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各種国コードCオリンピック。国とは?その5 。Queenから回教。―閑話休題(再三) [2006年09月21日(Thu)]

さて、前回では、D国別コード・トップ・レベル・ドメイン(ccTLD)について解説し、末尾で「国際NPO」の難しさに触れましたが、今回から、話題にしたいと思うCオリンピックの元締めIOC (International Olympic Committee、国際オリンピック委員会)も世界に冠たる「国際NPO」です。本部はスイスのLeman(レマン)湖の湖畔のLaussane (ローザンヌ)に、オリンピック博物館とともにあります。

まず、IOC、国際オリンピック委員会の本題に入る前に、レマン湖周辺の話題でcanpan ブログでの話題に関係あるものを紹介したいと思います。

ティアラをかぶせたような三日月形のレマン湖北側のローザンヌの東には、ジャズ・フェスティバルで有名なMontreux (モントルー)、西を降りていくとEvian (エヴィアン)を挟んで、西南端には国連欧州本部をはじめ、各種国際機関の所在するGeneve/Geneva (ジュネーブ)があります。

レマン湖の英名はジュネーブ湖です。国連はニューヨーク本部が脚光をよく浴びますが、世界に4つの「offices」があり、欧州国連本部とよばれるジュネーブの「office」の他、オーストリアのVienna (ウィーン)、ケニアのNairobi (ナイロビ)にも「office」があります。各々の国連の「グッズ・ショップ」には、各事務所をフィーチャーした国連発行の切手を始め、4ヵ所に因んだみやげ物があります。

ナイロビにはUNEP (United Nations Environment Program、国連環境計画)の本部もありますが、アフリカ国連本部ともよばれており、以前、標的となって、爆弾で多くの国連職員や関係者が亡くなったこともありました。

ジュネーブにはジュネーブ初の国際的デモの原因となったWTO (World Trade Organization、世界貿易機構)もありますが、このビル、Centre William Rappard、の前の住人はILO(国際労働機構)でした。ジュネーブのWelcome Centre for Non-Governmental Organizations and Delegations (NGO・使節団ウェルカム・センター)はWilliam Rappard教授の元・邸宅なのでNPO関係者の方も名前を聞いたことがあるかもしれません。このようにILOからWTOと、様々な国際的な組織の変遷、栄枯盛衰がジュネーブには刻まれています。また、ジュネーブには赤十字・赤新月社や国連高等難民弁務官事務所などもありますが、これに呼応する様々なNPO組織もあります。話題が多いので、ジュネーブは回を改めます。

モントルーにはジャズ・フェスよりも、木村拓哉、竹内結子主演の「月9」、アイス・ホッケー・ドラマ「プライド」で多くの楽曲が主題歌、挿入歌として全編を覆って、改めて有名になったロック・グループ、Queen(クイーン)のFreddie Mercury (フレディ・マーキュリー)の彫像があり、ここで毎年9月に開催される生誕記念祭の方で、今は名が通っているかも知れません。Queenが惚れ込んで、ここに購入するほどの音楽スタジオがあったのも、ここで最初にレコーディングしたアルバムが「ジャズ」というタイトルであるのも欧州最大のジャズ・フェスがあるからです。

ジャズ・フェスティバル、ローザンヌについても次回に譲り、フレディを中心にわき道にそれます。

フレディーはインド初の世界的ロック・スターともいわれます。正確には、当時英国保護領から英連邦下の王国へと変化を遂げるアフリカ大陸東岸のZanzibar (ザンジバル)で役人として働き、parsi (パールシー:ササン朝ペルシアの崩壊後、インドに移り住んだゾロアスター教徒の末裔)であった父親と母親の間に生まれ、その後、パールシーの多いムンバイ(ボンベイ)に帰国子女として戻っています。その後、ザンジバルでのクーデターを機に英国に移り住んでいます。

clove(丁子)を多く輸出し、スエズ運河開通までは奴隷や象牙貿易など海上の要衝として栄えていたこのザンジバルの歴史も他のアフリカ諸国同様複雑です。宗教一つとっても、アフリカ大陸中部はキリスト教圏とイスラム教圏の交わる地帯であり、さらに、この東岸は様々な宗教を擁したインド亜大陸との接点でもあります。

アラビア語名をもつタンザニアのダルエスサラームの沖にあり、人口約100万人、面積1,651 km²のザンジバル島を中心にしたザンジバルは変転の多い歴史を辿っています。

ザンジバルでのクーデターの後一時Peoples' Republic of Zanzibar (ザンジバル人民共和国)となり、Tanganyika (タンガニーカ)と合併し、United Republic of Tanganyika and Zanzibar (タンガニーカ・ザンジバル連合共和国)、その後名称を統合してUnited Republic of Tanzania (タンザニア連合共和国)の一部となっています。

ここは社会主義陣営と自由主義陣営の接点でもあり、ペルシャ系のShirazi (シラジ族)の伝説的な話があり、ザンジバルという名の語源もアラビア語のみならずペルシア語との両説があるほど、多様な背景をもっています。

無論ザンジバルを「発見」したVasco da Gama(ヴァスコ・ダ・ガマ)の出身国ポルトガルの支配下だった頃の同国や、近年脚光を浴びているYuan Dynasty (明朝)のZheng He (鄭和)の同地への「遠征」時の中国の名残もあるようです。

因みに鄭和は雲南のHui people (回族)、すなわち回教徒であったことが、永楽帝をして、馬三保(Mǎ Sānbǎo、鄭和の本姓名。アラビア語名はHajji Mahmud)を「西洋」に大航海(第一次では約60隻、3万人)させた一因といわれています。雲南は明が最後に元を討伐した地であり、クビライ時代に雲南を開発した色目人Sayyid Ajjal Shams al-Din Omarの六代目の子孫であった当時の少年、鄭和も捕らえられ、宦官となり、最終的には宦官の最高位である太監となりました。

鄭和の遠征は「西」にとどまらず、今日、伝説的にも、「東」のマラッカ、マレーシア、インドネシアにおいて、この地域の発展が鄭和によるところ大であると、同地のイスラム学者からもいわれています。また、「鄭和」という名の戦艦が中台ともにあるそうです。

鄭和で話がそれましたが、インド洋の周辺は海のシルクロードの要路でもあり、経済、政治、宗教が交錯してきたところであり、フレディの背景が如何に豊かなものであるかわかります。

とまれ、こうしたこともあって、ザンジバルは「自治色」が強く、ザンジバルへの入国にはタンザニアからでもパスポートが必要だとされています(実際は徹底していなかったとのインターネット上の体験記もあります)し、今回取り上げた、コードでも、

2402@zzzAZANBzzCzzzDzzzEzzFEAZ*GzzzHZanzibar*

のように、フットボールのコードとしてAZANは、当然のごとくありますし、ISOでも変化が多いこともあってFEAZを「仮置き」しています。

<フレディの項、続く
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