景教、高野山、途上国支援。各種国コードCオリンピック。国とは?その25―閑話休題(再三) [2006年10月25日(Wed)]
<承前>
中国は明朝末、1623年、西安の大秦寺址といわれる崇聖寺境内で「大秦景教流行中國碑」とよばれる高さ3.5メートル、幅1メートルの石碑が発見されました。この石碑には約1900字の漢字とシリア文字で阿羅本(Alopen Abraham、アラホン、アロベン、アルワーン)を団長とした景教(光の信仰、ネストリウス派のアッシリア東方教会)の使節団の様子から、景教の教義、唐への伝来、太宗から徳宗までの147年間の様子が描かれており、既に景教がなくなっていた明末、この発見のニュース自体が、キリスト教が中国にとおて新来の宗教でないという意味で、当時の明のキリスト教徒にとって朗報となりました。 この「景教碑」のレプリカが高野山でみられます。このレプリカは英国のビクトリア女王の女官でもあった、Elizabeth A. Gordon (エリザベス A ゴードン)によってたてられました。 ゴードン夫人は、オックスフォード大学で比較宗教学を学んだおり、同窓の日本入留学生、後に東京外国語学校(東京外国語大学)の初代校長となり、日本のインド学・仏教学の祖といわれる、広島は三原出身の、高楠順次郎との交流が、夫人と日本を結びつけるきっかけとなったとみられますが、1891(明治24)年、夫との世界旅行の途中、日本に立ち寄り、帰国後、創立間もないジャパン・ソサエティに入会し、在留日本人から「英国における日本の母」と慕われる程になりました。 その後、夫人は、洋書が少ない日本に向け、英・米・加の新聞紙上で図書寄贈を呼びかけ、10万冊に近くを携え、1907(明治40)年に再来日し、東京市に寄贈しました。今でこそ、日本も英国や世界各地の先進国同様、途上国への国際協力支援のひとつとして、古本や新刊書の図書の寄贈が行われていますが、明治末の日本は逆の立場にあったわけです。明治期日本の外国からの民間のボランタリーな支援事業として記録されるものです。 現在の日本の国立大学図書館の洋書蔵書数の平均が約42万、私立が9万ということからみても10万冊というのは大きな数字です。 夫人は日本にそのまま留まり、仏教もキリスト教も元は一つという「仏基一元」の研究を始め、弘法大師が景教にも関係を持っていたと信じ「景教碑」のレプリカを高野山に建て、幾度かの帰国と再来日の後、1925(大正14)年6月27日、京都ホテルの一室で亡くなり、高野山の石碑の横に墓が建てられました。 <続く> 本記事ーー19世紀初頭バイロンの足跡をたどる記事ーーは最初はここから開始しました。 |