グローバライゼーション以前。各種国コードCオリンピック。国とは?その24―閑話休題(再三) [2006年10月25日(Wed)]
<承前>
さて、前回紹介しましたように、ラザロの後、この島はメキタル率いるメキタリスト修道会によって、拡張され、バイロンがここでアルメニア語に学んだのはアルメニアでのキリスト教の発展と深いかかわりがあります。 アルメニアは西暦301年、世界で最初に国教としてキリスト教を定めた国です。しかしこの早期のキリスト教化は、その後の「アルメニア」のキリスト教に、この国の支配がたびたび移り変わったことと、キリスト教会が東西に分かれたことからして、複雑な経緯を辿らせます。 そもそも301年は東西教会が分かれる前であり、かつ、この地のキリスト教はキリストには神性のみあるとする「Monophysitism単性論」をとっていました。 キリストに完全なる神性とともに人性という本性があるとする「Dyophysitic両性論」が、451年に小アジアのコンスタンティノポリスの対岸にある都市で行われたCouncil of Chalcedonカルケドン公会議で採択され、以降、アルメニア教会は公会議に出席しなくなります。 つまり、アルメニア教会は、東西にキリスト教会が完全に、catholic (普遍)とorthodox (正当)とに分かれる前に、また後年の熾烈な異端論争以前であることはもとより、反カルケドン派といわれ、反論が流通する初期の時代に独自の道を歩み始めています。 因みに、この公会議では20年前の431年のエフェソ公会議において異端として排斥された、コンスタンティノポリス総主教ネストリオにより説かれたネストリウス派が改めて排斥されました。ネストリウス派はその後「東方」世界に広がります。 現代であれば、伝統と革新、グローバルとローカル、グローバライゼーションとローカライゼーション、グローカル、世界化、世界標準、ユニバーサル、などといった言説以前に蚊帳の外に出たわけで、例えば、その後の第4回十字軍におけるアルメニア、アルメニア教会の微妙な立場の前提でもあり、メキタルがベニスに浮かぶ小島に、いわば「アルメニア・センター」を設立する背景でもあります。 <続く> 本記事ーー19世紀初頭バイロンの足跡をたどる記事ーーは最初はここから開始しました。 |