ボリウッド、コリウッド、トリウッド。。。。各種国コードCオリンピック。国とは?その21。―閑話休題(再三) [2006年10月20日(Fri)]
<承前>
ダンガリーの里、クイーンのフレディ・マーキュリーの里、ムンバイを今少し。 古代ギリシャの時代からムンバイは「西洋」に、紀元前250年の天文・地理学者のPtolemy=プトレマイオス)の記述もあって「Heptanesia (七つの島)」として知られていたと考えられています。 事実、1554年に、ムンバイは未だ島嶼群でしたが、ポルトガルが当時のグジャール王国から殆ど取り上げるようにして譲り受けました。その後、1661年に、ポルトガルの王女が英国国王に嫁ぐときに「持参品」として英国に贈られましたが、英政府は1668年に英国の東インド会社に貸し、東インド会社のインド西岸の本部として急速に発展します。 東インド会社はQUANGO的FPOとして、その後英国のインド経営、植民地のみならず、英国のエリーティズム、官僚制度の源流をつくっていきます。パールシーの英国官僚、フレディ・マーキュリーの父親はまさにその流れの中にいたわけです。QUANGO的FPOである東インド会社についてはいずれ詳しくこのブログで紹介したいと思います。 19世紀半ばには米国が南北戦争で混乱した時期、世界の「綿」取引の中心としてさらに発展を遂た、引き続き、1869年のスエズ運河の開通によって、元々bom baia (良い湾)とポルトガル人に名づけられていたように中心的港として、多民族、国際都市としての地位を確保します。 インドの関税収入の6割がこのムンバイからであり、映画王国として知られるインド映画産業の中でもヒンディ映画の中心地はここの植民者によって名づけられたボンベイから、Bollywood (ボリウッド)と呼ばれています。 なお、第二の映画都市がタミル映画の中心地がChennai (チェンナイ)のKodambakkam (コダムバカム)にあることからKollywood (コリウッド)とよばれ、ベンガル映画がKolkata=Calcutta (コルカタ=カルカッタ)の Tollygunge (トリガンジ)地区にあるため、あるいは、Hyderabad ハイデラバードはTeluguテルグ映画の中心として、ともにトリウッド (Tollywood)とよばれている等々、多言語国家インド、各地に映画都市があるようです。 <続く> 本記事ーー19世紀初頭バイロンの足跡をたどる記事ーーは最初はここから開始しました。 |