕末・維新物>
時代の雰囲気が伝わってくるともいえるが、今でも、各新聞社が様々な時代物。歴史物を特集したり、編集・出版したりしている。その中でも、幕末・維新物も、出版のみならず、テレビなどでも頻出しているので、「日本人」の嗜好でもあるのだろう。
明治は「日本」のはじまりだから「日本人」には当然なのかもしれない。
さて、「トンヤレ節」の作詞者、この曲の生まれた背景について考えてみたい。
<様々な節回し>
結論からいうと、作詞者は品川弥二郎ひとりでなく、多数の無名の人たちという方が正しいかもしれない。「唱歌」の父、品川弥二郎がそのようにのぞんだのだろう。近代にとって、うたとは何かということが、この話題の本質にある。
トンヤレ節の「うた」(歌詞・節回しともに)には、先行するものが既にあり、「流行トンヤレ節」から「トンヤレ唄」に、この「都風流トンヤレ節」になったと諸説あり、定かでない。
<国産西洋音楽一号>
最初の日本産の「西洋音楽」と言われたりもする。西洋といっても、歌詞は日本語なので、節回しが西洋なのだ。
<クニの音楽>
そうした、帝「國」軍もしくは帝「國」臣民を鼓舞する音楽の誕生だ。衝撃的だったに違いない。
<音楽とは――音楽には国境がないのだろうか?>
そもそも、音楽とは何だろうか。西洋音楽とか、邦楽とか、クラシックだ、現代だ、ポップだと区分するのだろうか。
「うた」は本源的なもの、魂に近いものとかいうが、とすれば、区分されるのは何故だろうか。歌詞が言語の違いに起因する音声や構文の違いによって「違う」のも、その一端を握るのだろうが、それだけの問題ではないことは確かだ。
<様々な歌詞―誰が誰に向かってうたったのか?>
その歌詞も、国立国会図書館に残っているものや早稲田大学に残っているもの等々、当時に近いもので史料となる歌詞はいくつかあるが、そもそもが、新政府・「官軍」を広く認知させる大衆化を狙ったこともあって、それぞれが微妙に違う。いつ、どこで、誰によって、誰に対して歌われたか、定かでなくなっている。
<最初の軍歌、国民歌―軍、そして、国民の誕生>
前述にように、最初の「軍歌」とも「国民歌」とも言われている。
「軍事」が武士の独占を離れ「軍」となり、「四民」が平等な「国民」が誕生した瞬間のものだから当然といえば当選だ。
でも逆にみれば、軍歌でない歌、国民歌でない歌との間にはどのような違いがあるのだろうか。
<二重三重、多重の思いと思惑>
いずれにしろ、どの歌詞も、どのバージョンがどの状況の下のものなのか、いかに考証して語るかで解釈が違うのだが、しばらく、愛唱歌として、さまざまに愛唱されたこともあり、結果的には巷間の諸説の混乱の基にもなっている。個々の違いの比較研究で論文にもなるかと思うほどだ。
単純な「官軍」讃歌でなく、猥歌を含めての替え歌が少なからずあるようだし、「官軍」を皮肉って(聴かれ、もしくは記録されて)いると考えられるものもある。
<転換期の痕跡>
混沌とした時代の残滓、まさに、世の中が引っ繰り返っていった時代の残滓があちらこちらにみられる。
さて、に進む前に、筆者は、いつものことながら、この項をはじめ、本テーマのもとになっている日本史についてはもとより、歌謡や古文、軍事の専門でもないので、誤認が多々あるかもしれない。できる限り調べているが、間違い等、ご指摘いただければ幸甚です。恐縮ですが、予めお断りしておきます。
<書記法の大転換>
歌詞の内容もさることながら、歌詞の書き方、つまりは、記述法や書記法にも、この時代、日本語が大きく変わっていった時代の残滓がみられる。書記言語、あるいは、書き言葉の大転換期だった。
印刷物であっても、今日と違って、書記法も「学校」や「新聞」で定格化されたものはなかった時代のものだ。よくもわるくも「往来物」の時代を脱していこうとしていた時代だ。
<書記法の平準化>
様々な記述法があった、いわゆる「江戸仮名・変体仮名」交じり文になっていて、複製・印刷されたものであっても、平準化された「活字体」ましてや「フォント」ではなく、「筆記体」だ。
しかも、行間や字間も一定しない現代の雑誌の吊り広告以上に自由奔放な「散り文」で作文されているものも少なくない。
<書く、読む、の平準化―日本語の誕生>
「日本語」が、加速度的に急速に、書人も、読む人も、一部の限られた人々同士のものから、量的に、質的に、そして地域的に拡大していった時代のものだ。
<四民平等・集権的国家の軸たる共通言語>
単純に書く人や、読む人が、個々別々に拡大したわけではない。身分や地域から離れ、「四民」が平等に、廃藩置県という中央集権国家へと向かって、御上・下々から官・民へ、とりあえずは「臣民」として「共有」する「書記法」が芽生え確立していった時代だ。
<国家の統合、言語の統合>
ミヤビト・僧侶・神職から士農工商までの各階層、本家から別家まで、天領から外様までの各藩、京都・江戸の二重ドーナツ構造が、標準化した大事件だ。
明治によって「帝國日本」の「臣民」と「官・民」が生まれ、1945年の「戦後」の「国民」、「公・私」の「標準語」に向かって、「国語」という「日本語」の形成が開始された時代だ。
「クニ」を形成するにあたって、他のどこの「クニ」にもまして、「言語」に大きな役割を担わせる、近代国家体制に、20世紀日本は突入したといえる。「日本国家」の誕生と「日本語」の誕生が不即不離だった。
<官軍、国軍の「合理」−話し言葉の平準化、標準語への始点>
予測の範囲を超えた重大な仕掛けもあった。日清・日露・太平洋戦争といった、近代軍、「国軍」形成によって、「書記法」のみならず「口頭言語」あるいは「話法」の「平準化」が飛躍的に進んだのはいうまでもない。
おくに言葉、「方言」の解体が始まった。まさに錦旗を掲げる「官軍」がその嚆矢だ。
<カレーから言語まで、衣食住の四民平等、標準の誕生>
カレーや制服、整髪等に象徴されるように「近代軍」は衣食住すべてにわたっての「標準化」、国家の「国家化」に寄与したように、その根幹を為す言語はいうまでもなく、全国の「四民」からの徴兵によって平準化していった。
<権威と権力の相補性>
人間社会というシステムの潤滑な稼働には「権威」と「権力」が必要だ。とりわけ近代国家の軍には強固な「権威」と「権力」が前提にあった。
<内に向けての権威と権力、外に向けての権威と権力>
「植民地」や「沖縄」とは別に、「本土」、自領土、自国民の前で実力を見せるのは「戊辰戦争」を最後にした日本の軍にとって、その後の、敵地にあっての「権威」と「権力」の維持の必要性は増しこそすれ、減ることはなかった。
<権力頼み、権威頼み――国家・軍への誘惑>
一方、国家の指導者が「権威」を失えば失うほど「力」への依存が高まり、軍の指導部もまた「力」を失うと自我自賛、自己陶酔でしかない「権威」を頼みとし、ともに、自国民への軍事態勢編入への誘惑に迷い込む。
<権威と権力の維持、誇示と表現の平準化と統制の間の薄膜>
軍事力が自国民へと向かう、いわゆる「治安国家」へと進み、それと両輪のごとく、「表現」すなわち「言語」への刈込も始まる。
このような「国家」や「軍」の存立の危機事態に至らなくとも、「言語」の標準化は、「言語」の統制や「表現」の統制といったものとの違いは薄皮一枚だ。
<権威にとっての歌舞音曲>
「楽部」が古代官制の中核組織であったように、「歌舞音曲」も古来より、非言語的な共有物として、逆にいえば、集団の統合を補強する、増幅器として、軸として機能してきた。
<国民唱歌の誕生>
わけても、国家、軍歌、行進曲から校歌まで、集団が作ってきた「唱歌」、音楽は格別だ。
そういった意味でも、「トンヤレ節」も納められたという、日本の「唱歌」の歴史は明治以降の日本国家の形成と不即不離だ。