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my website (03/08)
番外その2 トップ1000 全国の1,896の区・市・町・村のうち 二・三世代世帯が多かったり、人口が密集しているところ [2020年03月02日(Mon)]

外出を控え家に籠る状況が多くなってきたようなので、
平成27国勢調査(総務省統計局)を下に、全国の1,896の区・市・町・村で、二・三世代同居世帯が多いところや人口が密集(人口×人口密度)しているランキングをエクセルで作表してみた。
大きすぎて入りきらないので、前回、100位までのものを投稿したが、武漢での家庭内感染率の高さを示すWHO調査が報道されたこともあり、今回は、1000位までを10分割(100位毎)たものを改めて作ったので投稿する。

@クラスター1 1-100.pngAクラスター2 101-200.png
Bクラスター3 201-300.pngCクラスター4 301-400.png
Dクラスター5 401-500.pngEクラスター6 501-600.png
Fクラスター7 601-700.pngGクラスター8 701-800.png
Hクラスター9 801-900.pngIクラスター10 901-1000.png 

番外 全国の1,896の区・市・町・村のうち 二・三世代世帯が多かったり、人口が密集しているところ [2020年03月02日(Mon)]

外出を控え、家に籠る状況が多くなってきたようなので、
平成27国勢調査(総務省統計局)を下に、全国の1,896の区・市・町・村
二・三世代同居世帯が多いところ人口が密集(人口×人口密度)しているランキングをエクセルで作表してみた。
大きすぎて入りきらないので、二・三世代同居世帯が多い、上位1割の100位までをとりあえず掲載したい。

クラスター100.png
番外 新型コロナウイルス国内感染の状況 [2020年02月29日(Sat)]

久しぶりの投稿で、突然で恐縮ですが、多くのNPO関係者にも関係すると思われるので掲載いたします。(先程投稿した表の一部が投稿にあたり全人口数が女性分等になっていたため、差し替えました。傾向は殆ど変わりありませんが、申し訳ありませんでした。なお、本表と中国のものを比較したものを別途投稿します)

新型コロナウイルス国内感染 対人口・感染者数(年齢別)を作ってみた。
総理府と厚労省のデータを元に作られた東洋経済のHPを参照した。

現時点で判明している数字をベースにしているため母数が少なく、十分有効な数字とはいえないとおもうものの、、、
20歳未満よりは20歳以上が格段に高い
60歳台が最も高いが、若年層の他の年齢層もそれほど低くない、、、

典拠:

総理府 https://www.stat.go.jp/data/jinsui/pdf/202002.pdf

東洋経済 https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/コロナニホン.jpg



別なブログ、スピン・アウトもかね、始めました [2016年09月14日(Wed)]

休題中に、本ブログの「スピン・アウト」もかねて、
を始めました。
海外サイトのひろよみから始まって、注釈が拡大してし、カバーする範囲も、調べ、確認をとる範囲も広くなってしまいました。
新しいブログは「考える」ことを主体に、とりあえず、筆者にとってはnpoの隣接領域の一つである「スポーツ」について考えていきたいと思っています。
ご案内いたします。
補題――暦とは(その11)――旧暦対照表 全日版の少し長めの註釈その7―変わる言葉、変わる名前(改) [2016年05月30日(Mon)]

承前

前回の最後に記したように、このケプラーの第三法則を紹介するにあたって、いつものように原文から着手しようと思ったが、これからして難航した。

基礎的な本なので電子的にtext化されていると思っていたが、残念ながら、ない。それでもいくつかの図書館で原本の映像がPDF化されている。

ところが、肝心の該当箇所が、どこのものでも、映りが悪かったり、印刷が掠れていたり、汚れていたりする。しかも当該箇所はページを跨っていて、相互比較が厄介だった。

<字が変わる>

例えば、字が違う、「長いs」とよばれるものが滲んでいて「f」と見紛ったりする程ではないものの戸惑う。ラテン語で「s longa」英語では「long s, medial s, descending s」独語では「lange s」とよばれるものだ。long s を courier new や ariel のフォントで表すと右のようになる

Preview

現代英語のアルファベット26文字に対し、王政ローマ時代G J U W Y がなく、21文字だ。その後帝政時代にはG Y が増えるが、依然として、J U W がない。因みに、Yは「ī Graeca ギリシアのi」とよばれたりする。ちょうど日本語の「wa 」「wi 」「wu 」「we 」「wo 」のようなものだ。最近の「あ゛」とかも、いずれ55音図に入るかもしれない。 

<大文字から小文字への分化、区分符号や合字の消長>

また、今日の英語でいうところの majuscule 大文字から minuscule 小文字が派生する過程で、様々な文字が浮沈した。同様に、今日の欧州諸言語にも残った、いわゆる accent mark アクセント符号のような様々な diacritical mark 区分符号がついた文字や、「Æ, æ」のような ligature 合字も浮沈している。こうした文字もよくみないとわからないものも多い。

<発音、文法、単語も生成流転>

そして、文字自体が生成流転しているだけでなく、発音はもとより、文法も、単語変化している。当たり前のことだ。

<それぞれの時代、それぞれの地方のラテン語>

他の言語と比べて歴史の長いラテン語はそれなりに変化が多いし、筆者のような専門家でないものにとって、それぞれの時代や地方のラテン語の差異を厳密に理解したうえで読解するのは難しい。

言語は生き物だ。

<動くのが「人」の場合、「言葉」の場合>

人が動くことによってその土地の言語が急激に変化することもあるし、人が動かずとも村から村へとゆっくり変化することもある。日本のような島国で大陸の果て、という稀な「地勢」にない陸続きの多くの社会にとって、言語は始終変化している

<ユーラシア大陸の東西の離れ島>

もっとも、島国といっても、ユーラシア大陸の反対側、西端にある英国列島での諸言語の盛衰はその後の英語の世界制覇と相俟って激しく、日本と対照的だ。その過程は「世界の英語になるまでに」に詳しい。

<言語研究の限界>

基本的な問題として生き物である言語である以上、昔の言語の理解には限界がある。この日英の比較を試みても実際がどうであったかにかかわらず、次のような可能性もあるからだ。

@日本でも変化があったが史料が残っていない

A日本では資料が残るに至らないほど書記言語の発達が遅れた

B社会が従属的であったため独自の「言語」の発達が遅れた

C社会の文明化自体が遅れ「言語」の発達が遅れた

等々、史料が残ってない以上、厳密には精確な真相はわからない。

<隔離されるのは言語か人か>

とはいえ、いにしえより書記言語には力がある。昔書かれたSFには、書記言語を放棄した異星人の話があった。モーリス・ブランショは「書いてしまった者は解雇」されることを著し、ジャック・デリダは「文字帝国主義」を一冊の本にした。

 

<はじめは碑文研究>

当たり前だが、多くの昔の言語の研究は「ロゼッタ・ストーン」のように、碑文、石に書かれた文字言語、書記言語が中心だ。残っているからこその研究だが、話し言葉とのずれが、そもそもあるかどうかを含めて確かめようもなく、限界がある。

 

<石の世界、木の世界>

石による構造物が多い欧州社会と、日本のように、腐敗しやすい木などの構造物の多い社会とでは残されている書記言語に大きな差が出ることは否めない。

<権威と権力、権勢を伝える碑>

一方において、朽ちない碑は、手軽な木簡のようなものと違って、その重厚さ故に現世下々への周知のみならず後世への伝承のために使われた。権威や権力、権勢もしくは先代讃えたり、畏れたり、記録したりするものであった。その分、語彙も、表現法も限定的だ。

 

<記録に残る人名>

後述する人の名前についても、記録が残っている「セレブ」のそれも「男性」を中心とした名前を分析するしかないので、当時の実態の把握には限界がある。

既にして、ギリシア・ローマの時代から、千年たっても復古したように、多くの優れた彫刻や壁画が遺されている。にもかかわらず、アリストテレスやカエサルの名前を知っていても、彼らの顔が思い浮かぶだろうか。名は残っても、顔は残らない、のだろうか。

以前「ハリケーン・サンディ」のサイド・スートリーとして紹介し、未だにこのブログの訪問ページのトップを占めている「アレキサンダー」という名前の拡散と変遷をみても、名前というものの「妙」の一端が分かる。

<世界を制覇したアレキサンダー、世界に轟いたアレキサンダーの名>

あのアレキサンダー大王が「世界」を制覇したおかげで、「アレキサンダー」という名前は世界中に、今日に至るまで、様々な言語圏と男女の間を行きつ、戻りつ、多様な変形を伴いながら、実に2500年近く生きながらえ、広まった名前だ。

<自由に変化する人名、拠り所のある人名>

人名の変遷は辿りやすいこともあるが、変化が激しい。地名や普通名詞、ましてや他の品詞と違い、基本的には本人周辺の了解さえあれば成り立ち、自由度が高いといえよう。だが、逆にいえば、全くの創作というよりは、アレキサンダーからサンディが生まれたように、偉人や先祖など、何らかの拠り所が一方において求められ、微妙に変化していくものだ。

「命名」の妙だ。

続く


<この項、昨2016/5/31夜、古い原稿をulしたため欠落部等多く全面的に改訂しました。悪しからずご了解ください>


この項は、筆者が作成した、

旧暦・西暦・グレゴリオ暦・ユリウス暦・干支・六曜・七曜、対照表 全日版嘉永7年の元旦から明治6年の正月の晦日

の解説の一部です

この補題の最初は

補題――暦とは(その1)――旧正

です。

補題――暦とは(その6)――旧暦対照表 全日版の少し長めの註釈その3――紀年法と紀元、インディクティオの続き [2016年03月18日(Fri)]

承前

8.紀年法と暦法

さて、この連載では、注釈のための註釈のようなものが入れ子状態で続くこともあり、あえて、「紀年」とか「紀元」とかいう単語を無造作に註釈なしにすすめてきた。

「暦」に戻るにあたり(といっても未だに「連番――ユリウス通日」の註釈が続いている)そもそも暦とは何かを考える材料として「紀年法」から始めたい。

◎紀年法とは

○「紀」とは、

藤堂明保の学研「漢和辞典」によれば会意形声文字として『糸のはじめを求め、目印をつけ、そこから巻く。。。。。起こすと同系のことば』と解字している。

白川静の平凡社「字統」では「礼記」の『衆の紀(もと)なり。紀散ずれば衆亂る」の注「絲縷(糸すじ)の數の紀あるものなり」を引用して、『糸数をそろえてまとめることをいう』としている。

戸川芳郎の三省堂の「漢辞海」では「説文解字」から『糸の一方の端』「釈名」から『「紀」は「記」である。記して識(しる)すのである。』と成り立ちを引用している。

山口明穂の岩波の「新漢語辞典」では『「糸」+音符「己」(曲目のしるし)。糸に目じるしをつけて糸すじを分ける意』と解字している。

要は数学的にいえば、1(元(1)年であって「0」年ではない。いわゆる「数え」、序数方式と、0から始まる「周年」のような基数方式)の端から無限遠に延びる半直線のようなものだろうか。因みに下記のように元号は有限の線分のようなものだろうか。

○紀元、もしくは紀年法の3

広義の紀年法とはある年(紀元)からはじめての年の数え方、年代の表わし方だ。ヒト気のあるもから、カミがかり、観念的なものまで、古来よりある。英語では紀年法を calendar era 、紀元をepochという。

@人々の日常を左右するような「権力」、為政者、執政官、君主や天変地異毎にまつわった「元号」、「regnal yearの類。

A地におりてきた「神」にまつわるような、「権威」、キリスト生誕紀元=西暦= anno domini、仏滅紀元=仏暦、神武紀元=皇紀ローマ建国紀元 = AUC = anno urbis conditae 、世界創造紀元 = AM = annus mundi / ab origine mundiなどを基点にした狭義の「紀元」の類

B60年の干支や15年のインディクティオのような、「定まった」「自然」(太陽の周期・季節)の繰り返しの周期の類

殆どが太陽の周りを1周して多生の違いがあっても1年としているものが多いが、イスラム暦のようにそもそもの1年のとり方自身が違うものも留意しておきたい。

◎「暦法」と「紀年法」の違い

こうした「紀年法」と対にあるものとしての「暦法」だと、ユリウス暦、グレゴリオ暦、あるいは狭義の日本の「旧暦」などがある。

ただ、前二者はキリスト「紀元」、後者は日本のいわゆる「元号」と当然のように重なって使われているので、実際の用法、用語としては、混雑している。

◎紀元は後付け

しかし、紀年法の中でも、「紀元」といわれるものは、例えばユリウス暦は、古代ローマ、地中海世界において、キリスト=西暦紀元から用いられていなかったことに留意しなければならない。

○権威の熟成、もしくは促進剤

「権威」の熟成を待ってか、促進するために、いずれも数百年はおろか、千年以上経てから使われ始めたものだ。

○様々に、変わった紀元、と、変わらぬインディクティオ

最初にローマ建国紀元があったり、3世紀にディオクレティアヌス紀元が一時的にあったりして、6世紀に西暦紀元とともにユリウス暦が使われ始めた。そうした変遷の中で、先に紹介した、15年周期のインディクティオが長いこと併用されていた。

日本で、皇紀や元号よりは、人々にとっては六曜や干支のようなものが身近なものであったような感じだ。

こうした紀年法の併用こそに人間社会の本質があるかと思うが、別の機会にしたい。

○月と日、それ以上に、何が、何故、必要なのか?

そもそも、時間というものに関し、太陽と月の動きで支配される、月や日といった、自然環境の日常の変化を占ったり知ったりすること以外の「単位」を、人間が必要とするのか、必要とするのは何故なのか、再考すべきだ。実際「年」が使われている場面は限られている。

○人が「生きた」歳月、「生きる」歳月

どのような状況で、どういう理由で、ヒトは、1年以上の単位で、過去にしろ、未来にしろ、「とき」を知る必要があるのか、必要とさせられるのか。人は、ただただ、自分たちの生きた歳月、生きていく歳月を拠りどころに、紐帯を築いている。それ以上の何が必要なのだろうか。なぜ必要となったのか。

○家族からグローバル世界へ

いうまでもなく、個人や家族中心の生活から、村落から都市国家、国民国家へと「空間」が拡がり、グローバル世界になるにつれ「年」や「元号」、「紀元」が必要になってきたのだろう。空間とともに「権力」も拡がった。

○権威と人々

そして「権威」もまた、人々の共生に欠かせないものになるにつれ、「時間」に、「紀元」に、寄り添った。権威は、為政者、祭祀者、だけでない、ほかいびと、まれびと、常民、そうした人々すべてが権威に寄り添ってきた。「権威」とともに時間も延びた

◎紀年法と記録

紀年法は記録のため、chronology 編年のために編み出された。なぜ記録するか、なにを記録するか、だれが記録するか。なぜ過去への記憶では駄目なのか。なぜ未来への想いでは駄目なのか。

一つ目の周期、15年はここで留めておこう。

続く


この項は、筆者が作成した、
の解説の一部です
この補題の最初は

です
米国npo活動の多文化性(9)―戦後世界の再編。市場とガバナンス中口上 [2015年12月08日(Tue)]



さて、いつもながら、「米国npo活動の多文化性」も長くなってきたので、とりあえず、この項のこれまでの記事を一覧すると同時に中口上です。


<これまでの目次>



<npo、米国からの二つの流れ><戦後復興、災害復興支援と開発支援><市場とガバナンスの交錯><宗教世界、世界宗教>


<世界化><世界の寿命><人間の寿命、世代の継承><組織の命脈>


<最古のクニ、日本――皇紀><天地明察――西暦紀元前660年><最長のクニだったエチオピア><異国のシバの女王><生き死にが見えないクニ><クニの連続性とは><天下一><天と地の狭間のヒト――混沌の創世神話とクニ><異人との出会い、クニの誕生><為政者の連続性とクニの連続><朝廷ーー為政者一族><振り向けば親戚――西欧の王族><英国の場合――再びクニとは>


<なぜ、ウィンザー家か。英国とドイツの戦争><西欧の世界秩序、米国の世界秩序><皇帝の自由主義――学術振興><皇帝の侮蔑と計算――黄禍論><迫る東洋、団結する西洋――プロパガンダ><有頂天になった為政者の自己確認><欧州の「自由」から引き渡された米国の「自由」の女神><被征服民族、解放奴隷への優位性ーーたかが帽子されど帽子><王制と共和制――クニの断続、革命><マリアンヌ、自由の女神――無辜の民><第一次大戦――従妹同士の戦い><大英帝国――ビクトリア女王とその系譜>


<ビクトリア女王の系譜><英国王室の閨閥><ジェームズ1世=ジェームズ6世――イングランドとスコットランド><欧州の閨閥><為政者にとってのクニ、人々にとってのクニ><クニとは何か――大国、文明とは><中国共産党幹部の課題図書><ソフト・パワー><アーミテージ・ナイ・レポート><大国の興亡><文明の衝突><中国共産党の世界観><変革期社会の政治秩序><若者よ、マルクスを読もう><フラット化する世界><ビッグデータの正体><暮らしの質を測る><地球の論点><キッシンジャー回想録>


<国名><大日本帝國><国号><政体?><自称と他称><メキシコ/アメリカ合衆国><様々なアメリカ><ユーエヌもオヌゥも皆、国連>


◆陸軍大学校第55期に三笠宮崇仁親王<オリエント学者><間もなく100歳><天皇親政、政と軍><29歳まで軍人><日本陸軍の終焉――1945/11/30><軍旗、聯隊旗の奉焼><権威と権力の象徴、軍旗><錦の御旗><官軍と賊軍を分かつもの><秘密裏に用意された錦の御旗><微妙に綻びのある解説><近現代史にとっての真実><生々しい過去><官製の歴史><歴史の定着><物証の岐路><軽重を超える拡散><明治百年記念><錦の御旗の意匠とは>


<トンヤレ節><陸軍の祖―大村益次郎><出版人夫人―田中治兵衛夫人><勤皇芸妓――中西君尾><佐幕、勤王、勝てば官軍><人語り、物語り、そして歴史><革命――魁傑そして魁儡><維新侠艶録><女のための維新史><勤皇藝者><実話物><小野蕪子もしくは小野賢一郎><ジャーナリスト、小野賢一郎――陶人・俳人、小野蕪子><京大俳句事件><傷ましい過去、生々しい現在><さかさ>


<勤皇烈女><維新侠艶録><維新祕史 英雄と女><勤皇藝者><東京日日新聞社社会部><日本人のはじまり、幕末・維新物><様々な節回し><国産西洋音楽一号><クニの音楽><音楽とは――音楽には国境がないのだろうか?><様々な歌詞―誰が誰に向かってうたったのか?><最初の軍歌、国民歌―軍、そして、国民の誕生><二重三重、多重の思いと思惑><転換期の痕跡><書記法の大転換><書記法の平準化><書く、読む、の平準化―日本語の誕生><四民平等・集権的国家の軸たる共通言語><国家の統合、言語の統合><官軍、国軍の「合理」−話し言葉の平準化、標準語への始点><カレーから言語まで、衣食住の四民平等、標準の誕生><権威と権力の相補性><内に向けての権威と権力、外に向けての権威と権力><権力頼み、権威頼み――国家・軍への誘惑><権威と権力の維持、誇示と表現の平準化と統制の間の薄膜><権威にとっての歌舞音曲><国民唱歌の誕生>


最初の口上のように、この項では、米国のnpo活動の多文化性を通じ、日本のNPO、NPO活動の多文化性について考えてみたいと思っています。


<戦前、戦後を通じての日米関係>


何故、日米か、何故多文化性かといえば、最初の記事の通り第二次大戦後、そして、明治以降の戦前も、日本というクニにある、日本のnpo活動が、20-30年おきくらいを節目にして多分に米国の「関係下」にあると思われるからです。


<クニとマーケット>


それは、npoを「囲む」クニ=国やマーケット=市場の在り方において、日米が相同的であるかと思われるからです。


<会社>


何故かといえば、非営利=NPOは営利=POに対する相補的、一対になった概念であるからです。財団法人をはじめとする法人が「法人法」が「民法」から離れて「会社法」に接近しているように、その相補性は増すことすれ減じてないと思われます。


<政府>


また、NGOがNPOと接近している日本において、非政府=NGOも政府=GOに対する相補的、一対になった概念であるからです。対外的にクニ同士の連合や同盟が複雑化している現在、クニの内部での政府が強調されていく傾向にあってなおさらなことと思われるからです。


<組織>


それはさらにいえば、本ブログが他の項でも追求しようとしている、NPO、PO、NGO、GO、に共通するO=組織において、西欧に発して、米日ともに急展開した「組織」の相同性があるからと思われるからです。


<法人>


とりわけ、世界中が先進国も、途上国も「自然人」の繋がりである、地縁、血縁といった従来の縁が解体していく現在、「組織」とりわけ「法人」が浮き上がりがちな今日重要なことと思われるからです。


<文化>


組織も縁も、ヒトの育む「文化」として、その糸口に「多文化性」を基点に考えたいと思っています。


さて、本題に戻ります。


<文部省の布達>


明治の始め、文部省は次のような通達を出している。いわば、以前出した法に制限を設けるものだ。


文部省布達全書. 明治六年

第八拾七號

六月十四日

外國教師雇入ニ付心得ノ箇條第一雇入期限云々條下

追加

西教伝教師ヲ学校教師トシテ雇入ベカラズ


<御雇外国人>


御雇外国人のことだ。


御雇外国人は最大期に近いと思われる、この布達の頃から四半世紀、政府のお雇い外国人の全体がおよそ500-600人から100人強、そのうち「学術・教師」が100人前後を保ちつづける。


<学術・教師>


1880年代に入って総数が200人前後まで落ち込んだので、半分近くが「学術・教師」になり、1890年代半ばには総数が100人前後となり、つまりは大半が「学術・教師」となった。


因みに、この統計は「大日本帝国統計年鑑」によるものだそうで、「学術・教師」の他は「技術」「事務」「職工」「雑」で「職務」が5分類されている。


<様々な雇手>


「御」雇外国人の「御」は幕府が雇うものだから付いているというのが精確な由来・用法だそうだが、他の用語同様時のみならず使い手によって変わる。ここでは、新政府は勿論のこと、幕府・各藩、「民間」雇用を含めたものとして、緩い概念で記述したい。御雇外国人そのものについては、機会があれば、原初「おもてなし」として詳述したい。


<絶大な注力>


とまれ、お雇い外国人については政府関係だけをみても、@大きな人数であったこと、さらに、A報酬についても、これも厳密な額に関しては種々の考証があるが、なべて、極めて桁違いに高額であり、B予算総額においても、旅費や住居費を含まれることもあって、極めて、大きな比重を占めていたことは間違いないといえる。


<細心の留意>


また、C出身国は多岐にわたっているし、D基本的に周りや本人がいかに望んだとしても最初の契約期限を延長しなかったようだ。


<クニ造り>


明治維新、如何に、懸命に、外国の支援ではなく、自前のなけなしの資力をもって、大量の人数を、法外な金額で、一挙に、そして、どこまで意識的かどうかは別として、それぞれの国々や周囲の人々が過剰な影響力を及ばし、「主権」を侵害させないように、分散して、一期・短期間の間にメンター、教授、教員、インストラクターを雇いこみクニ造りしたことが分かる。


<伝教師の排除>


そして、冒頭の通り、その中でも「脅威」を潜在させると考えた西教伝教師の「外國教師」をまさに、国家として本格化する矢先に、混乱を恐れず、周到に禁じた。


<クニ作りの基本――教育>


廃仏毀釈や禁教令のような荒々しいものではないが、「異教」への警戒はクニ作りの基本である「教育」の策定当初からあった。


<音楽教育の妙>


中でも、今日にいたるまで、諸外国ではあまり例をみない国家による「音楽」教育、「唱歌」と命名された教科は、新国家の学校での教育科目の一つとして組み込まれた一方、実際稼働し始めたのが遅いのは他の理由も様々あるが、慎重さを物語る。


<権威の力づけ>


それはクニであろうと、宗教であろうと、軍隊であろうと、それら「権威」に現実的な力を与えるには「歌舞音曲」が重大な役割を果たすからであろう。


<西洋音楽と西教>


そして西洋音楽と西教は切っても切れないものだ。「国民唱歌」であれ、行進曲であれ、軍歌であれ、大義が西教をベースにしている以上、「唱歌と十字架」という著書でも指摘されているように、「国民唱歌」の元歌が讃美歌だったり、讃美歌や宗教歌が加味されているのは、意図されたかどうかは別として、避けられないものだったのは明らかだ。


 



<西洋事物――音楽>


言語は新生「日本語」として統合できたが、「音楽」はもともと、避けがたく西洋のモノだった。この矛盾に近いものと格闘した関係者の奮闘の残滓があちらこちらにみられる。


<国旗、国歌>


本項は、「歌」と「旗」を中心に「多文化性」を考えようとしている。かつて日本で「国歌」と「国旗」が話題になったが、いうまでもなく、ともに、明治起源だ。


続く
米国npo活動の多文化性(8)――日本国、日本語の誕生と唱歌 [2015年12月03日(Thu)]



トンヤレ節の作曲者として語られる「君尾」を一先ずおいて、作詞者について進む前に、とりあえず、「勤皇女性」ものを最近のもの順に整理しておく。


<勤皇烈女>

小川煙村

良国民社(豊島区巣鴨2-35?)

1943




<維新侠艶録>

井筒月翁

萬里閣書房(日本橋区元大工町12? 発行者 小竹即一?)

1928




<維新祕史 英雄と女>

小野蕪史

東亞堂書房(神田区鍛冶町8番地 発行者 伊東芳次郎)

1912/05/15


<勤皇藝者>

小川煙村

日高有倫堂(本郷区金助町32(33?)番地 発行者 日高藤兵衛)

1910/06/04


もっとも古い「勤皇藝者」の作者、小川煙村( 1877 - )も経歴の一部しかうかがい知ることができない。後藤宙外( 1867/01/27 – 1938/06/12 )の「明治文壇回顧録」などにより仏書専門の出版社、柳枝軒の主にして、「國史大図鑑」を編纂したりするなど、古史、古美術にも造詣が深かった、「知識人」だったようだ。


<東京日日新聞社社会部>


また、井筒の「維新侠艶録」と同じ年に、東京日日新聞社社会部「戊辰物語」を同じ萬里閣書房(日本橋区元大工町12 発行者 小竹即一)から編集発行している。奥付の編集発行の代表者には、部長だったからと思われるが、小野賢一郎となっている。同一人物かどうかは別として、近い存在だったことは想像に難くない。




<日本人のはじまり、幕末・維新物>


時代の雰囲気が伝わってくるともいえるが、今でも、各新聞社が様々な時代物。歴史物を特集したり、編集・出版したりしている。その中でも、幕末・維新物も、出版のみならず、テレビなどでも頻出しているので、「日本人」の嗜好でもあるのだろう。


明治は「日本」のはじまりだから「日本人」には当然なのかもしれない。


さて、「トンヤレ節」の作詞者、この曲の生まれた背景について考えてみたい。


<様々な節回し>


結論からいうと、作詞者は品川弥二郎ひとりでなく、多数の無名の人たちという方が正しいかもしれない。「唱歌」の父、品川弥二郎がそのようにのぞんだのだろう。近代にとって、うたとは何かということが、この話題の本質にある。


トンヤレ節の「うた」(歌詞・節回しともに)には、先行するものが既にあり、「流行トンヤレ節」から「トンヤレ唄」に、この「都風流トンヤレ節」になったと諸説あり、定かでない。


<国産西洋音楽一号>


最初の日本産の「西洋音楽」と言われたりもする。西洋といっても、歌詞は日本語なので、節回しが西洋なのだ。


<クニの音楽>


そうした、帝「國」軍もしくは帝「國」臣民鼓舞する音楽の誕生だ。衝撃的だったに違いない。


<音楽とは――音楽には国境がないのだろうか?>


そもそも、音楽とは何だろうか。西洋音楽とか、邦楽とか、クラシックだ、現代だ、ポップだと区分するのだろうか。


「うた」は本源的なもの、魂に近いものとかいうが、とすれば、区分されるのは何故だろうか。歌詞が言語の違いに起因する音声構文違いによって「違う」のも、その一端を握るのだろうが、それだけの問題ではないことは確かだ。


<様々な歌詞―誰が誰に向かってうたったのか?


その歌詞も、国立国会図書館に残っているものや早稲田大学に残っているもの等々、当時に近いもので史料となる歌詞はいくつかあるが、そもそもが、新政府・「官軍」広く認知させる大衆化を狙ったこともあって、それぞれが微妙に違う。いつどこで誰によって誰に対して歌われたか、定かでなくなっている。


<最初の軍歌、国民歌―軍、そして、国民の誕生>


前述にように、最初「軍歌」とも「国民歌」とも言われている。


「軍事」武士の独占を離れ「軍」となり、「四民」が平等な「国民」が誕生した瞬間のものだから当然といえば当選だ。


でも逆にみれば、軍歌でない歌、国民歌でない歌との間にはどのような違いがあるのだろうか。


<二重三重、多重の思いと思惑>


いずれにしろ、どの歌詞も、どのバージョンがどの状況の下のものなのか、いかに考証して語るかで解釈が違うのだが、しばらく、愛唱歌として、さまざまに愛唱されたこともあり、結果的には巷間の諸説の混乱の基にもなっている。個々の違いの比較研究で論文にもなるかと思うほどだ。


単純な「官軍」讃歌でなく、猥歌を含めての替え歌が少なからずあるようだし、「官軍」を皮肉って(聴かれ、もしくは記録されて)いると考えられるものもある。


<転換期の痕跡>


混沌とした時代の残滓、まさに、世の中が引っ繰り返っていった時代の残滓があちらこちらにみられる。


さて、に進む前に、筆者は、いつものことながら、この項をはじめ、本テーマのもとになっている日本史についてはもとより、歌謡や古文、軍事の専門でもないので、誤認が多々あるかもしれない。できる限り調べているが、間違い等、ご指摘いただければ幸甚です。恐縮ですが、予めお断りしておきます。


<書記法の大転換>


歌詞の内容もさることながら、歌詞の書き方、つまりは、記述法書記法にも、この時代、日本語が大きく変わっていった時代の残滓がみられる。書記言語、あるいは、書き言葉の大転換期だった。


印刷物であっても、今日と違って、書記法も「学校」や「新聞」で定格化されたものはなかった時代のものだ。よくもわるくも「往来物」の時代を脱していこうとしていた時代だ。


<書記法の平準化>


様々な記述法があった、いわゆる「江戸仮名・変体仮名」交じり文になっていて、複製・印刷されたものであっても、平準化された「活字体」ましてや「フォント」ではなく、「筆記体」だ。


しかも、行間や字間も一定しない現代の雑誌の吊り広告以上に自由奔放な「散り文」で作文されているものも少なくない。


<書く、読む、の平準化―日本語の誕生>


「日本語」が、加速度的に急速に、書人も、読む人も、一部の限られた人々同士のものから、量的に、質的に、そして地域的に拡大していった時代のものだ。


<四民平等・集権的国家の軸たる共通言語>


単純に書く人や、読む人が、個々別々に拡大したわけではない。身分や地域から離れ、「四民」が平等に、廃藩置県という中央集権国家へと向かって、御上・下々から官・民へ、とりあえずは「臣民」として「共有」する「書記法」が芽生え確立していった時代だ。


<国家の統合、言語の統合>


ミヤビト・僧侶・神職から士農工商までの各階層、本家から別家まで、天領から外様までの各藩、京都・江戸の二重ドーナツ構造が、標準化した大事件だ。


明治によって「帝國日本」の「臣民」「官・民」が生まれ、1945年の「戦後」「国民」「公・私」「標準語」に向かって、「国語」という「日本語」の形成が開始された時代だ。


「クニ」を形成するにあたって、他のどこの「クニ」にもまして、「言語」に大きな役割を担わせる、近代国家体制に、20世紀日本は突入したといえる。「日本国家」の誕生「日本語」の誕生不即不離だった。


<官軍、国軍の「合理」−話し言葉の平準化、標準語への始点>


予測の範囲を超えた重大な仕掛けもあった。日清・日露・太平洋戦争といった、近代軍、「国軍」形成によって、「書記法」のみならず「口頭言語」あるいは「話法」の「平準化」が飛躍的に進んだのはいうまでもない。


おくに言葉「方言」解体が始まった。まさに錦旗を掲げる「官軍」がその嚆矢だ。


<カレーから言語まで、衣食住の四民平等、標準の誕生>


カレーや制服、整髪等に象徴されるように「近代軍」衣食住すべてにわたっての「標準化」国家の「国家化」に寄与したように、その根幹を為す言語はいうまでもなく、全国の「四民」からの徴兵によって平準化していった。


<権威と権力の相補性>


人間社会というシステムの潤滑な稼働には「権威」と「権力」が必要だ。とりわけ近代国家の軍には強固な「権威」と「権力」が前提にあった。


<内に向けての権威と権力、外に向けての権威と権力>


「植民地」や「沖縄」とは別に、「本土」、自領土、自国民の前で実力を見せるのは「戊辰戦争」を最後にした日本の軍にとって、その後の、敵地にあっての「権威」と「権力」の維持の必要性は増しこそすれ、減ることはなかった。


<権力頼み、権威頼み――国家・軍への誘惑>


一方、国家の指導者が「権威」を失えば失うほど「力」への依存が高まり、軍の指導部もまた「力」を失うと自我自賛、自己陶酔でしかない「権威」を頼みとし、ともに、自国民への軍事態勢編入への誘惑に迷い込む。


<権威と権力の維持、誇示と表現の平準化と統制の間の薄膜>


軍事力が自国民へと向かう、いわゆる「治安国家」へと進み、それと両輪のごとく、「表現」すなわち「言語」への刈込も始まる。


このような「国家」や「軍」の存立の危機事態に至らなくとも、「言語」標準化は、「言語」の統制や「表現」の統制といったものとの違いは薄皮一枚だ。


<権威にとっての歌舞音曲>


「楽部」古代官制の中核組織であったように、「歌舞音曲」も古来より、非言語的な共有物として、逆にいえば、集団の統合を補強する、増幅器として、として機能してきた。


<国民唱歌の誕生>


わけても、国家、軍歌、行進曲から校歌まで、集団が作ってきた「唱歌」、音楽は格別だ。


そういった意味でも、「トンヤレ節」も納められたという、日本の「唱歌」の歴史は明治以降の日本国家の形成と不即不離だ。


米国npo活動の多文化性(7)――トンヤレ節と勤皇、人語り、物語り、そして歴史 [2015年11月30日(Mon)]



<トンヤレ節>


前回紹介した錦の御旗を喧伝する「トンヤレ節」は当時流行になったらしい。

<誰が、作詞、作曲したか>


作詞については橋本八郎こと品川弥二郎作曲大村益次郎( 1824/05/30 – 1869/12/07 )、もしくは、田中治兵衛夫人や「勤皇芸妓」の中西君尾( 1844 – 1918 (大正7))、などと諸説ある。


作曲したといわれる3名。


<陸軍の祖―大村益次郎>


大村益次郎は長州藩の村医の長男として生まれ、緒方洪庵の適塾初代塾頭をつとめたりした後、「西洋式」軍事に長じ、奇兵隊をはじめとする軍人・軍隊の育成者となり、初代・兵部省大輔帝國陸軍の祖といわれるようになった、西洋医にして軍人。


これまでにない西洋式軍隊育成に当たって、西洋式行軍のため音楽、楽隊の創設に尽力した。


<出版人夫人―田中治兵衛夫人>


田中治兵衛夫人の経歴は不詳だが、田中治兵衛自身は品川編集の「幽室文稿」吉田松陰遺稿集、そして「有職故実必携装束図式」のような「往来物」、いわゆる「近代学校教育」以前の時代の手本・教科書類、の著者・出版人。


京都寺町通り「知識人」にして出版人


<勤皇芸妓――中西君尾>


中西君尾は園部藩八木に生まれ、京都祇園新地置屋「島村屋」の芸妓として数々の幕末の志士との逸話がある。小川煙村の「勤皇芸者」井上月翁の「維新侠艶録」でよく描かれている。「勤皇芸者」として頼まれ、佐幕派の島田左近と交際したり、新選組の近藤勇を袖にしたりした。


辞世の句。


「白梅で ちよと一杯 死出の旅」


少し脇に逸れるようだが、ここで、この君尾を巡るいくつかの記録があるが、その背景を考えてみたい。


<佐幕、勤王、勝てば官軍>


幕末維新の史料・資料は当時より今日にいたるまで多い。「戦前」も維新直後から第二次大戦・大東亜戦争中の「戦中」まで、幾度かのがあるようだ。


無論「勝てば官軍」だし、1945年まで、政権の連続性があるので、勤皇ものが多い


幕末、女性たち、芸妓もまた、職業上の行き掛り以上に、佐幕派と勤皇派、様々に、分かれていた。勤王婦人、勤王芸者ものも少なくない。


<人語り、物語り、そして歴史>


様々な人が人を語り時代を語り、揺らぎながら、物語りとなっていく。語られる人も、語っている人も、それぞれの時代を生きている。


そして、穏やかな時代ですら、直截なインタビュー形式になると、語りから記述となって、オーラル・ヒストリーとして歴史となっていく。インタビューされるインタビュィー、インタビューするインタビューアーそれぞれの時代が絡み合って錯綜したものになる。


<革命――魁傑そして魁儡>


ましてや、革命の時代は激烈だ。時代に先駆け人が語り物語りとなっていく。


勝てば官軍、そう思った方が良いのかもしれない。日本の近代化は明治戦争敗戦という驚天動地の革命が二転三転と起きて、一貫しているようだが、「官軍」も二転三転している。


魁傑に、魁儡に、渠魁に、と転じていく。


<維新侠艶録>


さて、君尾が物語となっている、井筒月翁の「維新侠艶録」(1928昭和3年)から、近藤が君尾を口説いたときの君尾の応えを引用したい。「維新侠艶録」は中公文庫から復刊( 1988 )されている。


明治維新から60年後、君尾逝去から10年後の萬里閣書房からの出版だ。61編をまとめた「維新侠艶録」と、短編「品川楼の嘉志久」「清河八郎の妾」の3作が収録されている。


<「近藤様、お話は身にしみて有難うございます。したが(でも)、あなた様は幕府方、ここで禁廷様の御味方をなさるようなら、不東(ふつつか)ながら私、喜んで御言葉に従いまする」>


さらに、君尾が勤王派の座敷に出ていたため、壬生の屯所まで引き立てられ荒い尋問をうけていた。


≪その夜の物凄かったことを、君尾は身を傑わしてよく語った。闇の中の抜刀、槍の穂先 

そこへ近藤かやってきた。「おや、あなた様は」というわけで、近藤は部下から、あらましを聞いてから君尾の縄目をといてくれた。「君尾、お前はやはり意地を立て通すのだな。よしよし、帰れ帰れ、何も言わんでいい。ただ君尾、新撰組は女子供を殺しなんかはしないから、そこのところはよく承知してくれ」

君尾は駕籠で、ていねいに送られた。≫()内は筆者。


<女のための維新史>


この「維新侠艶録」は「序」に


「男」のための維新史は多い。「女」のための維新史ありや

今は昔、二十年も前、京洛鴨東に中西君尾と会し、浪華南地に富田屋お雄と語る。いずれも談屑維新の渦中を出でず、順序もなくノートせるもの、この冊子の骨となる。

史実としてみるには無論不充分であろう。しかし一夕の感興としてのみ聞き捨つるにはあまりに惜しい。トコトンヤレ時代の名妓が舌頭に弄する維新前後の達引、果たして史家はこの記述をうべなうや否や、色即是空、空即是色「女」のための維新史

気組みは大きいか内容は果たして如何。

萬里閣書房に話して版木に載せ江湖に問うこと然り。

昭和戊辰冬日≫


とあり、「歴史物」だ。例えば、君尾の死後10年だということなど、話の真偽については、異論もあるにもかかわらず、幕末・維新物で、この著書よりよく引用されている逸話も少なくない。


そして、例えば、この「維新侠艶録」では、件のトコトンヤレ節を、


君尾が登茂恵家という店をもったころ、品川弥二郎がよくやってきたが、その時品川が唄をつくり君尾が節付をしたもの≫


としている。


<勤皇藝者>


この本は自体、この本より先に出版された、小説家・戯曲家、小川煙村(多一郎)( 1877/09/25 - ? )の「勤皇藝者」(1910)を参考にしているともいわれている。明治維新から42年、君尾66歳の発刊だ。


当該部分をみてみよう。


天子様の爲にお盡し下されば、禁裡様の御代にするやうにお骨折り下さらば君尾は貴客(あなた)の仰有る通り、身も心をも差上げますよ


≪「何れ其方(そち)は手剛(てごわ)い奴だから」近藤は微笑を含みつつ「存ぜぬといふたら存ぜぬで通すだろ、したが、君尾、新撰組は無uの殺生は致さぬ、、女風情殊に藝妓(げいしゃ)の一人(にん)殺して生かして、ハヽヽ其方の生命を取らぬから安心せい、唯知ってる丈(だ)け聞かしてくれよ」≫


微妙に「維新侠艶録」と違う。


<実話物>


この「勤皇藝者」は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から採録したが、奥付の後に数頁にわたり発行元の「日高有倫堂」の出版書目の広告が掲載され、「勤皇藝者」自体も紹介されている。最後の方にこう記してある。


≪、、、著者が事實の調査に半歳を費やせしものにして、一事、一話も維新の活資料ならざるなし≫


君尾など、同じ、人物へのインタビューだから、微妙に違って、微妙に同じなのかもしれない。「参考」の程度が微妙だ。


<小野蕪子もしくは小野賢一郎>


実は、この作者、井筒月翁は、俳人、小野蕪子(賢一郎)( 1888/07/02 – 1943/02/01 )と同一人物だとする説もあるが、確証を得られなかった。数十年前の「出版ニュース」で謎の「井筒」を解明している文もあるらしい。小野賢一郎だとすると1928年の「維新侠艶録」は40歳のときだ。


<ジャーナリスト、小野賢一郎――陶人・俳人、小野蕪子>


本名、小野賢一郎の他、小野蕪子、小野蕪史で知られた多才な人物であったようだ。


1888年、福岡県遠賀郡蘆屋村生まれ。代用教員の後、「朝鮮日報」、「朝鮮タイムス」、1908「毎日電報社(後1911に東京日日新聞社に吸収)」記者、事業部長、社会部長、1938「社団法人東京放送局(後にNHK)」文芸部長、業務局次長兼企画部長。小説「溝」( 1911 )「蛇紋」( 1912 )を東京日日新聞で連載。


陶芸・古美術評論家としても一目おかれ『陶器大辞典』全6巻『陶芸全集』25巻( 1931 – 1933 )も刊行。


俳句は高浜虚子、村上鬼城、原石鼎らの指導を受け、大正8年、「草汁」創刊。第二次世界大戦中は、日本俳句作家協会常務理事を務め、評価も高かったようだ。




<京大俳句事件>


しかし、まさに、俳壇の実力者として、戦中の1940(昭和15)年、他派閥を圧倒せんがために、新興俳句プロレタリア俳句を弾圧した京大俳句事件の黒幕、特高警察への密告者として今日では疎まれている。戦中、1942年逝去




<傷ましい過去、生々しい現在>


この事件は俳壇に生々しい傷を遺したようだ。俳壇の派閥争い思想弾圧が加味され、関係者によって様々に語られる一方、沈黙もあり、真相が今一つ不明瞭なこともある。


俳句というもの自体が持ち得る本来的な生々しさのせいか「俳人」たちの生々しさが見え隠れする。


<さかさ>


五木寛之「さかしまに」( 1975/05 – 1975/06 オール讀物)はこの事件をベースにしている。この1940年前後の時代は、この作品の中で「転向」した人物の逆句に象徴されているといえよう。二転三転する時代だ。


かの男子新妻置きて弾も見き




休題『天地人その2の3/3(後)「人―戦争という人災」―休題の本』から本題『米国npo活動の多文化性(7)――「御旗」という権威』へ [2015年11月07日(Sat)]

<承前>(休題から)
<承前>(本題から)

岩波新書のアンコール復刊陸大卒にして元日本帝國陸軍参謀林三郎によって戦後間もない頃に書かれた「太平洋戦争陸戦概史」の紹介するのも、「休題」なので、できれば、今回と次回をもって終いにしたいと思っていた。

しかし、「近代日本」に関しては、近いようで遠く、思い込みも含めて、タイトルや紹介のみでの誤解が生じることも多く、原文で紹介されることが少ないと思われる時代的文書を、そのまま採録することが必要なものも多く、そして、本題と本質的に関係することもあり、なかなか終いにできない。

今回から、休題の続きとして、日本陸軍幹部中の幹部を生んだ陸大の卒業生の紹介の後半として、「皇族」の陸大卒業生について紹介し、これを軸に、日本が「明治」において「近代」国家になっていった過程、大日本帝國憲法下の戦前、そして戦後から、戦争についてみてみながら、本題の続きとして「権威」とは何かを考えていきたい。

◆陸軍大学校第55期に三笠宮崇仁親王( 1915/12/02 - )

<オリエント学者>

大正天皇(1879/08/31 – 1926/12/25 )と貞明皇后(1884/06/25 – 1951/05/17 )の四男、末子皇位継承順位第5位

戦後、東京大学文学部研究生として「古代オリエント史」専攻、オリエント学会創設に参加、(財)中近東文化センターの初代総裁。正真正銘、日本のオリエント学のリーダーだ。



<間もなく100歳>

○親王は現在、白寿で、間もなく、来月の12月2日をもって、百歳に。皇族では最年長であり、長年にわたる学者としての実績が特筆される。

<天皇親政、政と軍>

○しかし「戦前」は軍人であった。日本の天皇家の歴史は、世界の王家の中でも長いが、天皇自身や皇族軍人であったことは、限られた時期の短い期間だ。近代では、明治以降1945年までの短い間の出来事だ。これが休題と本題の核心にある。

○皇族軍人、軍と皇族、天皇についてみていきたい。雅なる権威と、猛々しい権力の歴史だ。

<29歳まで軍人>

○以下13年に及ぶ三笠宮崇仁親王の「軍歴」だ。「日本陸海軍総合事典」(東京大学出版会)

[]内の年齢は筆者が目安として記載したもの。原文は日付不詳のため誕生月12月は12/1として計算した。なお、中国にいたときの秘匿名という「若杉」は皇族の身の回り品の整理等に使われる「お印」からきており、若杉参謀が皇族であることを知らない兵士が多かったという。「騎」は騎兵。

1932/03  [16]学習院中等科4年修了
1934/03  [18]陸士予科卒・騎15連隊付
1934/09  [18]陸士本科入
1936/06  [20]陸士卒
1936/10  [20]騎少尉・騎15連隊付
1937/10− [21]騎校(丙)学生 −1938/02
1937/12  [21]騎中尉
1938/10  [22]騎15連隊 中隊長心得
1939/12  [23]陸大入
1940/08  [24]騎大尉
1941/12  [25]陸大卒
1942/04  [26]陸大 研究部員
1943/01  [27]支那派遣軍 参謀(秘匿名は「若杉」
1943/08  [27]少佐
1944/01  [27]大本営 参謀(2部英米課)
1944/09  [27]機甲本部付
1945/06  [28]航空総軍 参謀(教育)
1945/12  [29]予備役

以上、同事典で「1945/12 予備役」のように、下記のように、陸軍省「戦後」、廃止となる最後まで「軍人」であった。

<日本陸軍の終焉――1945/11/30>

○日本陸軍は「敗戦」から3か月半後1945/11/30 公布された勅令第675号「第一復員省官制」によって「第一復員省」に改組されることをもって廃止となった。それより早く、占領軍の予測に反し、比較的スムーズに「武装解除」が進んだといわれている。

<軍旗、聯隊旗の奉焼>

○陸軍の廃止の前に、陸軍大臣、下村定(1887/09/23 – 1968/03/25。1916/11陸大卒。1944/11より北支那方面軍司令官だったが、戦後の1945/08/23 – 1945/12/01最後の陸相となった)、は降伏文書調印が予定されていた1945/08/31まで軍旗(聯隊旗)を奉焼するよう1945/08/24に命じている。

(聯)連隊旗は連隊編成とともに天皇から親授されていたもので、基本的に取り換えることはなく、房だけを残すような状態でも大事に保持されていたもので、敵の手に渡るのは恥とされていたためだ。この奉焼をもって軍は「心的」に解体したともいわれる。

<権威と権力の象徴、軍旗>

○古今東西、軍にとってもちろんのことクニにとって」のもつ意味は大きい。と、同時に意味が大きい分「軍」と「政治」権力と権威が、真贋、新旧織り交ぜて交錯する。

日本に所縁のある「戦場」の「旗」を二つみてみたい。

<錦の御旗>

○一つは、ついに明治にして、王政を導いた「錦の御旗」だ。

宮さん 宮さん 御馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレナ

<官軍と賊軍を分かつもの>

○「勝てば官軍」という言もあるが、鳥羽・伏見の戦いで、「官軍」が、1対3の劣勢にも関わらず、勝ったのも、この「トコトンヤレ節」を唱和し、ビラを配りながら、東征大総督有栖川宮熾仁親王を先頭にした薩長軍「官旗」、「錦の御旗」をたてたのに畏れ戦いた徳川幕府軍賊軍の自壊によるものだという。

<秘密裏に用意された錦の御旗>

○そして「旗」そのものについては、大方の解説は次の通りだ。

岩倉具視( 1825/10/26 – 1883/07/20 )が薩摩の大久保利通( 1830/09/26 – 1878/05/14 )、長州の品川弥二郎( 1843/11/20)- 1900/02/26 )に「御旗」製作を内密に命じた。大久保が京都、祇園のお茶屋一力亭の9代目主人・杉浦治郎右衛門為充の娘にして、養女、妾の「おゆう」( ? - 1918/01/26 ? )に大和錦と緞子を調達させ、半分を薩摩藩邸で、残り半分を品川が長州に運び、人が出入りしても奇異に思われない藩の養蚕所の2階で秘密裏に用意した。

<微妙に綻びのある解説>

○多数の言い伝えや「物証」らしきものがあり、大方はこういうことなのだが、これが曲者で、はっきりしない面も多い。どの話もよくできているようでいて、実は個々の逸話にも、総合してみても「論理的」に、「因果関係的」に、或いは「時系列的」少しばかりの矛盾がある。

○そもそも、「錦の御旗」そのものがどのようなものか、いくつかあって、似てはいるがよくよく見ると違うのだ。

<近現代史にとっての真実>

○厄介なのは、近現代史故の「真実」を求めることの難しさだ。所詮「歴史」なので、時代時代によって「真実」が移ろうものではあるが直近過去はそれ以前の問題に溢れている。

<生々しい過去>

○とりわけ、数十年の過去については存命の利害関係者が多すぎて、伝えられる事実といわれるものが多いながら、肝心の核心の関係者の口が閉ざされていたり、それをいいことに周辺が脚色することなどもあって、「事実」の「真贋」の確認すら、かえって困難なことも多い。近すぎて「事実」の連鎖が未だ続いていて未完な「事実」が多いのも現実だ。

<官製の歴史>

それから先の過去になると、しばらくは「勝った官軍」継承者漁夫の利を得たものたちの天下であることも手伝って、直近の時代に支配的であった情報の真贋を含めて単なる伝聞であるにも関わらず、事実のごとく拡散されたり、未完の事実が恰も完結したかのように強制されたりすることも多い。

<歴史の定着>

○そうした時代が一段落した百年目くらいが節目かもしれない。利害関係者や、その利害に与った、もしくは抗った次の世代も消え、書かれたものであるにしろ、伝聞のオーラル・ヒストリーであるにしても検証の篩がかけられ、とりあえず定説がよくも悪くも固まっていく時だ。

<物証の岐路>

○この百年目くらいで、物証の運命も決まるようだ。3世代以上過ぎ、何らかの価値が見出されないと、後代の都合に合わせて最悪の場合、断捨離されてしまう。捨てられないまでも、直接的な庇護者もいなくなり、保存状態が悪くなることが殆どだ。

<軽重を超える拡散>

○今回、幕末から昭和の半ば頃の過去100年周辺を確認していて、このことを、つくづく感じた。そして、これに加えて、インターネットのお陰で、よくも悪くも孫引きが多く、情報が拡散しきっていて、物事によっては軽重と関係なく、量的にも質的にも大きな偏りがある。その為に惑わされることが多く、本稿でも幾度も書き直しを強いられている。

<明治百年記念>

○筆者の直感ではあるが、この「錦の御旗」についても、最も「事実」に近いと思われる説は明治100周年時に多数説かれたものの中にあるように思える。その前も、後も、偏った説が多いようだ。

<錦の御旗の意匠とは>

○「錦の御旗」についても、戊辰戦争時はもとより、その前の江戸や戦国時代以前の「ホンモノ」がどのようなものであったか確定できなくなっている。

○まず、旗そのものの「デザイン」だ。天皇側を擁立しようとしているにも関わらず、肝心の薩長側ですら、ホンモノのデザインを知らなかった。

続く
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