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米国のトップ・コーポレート・ドナー。そもそも非営利とは何か [2012年07月23日(Mon)]

Chronicle of Philanthropy の2012.07.26 号で2011年の米企業の寄付率(2010年の課税前利益額に対する2011年寄付額比率。Krogerは2011対2012年比)トップ10が掲載された。
1位がアルコアが6.7%、10位が2.4%と、ここ数年で、急落している。
2年前にはトップのPfizerが1位で24.2%、同率8位3社が5.2%だった。
1位から10位までの順位は次の通り。
Alcoa (アルミニウム)
Merck & Company (製薬)
General Mills(食品)
Kroger Company (小売)
Starbucks Corporation (飲食)
Xerox Corporation (電気機器)
Target Corporation (小売)
Goldman Sachs Group (金融)
Safeway (小売)
Northwestern Mutual Life Insurance Company (金融)

率でなく、金額であると一般的に、産業分野毎の栄枯盛衰が遅れて寄付に反映するが、低水準の寄付率になってくると、差が縮むこともあって、大同小異の模様になってきている。

クロニクルのこの記事は、タイトルを、profit 収益の sharing 配分としている。つまり、企業が収益をどれだけ他者へ分配しているかを評価している。

この考え方を対極において、裏返しに、非企業組織、非営利組織といわれるものを定義すると、収益の全てを他者に、そして自らには配分しないというものになる。

さて、この機会に非営利とは何か、公益とは何か。これまでの論議を含め、思考実験してみたいと思う。このブログで考えているテーマの一つであり、簡単な論議でないので、いくつかの考え方の切っ掛けとなる論点を駆け抜けたいと思う。

まず思考の出発点として、非営利組織が、自らには収益を配分しないものであるとして、日本で多い「有償」の「組織関係者=メンバー」が不在の組織で、かつ金銭の実際的な動きがないならば、緩くいえば、全体としてボランタリーな組織といえようということから始めたい。では、ボランタリーな組織とは何であろうか。

「ボランタリー」なものとは何か、論議をいくつか紹介したい。

例えば、「経理的」にボランティア活動は使役、労働を当該「主宰」組織に現物提供しているとする見方を押し進め、「ボランティアの精神性」を無視し、ボランティアは役務を提供したことの見返りとして、「帳簿上」の労働対価、報酬を貰いながらも、「帳簿上」その同額を寄付するものと設定するとができる。ややこしくはなるが、実際に金銭を動かして、一旦、支払って、その場で寄付することとしても同じだ。

いずれにしても、その場で、同額を返還することが鍵だが、単純な寄付との差が不鮮明だ。やはり「精神性」が重要なのだろうか。これは姿勢の問題だ。

一方、どのようなボランティアの活動にも専門的な知識、技能、経験、そういった意味での「専門性」がボランティアには必要だ。俄かの研修や講習で獲得できるものもあるが、「専門家」が中核にあることが必要だ。そいった意味で「専門家」が、その本来、もしくは、「普段」の「生業」として「有償」で提供している「専門的役務」を「無償」で提供することが、ボランティアの理想形だとすると論点が明確にはなる。

こうした場合の「専門性」の定義も難しい。例えば、災害支援でみられる「医療」とか「土木」とか、「知的技能」から「肉体的技能」まで幅があるが比較的明示的である。しかし、単純作業とされる「コピー取り」、「ワープロ打ち」、「梱包」、「レジ打ち」とどれをとってもそれぞれの「専門性」がある。「専門性」の範囲をどこに求めるか難しい。

ということで、「専門性」という言葉から想起される「複雑性」だとか「経験知」とかの曖昧領域の定義を棚上げして、元々「有償」の「役務」を「無償」で提供していることが「線引き」の原点としておくことが可能ではある。逆にみて、その人の「労働内容」が高く評価されて「労働対価」を得られるような「役務」が「専門性」があると言い換えることもできる。

少し長くなるので、端折るが、上記の場合、ジョブ・ディスクリプションがあることが前提になることにとりあえず留意しておきたい。雇用者やマネジメント、組織、目標というものが前提になっている。

さて、「労働対価」を基準とするだけではすまない「専門性」がある。簡略にいえば、いわゆる市場にのらない専門性だ。

例えば、自らが消費するために行っている農業生産の「ノウハウ=専門性」をボランティアで提供することを考えてみると、専門性はそもそも有償、交換されるである必要はない。

もっと簡単な例でいえば、先天的であれ、後天的であれ、バイ・リンガル、トライ・リンガルなどの多言語運用者が、「外国人」に「通訳」するなどといった「専門性」もある。

市場にのらない「シャドウワーク」、わけても家内労働という広大な領域の「専門性」もある。子育て、炊事、清掃、話し相手といった「ボランティア」でよく見られるものだ。

こうしたものを括って、「専門」という概念の多義性から一挙に遠のいて、個々人が通常過ごしている「時間」を犠牲にして、「他人」にその「時間」を提供しているものであると、概念化することもできる。

しかし、「労働」や「時間」を軸から外すことも容易い。

献血や生前や死後臓器提供するといった、自らの身体の一部を「無償」で「ボランタリー」に提供することが分かりやすい例だ。

或いは「信用」を提供することもある。有名、無名の人が名前を公開する「宣言」とか「意見広告」、「署名活動」といったもの「署名」、「名義貸し」、「仲介」の類いだ。国際NGOのDMやチラシ、HPでよくみられる「ボランティア体験談」「気付き経験」などのPRへの協力もこの類に加えられる。

こうしてみると、そもそも、何故、誰によって、何によって、ボランティアが必要なのかという視点を加えていく必要性もみえてくる。

考えやすいのが、例えば、圧倒的な人員不足が生じる災害時に必要だが、日常的に必要とされないため、存在していなかった「専門性」だ。

筆頭に、当該コミュニティの「規模」や「中・短期的」な状況からして、元々なかったか、稀少だった「専門性」が想起される。

さらには、大きさや期間の問題でなく、自然風土から人間の信仰にいたるまで、社会の余裕、忌避、不備など様々な理由により、元々なかったか稀少だった「専門性」。他の地域や社会にはあるものである場合。かつて過去にはあったものの現在では失われている専門性の場合もある。

無論、ほかでも、過去にも、存在しない「専門性」もある。

少し長くなってきたので、次回以降続けたい。
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