狂気の歴史、科学の限界と由縁―休題の本 [2011年02月24日(Thu)]
感覚のみならず、思念の相対化はワールド・スタディーズの基底におくべきものとしてとても大事なことだと思います。
今やクラシックスになったフーコーの「狂気の歴史」は、最初博士論文として60年代に書かれたそうですが、日本でも70年代半ばに翻訳される以前から、60年代末期から70年代にいたる混沌の中でも新しい時代への指標として、徐々に知られるようになったと記憶しています。 様々な事物を空間的にも、時間的にも相対化する、「危険」な作品の嚆矢でした。パトスとロゴスの二元論はもとより、イデオロギーや宗教にいたるまで、パトスとロゴスともにそれぞれの中での作業を含めて批判的に検証されてきました。 正義に関する白熱と違って、「ロゴス」を「ロゴス」で、「科学」を「科学」で検証することには限界があるかも知れません。 しかし、金融工学をはじめ、統計学や医学など人間の営みと関連する「科学」に人々は魅了されることも間違いないようです。 今回はそうした、「科学」を検証する「科学」の著作を紹介します。 民による政、フェイスブックによる社会への直接参加が、デモクラトス、法典のギリシアでもなくローマでもない他ならないカルタゴが滅んで二千年、蕩尽された同地、チュニジヤを発信源にして、地中海世界に変動が起き始めました。まず最初に「政治」、「民主主義」という人の営みの中の「数字」や「数学」を検証する本です。 心理学、心理テストと占いの間の違いは迷える人たち、希望を求める人たち、心を擽られたい人たちに大きな違いはないかも知れません。 フーコー後も心の病の再生産は止まないようです。 心の「病」であろうが、体の「病」であろうが、とりつかれた人たちにとって、癒しの福音は至上のものでしょう。 科学の外にいても科学がほかの科学に疑問を抱くことも知ることができるようになりました。 科学自身がその限界を吐露することも珍しくなくなりました。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx ここをクリックするとこのブログでの「書籍紹介」というカテゴリーの記事が一覧できます |