米国npo活動の多文化性(7)――トンヤレ節と勤皇、人語り、物語り、そして歴史 [2015年11月30日(Mon)]
<トンヤレ節> 前回紹介した錦の御旗を喧伝する「トンヤレ節」は当時流行になったらしい。 <誰が、作詞、作曲したか> 作詞については橋本八郎こと品川弥二郎、作曲は大村益次郎( 1824/05/30 – 1869/12/07 )、もしくは、田中治兵衛夫人や「勤皇芸妓」の中西君尾( 1844 – 1918 (大正7))、などと諸説ある。 作曲したといわれる3名。 <陸軍の祖―大村益次郎> 大村益次郎は長州藩の村医の長男として生まれ、緒方洪庵の適塾初代塾頭をつとめたりした後、「西洋式」軍事に長じ、奇兵隊をはじめとする軍人・軍隊の育成者となり、初代・兵部省大輔、帝國陸軍の祖といわれるようになった、西洋医にして軍人。 これまでにない西洋式軍隊育成に当たって、西洋式行軍のため音楽、楽隊の創設に尽力した。 <出版人夫人―田中治兵衛夫人> 田中治兵衛夫人の経歴は不詳だが、田中治兵衛自身は品川編集の「幽室文稿」吉田松陰遺稿集、そして「有職故実必携装束図式」のような「往来物」、いわゆる「近代学校教育」以前の時代の手本・教科書類、の著者・出版人。 京都寺町通りの「知識人」にして出版人。 <勤皇芸妓――中西君尾> 中西君尾は園部藩八木に生まれ、京都祇園新地の置屋「島村屋」の芸妓として数々の幕末の志士との逸話がある。小川煙村の「勤皇芸者」、井上月翁の「維新侠艶録」でよく描かれている。「勤皇芸者」として頼まれ、佐幕派の島田左近と交際したり、新選組の近藤勇を袖にしたりした。 辞世の句。 「白梅で ちよと一杯 死出の旅」 少し脇に逸れるようだが、ここで、この君尾を巡るいくつかの記録があるが、その背景を考えてみたい。 <佐幕、勤王、勝てば官軍> 幕末維新の史料・資料は当時より今日にいたるまで多い。「戦前」も維新直後から第二次大戦・大東亜戦争中の「戦中」まで、幾度かの波があるようだ。 無論「勝てば官軍」だし、1945年まで、政権の連続性があるので、勤皇ものが多い。 幕末、女性たち、芸妓もまた、職業上の行き掛り以上に、佐幕派と勤皇派、様々に、分かれていた。勤王婦人、勤王芸者ものも少なくない。 <人語り、物語り、そして歴史> 様々な人が人を語り、時代を語り、揺らぎながら、物語りとなっていく。語られる人も、語っている人も、それぞれの時代を生きている。 そして、穏やかな時代ですら、直截なインタビュー形式になると、語りから記述となって、オーラル・ヒストリーとして歴史となっていく。インタビューされるインタビュィー、インタビューするインタビューアーそれぞれの時代が絡み合って錯綜したものになる。 <革命――魁傑そして魁儡> ましてや、革命の時代は激烈だ。時代に先駆けて人が語り、物語りとなっていく。 勝てば官軍、そう思った方が良いのかもしれない。日本の近代化は明治、戦争、敗戦という驚天動地の革命が二転三転と起きて、一貫しているようだが、「官軍」も二転三転している。 魁は魁傑に、魁儡に、渠魁に、と転じていく。 <維新侠艶録> さて、君尾が物語となっている、井筒月翁の「維新侠艶録」(1928昭和3年)から、近藤が君尾を口説いたときの君尾の応えを引用したい。「維新侠艶録」は中公文庫から復刊( 1988 )されている。 明治維新から60年後、君尾逝去から10年後の萬里閣書房からの出版だ。61編をまとめた「維新侠艶録」と、短編「品川楼の嘉志久」「清河八郎の妾」の3作が収録されている。 <「近藤様、お話は身にしみて有難うございます。したが(でも)、あなた様は幕府方、ここで禁廷様の御味方をなさるようなら、不東(ふつつか)ながら私、喜んで御言葉に従いまする」> さらに、君尾が勤王派の座敷に出ていたため、壬生の屯所まで引き立てられ荒い尋問をうけていた。 ≪その夜の物凄かったことを、君尾は身を傑わしてよく語った。闇の中の抜刀、槍の穂先 そこへ近藤かやってきた。「おや、あなた様は」というわけで、近藤は部下から、あらましを聞いてから君尾の縄目をといてくれた。「君尾、お前はやはり意地を立て通すのだな。よしよし、帰れ帰れ、何も言わんでいい。ただ君尾、新撰組は女子供を殺しなんかはしないから、そこのところはよく承知してくれ」 君尾は駕籠で、ていねいに送られた。≫()内は筆者。 <女のための維新史> この「維新侠艶録」は「序」に ≪「男」のための維新史は多い。「女」のための維新史ありや。 今は昔、二十年も前、京洛鴨東に中西君尾と会し、浪華南地に富田屋お雄と語る。いずれも談屑維新の渦中を出でず、順序もなくノートせるもの、この冊子の骨となる。 史実としてみるには無論不充分であろう。しかし一夕の感興としてのみ聞き捨つるにはあまりに惜しい。トコトンヤレ時代の名妓が舌頭に弄する維新前後の達引、果たして史家はこの記述をうべなうや否や、色即是空、空即是色「女」のための維新史 気組みは大きいか内容は果たして如何。 萬里閣書房に話して版木に載せ江湖に問うこと然り。 昭和戊辰冬日≫ とあり、「歴史物」だ。例えば、君尾の死後10年だということなど、話の真偽については、異論もあるにもかかわらず、幕末・維新物で、この著書よりよく引用されている逸話も少なくない。 そして、例えば、この「維新侠艶録」では、件のトコトンヤレ節を、 ≪君尾が登茂恵家という店をもったころ、品川弥二郎がよくやってきたが、その時品川が唄をつくり君尾が節付をしたもの≫ としている。 <勤皇藝者> この本は自体、この本より先に出版された、小説家・戯曲家、小川煙村(多一郎)( 1877/09/25 - ? )の「勤皇藝者」(1910)を参考にしているともいわれている。明治維新から42年、君尾66歳の発刊だ。 当該部分をみてみよう。 ≪天子様の爲にお盡し下されば、禁裡様の御代にするやうにお骨折り下さらば君尾は貴客(あなた)の仰有る通り、身も心をも差上げますよ≫ ≪「何れ其方(そち)は手剛(てごわ)い奴だから」近藤は微笑を含みつつ「存ぜぬといふたら存ぜぬで通すだろ、したが、君尾、新撰組は無uの殺生は致さぬ、、女風情殊に藝妓(げいしゃ)の一人(にん)殺して生かして、ハヽヽ其方の生命を取らぬから安心せい、唯知ってる丈(だ)け聞かしてくれよ」≫ 微妙に「維新侠艶録」と違う。 <実話物> この「勤皇藝者」は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から採録したが、奥付の後に数頁にわたり発行元の「日高有倫堂」の出版書目の広告が掲載され、「勤皇藝者」自体も紹介されている。最後の方にこう記してある。 ≪、、、著者が事實の調査に半歳を費やせしものにして、一事、一話も維新の活資料ならざるなし≫ 君尾など、同じ、人物へのインタビューだから、微妙に違って、微妙に同じなのかもしれない。「参考」の程度が微妙だ。 <小野蕪子もしくは小野賢一郎> 実は、この作者、井筒月翁は、俳人、小野蕪子(賢一郎)( 1888/07/02 – 1943/02/01 )と同一人物だとする説もあるが、確証を得られなかった。数十年前の「出版ニュース」で謎の「井筒」を解明している文もあるらしい。小野賢一郎だとすると1928年の「維新侠艶録」は40歳のときだ。 <ジャーナリスト、小野賢一郎――陶人・俳人、小野蕪子> 本名、小野賢一郎の他、小野蕪子、小野蕪史で知られた多才な人物であったようだ。 1888年、福岡県遠賀郡蘆屋村生まれ。代用教員の後、「朝鮮日報」、「朝鮮タイムス」、1908「毎日電報社(後1911に東京日日新聞社に吸収)」記者、事業部長、社会部長、1938「社団法人東京放送局(後にNHK)」文芸部長、業務局次長兼企画部長。小説「溝」( 1911 )「蛇紋」( 1912 )を東京日日新聞で連載。 陶芸・古美術評論家としても一目おかれ『陶器大辞典』全6巻『陶芸全集』25巻( 1931 – 1933 )も刊行。 俳句は高浜虚子、村上鬼城、原石鼎らの指導を受け、大正8年、「草汁」創刊。第二次世界大戦中は、日本俳句作家協会常務理事を務め、評価も高かったようだ。 <京大俳句事件> しかし、まさに、俳壇の実力者として、戦中の1940(昭和15)年、他派閥を圧倒せんがために、新興俳句やプロレタリア俳句を弾圧した京大俳句事件の黒幕、特高警察への密告者として今日では疎まれている。戦中、1942年逝去。 <傷ましい過去、生々しい現在> この事件は俳壇に生々しい傷を遺したようだ。俳壇の派閥争いに思想弾圧が加味され、関係者によって様々に語られる一方、沈黙もあり、真相が今一つ不明瞭なこともある。 俳句というもの自体が持ち得る本来的な生々しさのせいか「俳人」たちの生々しさが見え隠れする。 <さかさ> 五木寛之の「さかしまに」( 1975/05 – 1975/06 オール讀物)はこの事件をベースにしている。この1940年前後の時代は、この作品の中で「転向」した人物の逆句に象徴されているといえよう。二転三転する時代だ。 かの男子新妻置きて弾も見き |