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休題『天地人その2の3/3(後)「人―戦争という人災」―休題の本』から本題『米国npo活動の多文化性(7)――「御旗」という権威』へ [2015年11月07日(Sat)]

<承前>(休題から)
<承前>(本題から)

岩波新書のアンコール復刊陸大卒にして元日本帝國陸軍参謀林三郎によって戦後間もない頃に書かれた「太平洋戦争陸戦概史」の紹介するのも、「休題」なので、できれば、今回と次回をもって終いにしたいと思っていた。

しかし、「近代日本」に関しては、近いようで遠く、思い込みも含めて、タイトルや紹介のみでの誤解が生じることも多く、原文で紹介されることが少ないと思われる時代的文書を、そのまま採録することが必要なものも多く、そして、本題と本質的に関係することもあり、なかなか終いにできない。

今回から、休題の続きとして、日本陸軍幹部中の幹部を生んだ陸大の卒業生の紹介の後半として、「皇族」の陸大卒業生について紹介し、これを軸に、日本が「明治」において「近代」国家になっていった過程、大日本帝國憲法下の戦前、そして戦後から、戦争についてみてみながら、本題の続きとして「権威」とは何かを考えていきたい。

◆陸軍大学校第55期に三笠宮崇仁親王( 1915/12/02 - )

<オリエント学者>

大正天皇(1879/08/31 – 1926/12/25 )と貞明皇后(1884/06/25 – 1951/05/17 )の四男、末子皇位継承順位第5位

戦後、東京大学文学部研究生として「古代オリエント史」専攻、オリエント学会創設に参加、(財)中近東文化センターの初代総裁。正真正銘、日本のオリエント学のリーダーだ。



<間もなく100歳>

○親王は現在、白寿で、間もなく、来月の12月2日をもって、百歳に。皇族では最年長であり、長年にわたる学者としての実績が特筆される。

<天皇親政、政と軍>

○しかし「戦前」は軍人であった。日本の天皇家の歴史は、世界の王家の中でも長いが、天皇自身や皇族軍人であったことは、限られた時期の短い期間だ。近代では、明治以降1945年までの短い間の出来事だ。これが休題と本題の核心にある。

○皇族軍人、軍と皇族、天皇についてみていきたい。雅なる権威と、猛々しい権力の歴史だ。

<29歳まで軍人>

○以下13年に及ぶ三笠宮崇仁親王の「軍歴」だ。「日本陸海軍総合事典」(東京大学出版会)

[]内の年齢は筆者が目安として記載したもの。原文は日付不詳のため誕生月12月は12/1として計算した。なお、中国にいたときの秘匿名という「若杉」は皇族の身の回り品の整理等に使われる「お印」からきており、若杉参謀が皇族であることを知らない兵士が多かったという。「騎」は騎兵。

1932/03  [16]学習院中等科4年修了
1934/03  [18]陸士予科卒・騎15連隊付
1934/09  [18]陸士本科入
1936/06  [20]陸士卒
1936/10  [20]騎少尉・騎15連隊付
1937/10− [21]騎校(丙)学生 −1938/02
1937/12  [21]騎中尉
1938/10  [22]騎15連隊 中隊長心得
1939/12  [23]陸大入
1940/08  [24]騎大尉
1941/12  [25]陸大卒
1942/04  [26]陸大 研究部員
1943/01  [27]支那派遣軍 参謀(秘匿名は「若杉」
1943/08  [27]少佐
1944/01  [27]大本営 参謀(2部英米課)
1944/09  [27]機甲本部付
1945/06  [28]航空総軍 参謀(教育)
1945/12  [29]予備役

以上、同事典で「1945/12 予備役」のように、下記のように、陸軍省「戦後」、廃止となる最後まで「軍人」であった。

<日本陸軍の終焉――1945/11/30>

○日本陸軍は「敗戦」から3か月半後1945/11/30 公布された勅令第675号「第一復員省官制」によって「第一復員省」に改組されることをもって廃止となった。それより早く、占領軍の予測に反し、比較的スムーズに「武装解除」が進んだといわれている。

<軍旗、聯隊旗の奉焼>

○陸軍の廃止の前に、陸軍大臣、下村定(1887/09/23 – 1968/03/25。1916/11陸大卒。1944/11より北支那方面軍司令官だったが、戦後の1945/08/23 – 1945/12/01最後の陸相となった)、は降伏文書調印が予定されていた1945/08/31まで軍旗(聯隊旗)を奉焼するよう1945/08/24に命じている。

(聯)連隊旗は連隊編成とともに天皇から親授されていたもので、基本的に取り換えることはなく、房だけを残すような状態でも大事に保持されていたもので、敵の手に渡るのは恥とされていたためだ。この奉焼をもって軍は「心的」に解体したともいわれる。

<権威と権力の象徴、軍旗>

○古今東西、軍にとってもちろんのことクニにとって」のもつ意味は大きい。と、同時に意味が大きい分「軍」と「政治」権力と権威が、真贋、新旧織り交ぜて交錯する。

日本に所縁のある「戦場」の「旗」を二つみてみたい。

<錦の御旗>

○一つは、ついに明治にして、王政を導いた「錦の御旗」だ。

宮さん 宮さん 御馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレナ

<官軍と賊軍を分かつもの>

○「勝てば官軍」という言もあるが、鳥羽・伏見の戦いで、「官軍」が、1対3の劣勢にも関わらず、勝ったのも、この「トコトンヤレ節」を唱和し、ビラを配りながら、東征大総督有栖川宮熾仁親王を先頭にした薩長軍「官旗」、「錦の御旗」をたてたのに畏れ戦いた徳川幕府軍賊軍の自壊によるものだという。

<秘密裏に用意された錦の御旗>

○そして「旗」そのものについては、大方の解説は次の通りだ。

岩倉具視( 1825/10/26 – 1883/07/20 )が薩摩の大久保利通( 1830/09/26 – 1878/05/14 )、長州の品川弥二郎( 1843/11/20)- 1900/02/26 )に「御旗」製作を内密に命じた。大久保が京都、祇園のお茶屋一力亭の9代目主人・杉浦治郎右衛門為充の娘にして、養女、妾の「おゆう」( ? - 1918/01/26 ? )に大和錦と緞子を調達させ、半分を薩摩藩邸で、残り半分を品川が長州に運び、人が出入りしても奇異に思われない藩の養蚕所の2階で秘密裏に用意した。

<微妙に綻びのある解説>

○多数の言い伝えや「物証」らしきものがあり、大方はこういうことなのだが、これが曲者で、はっきりしない面も多い。どの話もよくできているようでいて、実は個々の逸話にも、総合してみても「論理的」に、「因果関係的」に、或いは「時系列的」少しばかりの矛盾がある。

○そもそも、「錦の御旗」そのものがどのようなものか、いくつかあって、似てはいるがよくよく見ると違うのだ。

<近現代史にとっての真実>

○厄介なのは、近現代史故の「真実」を求めることの難しさだ。所詮「歴史」なので、時代時代によって「真実」が移ろうものではあるが直近過去はそれ以前の問題に溢れている。

<生々しい過去>

○とりわけ、数十年の過去については存命の利害関係者が多すぎて、伝えられる事実といわれるものが多いながら、肝心の核心の関係者の口が閉ざされていたり、それをいいことに周辺が脚色することなどもあって、「事実」の「真贋」の確認すら、かえって困難なことも多い。近すぎて「事実」の連鎖が未だ続いていて未完な「事実」が多いのも現実だ。

<官製の歴史>

それから先の過去になると、しばらくは「勝った官軍」継承者漁夫の利を得たものたちの天下であることも手伝って、直近の時代に支配的であった情報の真贋を含めて単なる伝聞であるにも関わらず、事実のごとく拡散されたり、未完の事実が恰も完結したかのように強制されたりすることも多い。

<歴史の定着>

○そうした時代が一段落した百年目くらいが節目かもしれない。利害関係者や、その利害に与った、もしくは抗った次の世代も消え、書かれたものであるにしろ、伝聞のオーラル・ヒストリーであるにしても検証の篩がかけられ、とりあえず定説がよくも悪くも固まっていく時だ。

<物証の岐路>

○この百年目くらいで、物証の運命も決まるようだ。3世代以上過ぎ、何らかの価値が見出されないと、後代の都合に合わせて最悪の場合、断捨離されてしまう。捨てられないまでも、直接的な庇護者もいなくなり、保存状態が悪くなることが殆どだ。

<軽重を超える拡散>

○今回、幕末から昭和の半ば頃の過去100年周辺を確認していて、このことを、つくづく感じた。そして、これに加えて、インターネットのお陰で、よくも悪くも孫引きが多く、情報が拡散しきっていて、物事によっては軽重と関係なく、量的にも質的にも大きな偏りがある。その為に惑わされることが多く、本稿でも幾度も書き直しを強いられている。

<明治百年記念>

○筆者の直感ではあるが、この「錦の御旗」についても、最も「事実」に近いと思われる説は明治100周年時に多数説かれたものの中にあるように思える。その前も、後も、偏った説が多いようだ。

<錦の御旗の意匠とは>

○「錦の御旗」についても、戊辰戦争時はもとより、その前の江戸や戦国時代以前の「ホンモノ」がどのようなものであったか確定できなくなっている。

○まず、旗そのものの「デザイン」だ。天皇側を擁立しようとしているにも関わらず、肝心の薩長側ですら、ホンモノのデザインを知らなかった。

続く
上記文章中、以前の投稿で
<秘密裏に用意された錦の御旗>で、
「錦の御旗」製作を内密に指示したのを誤って伊藤博文としましたが、正しくは岩倉具視です。生/死年月日とともに、本投稿版の通り、訂正し、おわび申し上げます。
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