前回の最後に記したように、このケプラーの第三法則を紹介するにあたって、いつものように原文から着手しようと思ったが、これからして難航した。 基礎的な本なので電子的にtext化されていると思っていたが、残念ながら、ない。それでもいくつかの図書館で原本の映像がPDF化されている。 ところが、肝心の該当箇所が、どこのものでも、映りが悪かったり、印刷が掠れていたり、汚れていたりする。しかも当該箇所はページを跨っていて、相互比較が厄介だった。 <字が変わる> 例えば、字が違う、「長いs」とよばれるものが滲んでいて「f」と見紛ったりする程ではないものの戸惑う。ラテン語で「s longa」英語では「long s, medial s, descending s」独語では「lange s」とよばれるものだ。long s を courier new や ariel のフォントで表すと右のようになる。 現代英語のアルファベット26文字に対し、王政ローマ時代、G J U W Y がなく、21文字だ。その後帝政時代にはG Y が増えるが、依然として、J U W がない。因みに、Yは「ī Graeca ギリシアのi」とよばれたりする。ちょうど日本語の「wa わ」「wi ゐ」「wu う」「we ゑ」「wo を」のようなものだ。最近の「あ゛」とかも、いずれ55音図に入るかもしれない。 <大文字から小文字への分化、区分符号や合字の消長> また、今日の英語でいうところの majuscule 大文字から minuscule 小文字が派生する過程で、様々な文字が浮沈した。同様に、今日の欧州諸言語にも残った、いわゆる accent mark アクセント符号のような様々な diacritical mark 区分符号がついた文字や、「Æ, æ」のような ligature 合字も浮沈している。こうした文字もよくみないとわからないものも多い。 <発音、文法、単語も生成流転> そして、文字自体が生成流転しているだけでなく、発音はもとより、文法も、単語も変化している。当たり前のことだ。 <それぞれの時代、それぞれの地方のラテン語> 他の言語と比べて歴史の長いラテン語はそれなりに変化が多いし、筆者のような専門家でないものにとって、それぞれの時代や地方のラテン語の差異を厳密に理解したうえで読解するのは難しい。 言語は生き物だ。 <動くのが「人」の場合、「言葉」の場合> 人が動くことによってその土地の言語が急激に変化することもあるし、人が動かずとも村から村へとゆっくり変化することもある。日本のような島国で大陸の果て、という稀な「地勢」にない陸続きの多くの社会にとって、言語は始終変化している。 <ユーラシア大陸の東西の離れ島> もっとも、島国といっても、ユーラシア大陸の反対側、西端にある英国列島での諸言語の盛衰はその後の英語の世界制覇と相俟って激しく、日本と対照的だ。その過程は「世界の英語になるまでに」に詳しい。 <言語研究の限界> 基本的な問題として生き物である言語である以上、昔の言語の理解には限界がある。この日英の比較を試みても実際がどうであったかにかかわらず、次のような可能性もあるからだ。 @日本でも変化があったが史料が残っていない。 A日本では資料が残るに至らないほど書記言語の発達が遅れた。 B社会が従属的であったため独自の「言語」の発達が遅れた。 C社会の文明化自体が遅れ「言語」の発達が遅れた。 等々、史料が残ってない以上、厳密には精確な真相はわからない。 <隔離されるのは言語か人か> とはいえ、いにしえより書記言語には力がある。昔書かれたSFには、書記言語を放棄した異星人の話があった。モーリス・ブランショは「書いてしまった者は解雇」されることを著し、ジャック・デリダは「文字帝国主義」を一冊の本にした。
<はじめは碑文研究> 当たり前だが、多くの昔の言語の研究は「ロゼッタ・ストーン」のように、碑文、石に書かれた文字言語、書記言語が中心だ。残っているからこその研究だが、話し言葉とのずれが、そもそもあるかどうかを含めて確かめようもなく、限界がある。
<石の世界、木の世界> 石による構造物が多い欧州社会と、日本のように、腐敗しやすい木などの構造物の多い社会とでは残されている書記言語に大きな差が出ることは否めない。 <権威と権力、権勢を伝える碑> 一方において、朽ちない碑は、手軽な木簡のようなものと違って、その重厚さ故に現世下々への周知のみならず後世への伝承のために使われた。権威や権力、権勢もしくは先代を讃えたり、畏れたり、記録したりするものであった。その分、語彙も、表現法も限定的だ。
<記録に残る人名> 後述する人の名前についても、記録が残っている「セレブ」のそれも「男性」を中心とした名前を分析するしかないので、当時の実態の把握には限界がある。 既にして、ギリシア・ローマの時代から、千年たっても復古したように、多くの優れた彫刻や壁画が遺されている。にもかかわらず、アリストテレスやカエサルの名前を知っていても、彼らの顔が思い浮かぶだろうか。名は残っても、顔は残らない、のだろうか。 以前「ハリケーン・サンディ」のサイド・スートリーとして紹介し、未だにこのブログの訪問ページのトップを占めている「アレキサンダー」という名前の拡散と変遷をみても、名前というものの「妙」の一端が分かる。 <世界を制覇したアレキサンダー、世界に轟いたアレキサンダーの名> あのアレキサンダー大王が「世界」を制覇したおかげで、「アレキサンダー」という名前は世界中に、今日に至るまで、様々な言語圏と男女の間を行きつ、戻りつ、多様な変形を伴いながら、実に2500年近く生きながらえ、広まった名前だ。 <自由に変化する人名、拠り所のある人名> 人名の変遷は辿りやすいこともあるが、変化が激しい。地名や普通名詞、ましてや他の品詞と違い、基本的には本人周辺の了解さえあれば成り立ち、自由度が高いといえよう。だが、逆にいえば、全くの創作というよりは、アレキサンダーからサンディが生まれたように、偉人や先祖など、何らかの拠り所が一方において求められ、微妙に変化していくものだ。 「命名」の妙だ。 続く <この項、昨2016/5/31夜、古い原稿をulしたため欠落部等多く全面的に改訂しました。悪しからずご了解ください> この項は、筆者が作成した、 旧暦・西暦・グレゴリオ暦・ユリウス暦・干支・六曜・七曜、対照表 全日版(嘉永7年の元旦から明治6年の正月の晦日) の解説の一部です この補題の最初は です。 |