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台風にみる世界と人間ー命名という権威ー再々開―その三、言の葉。科学すること、思索すること、信じることに溝はあるのか? [2015年06月22日(Mon)]

承前 https://blog.canpan.info/nonpo/archive/357

紀元前7世紀、ニネヴェ、アッシリアの王・アッシュールバニパル
紀元前5世紀、洛陽、の守藏室之史、老子
紀元前3世紀、アレキサンドリア、エジプトのファラオ・プトレマイオス1世
紀元前2世紀、ペルガモンの王、エウメネス2世
2世紀、エフェスス、ローマの執政官、ジュリウス・アクゥイラ・ポレマエヌス
15世紀、バチカンの法王ニコラウス5世
16世紀、サラエボ、オスマン・トルコのサンジャック・ベイ県知事ガジ・フスレブベグ

さらに時代がくだって大英博物館のジョージ4世王コレクションから、さらに米国議会図書館の時代を経てwikigoogleが言葉を集めてきた。書くこと、話すこと、見ること、聴くこと、そして想像することに人々は飽くなき営為を遂げてきた。

◆人が科学することと、思索することに境がないのであろうか。人は何故信じるのだろうか。信じることは確かめられるのだろうか。

金融すら工学になったのは一昔前だ。今や、科学や技術の牛後となっている社会。科学や技術が所詮人間の創造物の一つにしか過ぎないという自明に、せめてもの、たちかえる、真摯さが、求められている時代かもしれないと思う。

科学すること、思索すること、従って恐らくは言語することは、人間を人間社会の一員にするもの。

大昔、自然哲学、科学が日常の思惟とともにあり、それらの根幹に観測体験から分類、系譜すること、言語の端緒たる、命名という儀式があった。

科学と言語は、古代より、権力中枢と随伴し、儀式は権威と権力の庇護下にあった。畏れと恐れが信ずることと、三位一体となって、ともにあった。

その儀式にも、絶対的権威と絶対的権力のそれぞれの様変わり、離れ離れになるにつれ、社会と人間に科学が挑み始めた

再現可能性、そして、おそれ多くも、実験可能性という科学の符牒が、オカミやカミを信じることと入れ替った

信じることも変質し始めた。

かたや、絶対的権威は相対的権威の雄として、政治へと変質し、絶対的権力は相対的権力の雄として、経済へと変質した。

政治が自らの相対的権威に溺れ、コトから、経済が自らの相対的権力に溺れ、モノから、離れ、人々のコトバはかつてのあてを失い始めた

いいね!、スタンプ、RT、フォローが溢れ返る。言の葉が舞い、追いかけ、確認することが限りなく自己増殖しはじめた。このまま、散り散りにわくらばとなって、地にかえるのか、天に昇るのだろうか。

続く
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