下田歌子、皇女・女子教育とゴードン夫人。各種国コードCオリンピック。国とは?その26―閑話休題(再三) [2006年10月25日(Wed)]
<承前>
さて、詩人、石川啄木は岩手を出て新生活を北海道に求め約1年滞在しますが、僅か3ヶ月の間、小樽日報の記者となりました。同日報(1907(明治40)年11月29日・第33号)の「下田歌子辞職の真相―乃木将軍が眼上の瘤」というの石川の記事の中で件の「景教碑」をたてた宗教学者ゴードン夫人が登場します。下田歌子の弁として、辞職は以前より考えていたもので、辞職後の生活は「親友ゴルドン夫人の遥遙英国より来朝したるを幸ひ共に閑地に退いて外国文学其他の事を取調ぶる積りなり」と紹介しています。 この記事は、岐阜は恵那出身の下田が、創設2年目の1845年以来、華族女学校の学監をつとめていたのを、1906年(明治39年)、同女学校が学習院に統合され、陸軍の乃木希典将軍が学習院の院長に就任した直後に起こった下田の「辞任」問題について書かれたものです。 この問題の前に、下田は明治天皇第六皇女、常宮昌子内親王(のちの竹田宮恒久大妃)、第七皇女、周宮房子内親王(のちの北白川宮成久大妃)の両宮御用掛の内命と、両宮の御養育主任、佐々木高行伯爵の強い薦めによって、王女教育、女子教育の視察のため1893年(明治26年)から欧米に2年間滞在し、特に英国での王室や貴族の王女や子女、そして女子の教育のあり方全般に強い衝撃と刺激を受け、帰国後「帝国婦人協会」、後には「実践女学校」(実践女子大学)「女子工芸学校」などを設立しました。 この衝撃を与えた、英国滞在中、下田はゴードン夫人と知遇を得たのみならず、ロンドンはサウス・ケンジントンの19 Pelham Placeのゴードン「夫人方に寓居」し、同夫人に社交界へをはじめ多くの人々に案内されたようです。ゴードン夫人が仏教研究にとどまらず、下田、ひいては日本の英国での王室や女性に対する教育の理解にも多大に寄与したと考えられます。 <続く> 本記事ーー19世紀初頭バイロンの足跡をたどる記事ーーは最初はここから開始しました? |