台風にみる世界と人間ー命名という権威ー再々開―その二、なにが可笑しいのか [2015年06月15日(Mon)]
承前
いくつもの可笑しみがある。これから、おかしさ、疑問符を、少しずつ、解いていきたい。まず、最初の二つ。 ◆古今東西、「組織」とは何であったか、そして、今後何処にいくのだろうか。 組織 ―― npoにしろ、企業にしろ、国家、統治/ガバナンスとは何か。同質性が先ずあり、異質性を排除し、共有物を前提に、対外的に同一性を確保しながら生成していくのが組織の端緒ではないか。 しかし、近代に入って、組織は組織化自体が自己目的化し、四六時中、ミッション・目標の設定・イシュー、エビデンス・確認、マニュアル・手引き、ルール・規則が独り歩きをし始めた。 大学教室を飛び出して、管理・マネージメントとか評価・アセスメント、参加・コンプライアンスとか調整・リテンションが劇場・プレゼンの如く、白熱して演じられる。虚ろな指導性・リーダーシップ、責任・コンティンジェンシー、時間が流れず現実風味のない絆の惹句が続いて久しい。 外来語、借用語、カタカナ語、という言葉自体、不鮮明、もしくは、稀少になってきた。 それにしても、Stakeholder、 Compliance、Competency、Contingency、Assessmentといった言葉が溢れ、原義、系譜、経緯を外れるのは歴史の常なのだろうか。 シヴィル・ソサイエティーと市民社会の違いはあるのだろうか。何故違うのだろうか。シティズンシップと市民権、ナショナリティと国籍、、、、、では国民とはどういった造語なのだろうか、、、、、 かつてボランティアは奉仕活動といったり、チャリティとは献金ではなかったか、、、、 国境を越境して、共生社会に先駆けて言葉が錯綜するのは故あってか。凡庸な人間の限界故の本末転倒なのか、パラダイムシフトの始まりなのか。 言葉の礎は人にあるが、言葉は組織的なものだ。人と組織の往来の揺れ動きが言葉に現れる。 ◆一方において、揺れだけでなく、組織と個人の結びつきの箍が緩くなってきたようだ。組織と個人を繋いできた「生業」とはなにか。 生業 ―― 労働・参画で社会と繋がる、生計する生業は社会との絆だ。一応、国家社会、経世済民、経済と政治は今でも結びついているようにみえる。 そして、これまでは、資産のない無産者は国家にとって脅威だった。無産者にとって国家は脅威だったからだ。 しかし、いつの間にか、無形の「知的」資産の根源である、人間、その大半の無産者が、息せき切って、多くの有形、そして無形の資産を作るかのような時代になってきた。知によって、思索によって、資産が生まれるのだろうか。アセットとは何か、リソースとは何か? そうした時代になって、ボランティア活動、企業の社会貢献、社会参画、共○、協○、シェア○○等々が語られる。一方、裏腹に、ガン無視、スルー、ハブったり、引き篭もり、ヘイトから××ハラ等々も日常に語られる。 言葉が錯綜し、本業と生業が離合集散し、日常と非日常の境界が無くなったかのようだ。 現実が現代世界で二極化したのか、古くからの現実が顕現化したのか?働くとは?社会や国家は組織でなくなりつつあるのか? 続く |