マンデラ・デイ。アパルトヘイトと名誉白人 [2012年07月19日(Thu)]
昨18日、Nelson Rolihlahla Mandela ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ ( 1918.07.18 - ) は94歳になった。南アは、マンデラ・デイを祝った。各国の要人が訪問したり、祝辞を送ったりしている。
南アのapartheid アパルトヘイトが消えてから18年。「アパルトヘイトなんか知らないよ」といえる世代が世界中で成人し始めた。 オリンピックの開催が話題になっているが、冷戦下でさえ東西両陣営の各国がオリンピックに選手を送っていたが、1964年の東京オリンピック以降、1988年のソウルオリンピックまで、南アは参加していなかったか参加を許されなかった。それほどアパルトヘイトの実態は看過できないものだった。 1962年、第17回国連総会の「南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策に対する制裁」総会決議(1761).。Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約 = 人種差別撤廃条約 (1965年第20回国連総会採択、1969年発効。日本は1995年加入) 等があった。 日本では次のようにCommittee on the Elimination of Racial Discrimination (CERD 人種差別の撤廃に関する委員会に報告している。 「我が国は、従来より一貫して人種差別に反対するとの基本的立場を維持してきており、南アのアパルトヘイト問題についても国連憲章の目的である人種平等及び基本的人権の尊重を踏みにじるものであり容認できないとの立場を堅持してきた。特に1960年以降の南ア情勢の悪化に伴い、国際社会は段階的に対南ア制裁を強化していくこととなったが、1960年代より国連総会及び安保理において、対アパルトヘイト非難決議が累次採択される際には、我が国もそれらの決議を積極的に支持するとともに、我が国としても、かかる情勢を勘案し、南アのアパルトヘイト撤廃を促すため、国際社会とも協調の上、対南ア規制措置として、外交関係を有さず領事関係にとどめ、直接投資禁止、融資自粛要請、スポーツ・文化・教育交流規制、武器輸出禁止、対南ア輸入規制、観光規制、南アとの航空機相互乗り入れ停止その他の各種対南ア規制措置を講じてきた。 国際的努力の結果、南アにおける民主化が進展し、アパルトヘイトが撤廃されることとなったので、こうした進展及びこれを歓迎・支援する国際社会の動向を踏まえ、これら規制措置は94年1月までにすべて解除された(92年1月外交関係再開)。」 第二次戦後の日本では、いくつかの国際的な人権運動の流れがあるが、反アペルトヘイト運動は、いわゆる東西冷戦下で、世界的にも、国内的にも政治色・政党色が影を落とす様々な運動と一味違ったものとして、日本でも細々ながらも活動が続けられていた。 例えば「Hitler, connais pas ヒトラーなんか知らないよ」というフレーズをもじって、「シュバイツアーなんか知らないよ」という運動が展開していた。 「密林の聖者」といわれたAlbert Schweitzer アルベルト・シュヴァイツァー( 1875.01.14 – 1965.09.04 )博士の像が欧米世界の勝手な思い込みで、博士が白人と黒人を「兄弟」といえば聞こえが良いが、実は、白人を兄、黒人を弟とする姿勢に多くの現地の人々が反発していた。こうした象徴的な事実を伝え、アフリカに対するステロタイプな見方、ひいては残虐なアパルトヘイトの実態を見て見ぬふりをする態度を変えようとするのが「シュバイツアーなんか知らないよ」という運動であった。 特に日本人は、南アで、黒人のみならず「有色人種」が差別される中、「Honorary Whites 名誉白人」という妙な名称で白人側に遇せられていて闊歩していた実態は哀しくも滑稽で欺瞞的な雰囲気が漂っていた。欧米並みに、欧米以上に、公式には反アパルトヘイト政策を標榜していても、現実的には多くの日本系企業が南アに参入していたからだ。 尤も1970年代前半まで、同じ南半球の「白豪主義」をかかげるオーストラリアでも日本人は名誉白人であった。 冷戦や大国の興亡といった東西や南北問題、覇権だけでない。この半世紀、グローバライゼーションは多くのものを生み、多くのもの変え、多くのものを失くした。 |