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キッシンジャー、ワルツからコック帽まで。各種国コードCオリンピック。国とは?その14。―閑話休題(再三) [2006年10月03日(Tue)]

<承前>

このゴチック・ロマンのフランケンシュタインとヴァンパイヤが誕生した土地と時代を少し紹介します。

前々回紹介しましたように1815年の世界史上最大のインドネシアの火山噴火が起こした、翌1816年の気候変動は「夏のない年」といわれ、米国東海岸を始め各地の人の移動を巻き起こしました。

欧州社会では1814年から翌1815年にかけて、90の王国、53の公国が集い、いわゆる「le Congrès ne marche pas; il danse DER KONGRESSS TANZT 会議が踊るウイーン会議が、ナポレオン戦争の終戦処理のため開かれていました。思いがけないナポレオンのエルバ島脱出、百日天下を挟んでアンシャンレジーム(旧体制)へのリバウンドに拍車がかかりながらも、深いところで、着実に近代社会へと変化が始まる時期でした。

ウイーン会議は「反動的」といわれながらも、その後100年続いた欧州の平和をもたらし、米国のキッシンジャーが博士論文とするなど多くの国際政治、国際関係の話題が多々ありますが、ここでは、政治から離れ、今日に伝わる西洋文化にもたらしたもののいくつかを紹介します。

一つは、一日の四分の三がパーティだった、会議は踊る、といわれたように舞踊会が催され、その中でも新しいダンスが欧州社交界を席巻したことです。革命の伝染を恐れる主宰国の宰相メッテルニッヒを中心にオーストリアは、会議を華やかに成功裏に終わらせようと、今日の世界サミットにも匹敵する150近い各国代表団を相手に舞踏会が連日開催されました。

ここで広まったは、諸説あるものの、例えば墺領南アルプスの農民の踊りが源泉の「田舎」の、女性が踝を露にし、男女が抱き合って激しく回転する、目が廻って下品なものとしてプロイセンでは禁じたほどのダンス、ウィンナー・ワルツでした。当時としては激しさが人気をよんだのです。

一方、敗戦国フランスも外相タレイランを中心に、人々の歓心を得ることに必死でした。一つは、大量の上等なフランス・ワインを持ち込んだことでした。そのグラーブ産のワイン、シャトー・オーブリオンが全欧に不動の名声を得る結果となりました。

それは、無論ワインのみが振舞われたということでなく、当時としては新しいタイプの料理、フランス料理が振舞われ、人々を魅了させたからです。近代フランス料理の礎を作った、料理人CAREME ( Marie-Antoine dit Antonin)カレーム(マリー・アントワーヌ通称アントナン)を連れてき振舞わせたからです。

ソースの体系を整理したことをはじめ、ポタージュエクレア、あるいはプロン、シャルロット・ア・ラ・パリジェンヌ、ヴォル・オ・ヴァン、料理道具など数々の「発明」をしています。しかし、世界中で一目見て分かるのは、あのtoqueとよばれる帽子を「発明」したことかもしれません。

カレームはタレイランの他、英国の摂政皇太子、ロシア皇帝アレキサンドル1世、やロスチャイルド家に仕え、最初のセレブの料理人とも言われる由縁です。とまれ、全欧にこの会議での舌と技の経験は伝わり、新しい、料理の世界標準をもたらしました。

モーニング連載の「大使閣下の料理人」が思い起こされます。

さて、話は戻りまして、周辺国に翻弄される小国で敗戦国のスイスも、外交団の大活躍によって、その地理上の戦略性に各国を着目させることに成功し、1815年には傭兵と引換えに「永世中立」と「同盟規約」によって22のカントンよりなる地域連合国家として、今日の姿の原型をつくります。

この結果、一部が奪われたものの、この直後、バイロン一行が逗留しているジュネーブも、これまで「飛び地」であったものが、レマン湖沿岸の細い回廊ではあるものの、ようやくのこと、「本土」と地続きに繋がっていました。

<この項続けます>

本記事ーー19世紀初頭バイロンの足跡をたどる記事ーーは最初はここから開始しました?
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