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世界で初めてのコンピューター―各種国コードCオリンピック。国とは?その11。―閑話休題(再三) [2006年09月28日(Thu)]

<承前>

エイダは「青踏」サロンのみならず、少女時代、数理論理学や集合論における「De Morgan's laws (ド・モルガンの法則)」の名の由来である数学者、Augustus De Morgan (オーガスタス・ド・モルガン)をはじめ多数の家庭教師に教わりましたが、数学に非凡な才能を示します。

このド・モルガンはまた、マックでいうところのファイル・メーカー、ウィンドウズでいうところのアクセスなどのソフトウェア、すなわち「リレーショナル・データベース」の構造の源泉となっているrelational algebra (関係代数)の発案者です。

エイダは長じて、世界で初めて「任意のプログラミング可能」な計算機―コンピューターであるといわれるCharles Babbage (チャールズ・バベッジ)difference engine(階差機関)の案に感銘し、バベッジとの間で師弟関係のようになりました。

重さ15トン、高さ約2.5メートル、25,000 の部品を必要とする、この階差機関の製作にバベッジはとりかかりますが、英政府から17,000ポンドと自費6,000ポンドをかけたところで、英政府からの支援が1834年に突如中止となり、完成しないどころか、借金を抱えることになってしまいました。2号機も設計しましたが、これは彼の死後、1989年から1991年にかけて製作され、31桁の計算ができるものになりました。

因みに、この18年前、先述のエルギン・マーブルを英国政府は35,000ポンドで購入したといわれますが、エルギン伯は少なくとも私財74,000ポンド使ったといわれ、差額は39,000ポンドであり、いずれも、莫大な金額が行き来していたことが想像出来ます。、

バベッジはその後、Analytical Engine (解析機関)を発案しました。階差機関との大きな違いは、これも史上初めて、初期のコンピューターには必須で、今日ではなくなってしまいました、パンチ・カードを発案したことです。二つの機関とも、今日のコンピューターの概念の源泉となるstore (貯蔵庫)、mill (加工機)、control (コントロール)、input (インプット)、output (アウトプット)の5つの構成で考えられました。

1840年に、イタリアのTurin (トゥーリン)に、国王Charles Albert (チャールズ・アルバート)から招待を受け、科学アカデミー会員に対し連続講演しますが、Luigi Menabrea (ルイージ・メナブレーア)がその講演録をまとめることになりました。メナブレーアは後にイタリア首相となりますが(1867 - 1869)、当時はバベッジ同様、「軍人科学者」でした。因みにこの頃のイタリアのトゥーリンはSavoy (サヴォイ)の属地であり、チャールズ・アルバートはサヴォイの国王でした。残りのイタリア半島の多くはオーストリアのものでした。

この仏語の講演録Notions sur la machine analytique de Charles Babbageを、エイダは本文の3倍もある詳細な注とともに、Elements of Charles Babbage's Analytical Machineとして英訳しました。中でも、付録にあるBernoulli numbers (ベルヌーイ数)を求めるためのプログラム・コードは世界初のコンピュータ・プログラムと言われています。バベッジが相当程度プログラミングし、エイダがバグを訂正した程度だとの説が有力ではあるものの、深く理解していた故に「バグ」も丁寧に訂正できたことは確かであり、エイダが史上初のプログラマーとして評価されています。

エイダの功績をたたえ、米国の国防総省は1980年の12月10日、エイダの誕生日、に発表した新しいプログラミング言語をAdaと名づけ、言語の規格番号(Department of Defense Military Standard)も(MIL-STD-1815)と生まれた年をとっている。

さらに、全世界に散るMicrosoft product authenticity hologram stickers (マイクロソフト社のソフトウェアの認証用ホログラムステッカー)には彼女の肖像画を使用しているといわれています(本ブログでは掲載にあたってより多くの複数の資料からの取材を心がけていますが、このホログラムについては多数の記述があるものの、いずれも同一出典を典拠にしているとみられ、推定として記述しました)

エイダは、3人の子供を生んだ後、心身ともに病み、借金に追われ、独自の数学的予想をも発明して競馬に興じ、子宮癌に悩み、父と同様、bloodletting (瀉血)の最中、36歳で、1852年に亡くなりました。

母アナベラは娘の最期に立ち会うことを拒みました。家族外で死の直前に最後に立ち会ったのは、彼女の古い友人であり、ロマン主義の時代の後、Oliver Twist (オリヴァー・トゥイスト)など写実的な描写で、時代の寵児となった、Charles Dickens (チャールズ・ディケンズ)でした。

本人の希望で、記憶のない父の墓の横に埋葬されました。

<次回、時代を少し戻し、バイロン卿本人に戻します>

本記事ーー19世紀初頭バイロンの足跡をたどる記事ーーは最初はここから開始しました。
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