ガリレオ式望遠鏡、顕微鏡、眼鏡職人―カトー研究所―国境なき記者団(報道の自由その64) [2010年10月26日(Tue)]
承前
ガリレオの長女は1633.12.10付のガリレオ宛ての手紙でガリレオがフィレンツェへ向け出発した報を受け、如何に帰郷を待ちわびているかの「天候」の変化が父の出発を許したことにいかに皆が喜んでいるか、記しています。 喜んでいる「皆」が姉妹、修道会のことか、支持者のことか、はっきりしません。また、「天候」が気象の「天」か、バチカンの「天」か、はっきりしません。単純な意味合いかも知れませんが、ダブル・ミーニングか断定できません。 この手紙が件の124通の手紙の最後となっています。本信も帰途の途中でいかに届けてもらうか算段していたくらいで、週末に帰郷してからは、直接会えるようになり、手紙の必要がなくなったと解されています。 しかし、マリア・チェレステはそのわずか4カ月後の1634.04.02の夜、6日間の闘病の後、腹痛、下痢、脱水症状で伏せって、僅かにスープをのみ、衰弱し、死にました。赤痢といわれています。この時代の衛生観念、マリア・チェレステの貧弱な栄養状態からみて、さもありなんと思われます。 そもそも、飲食によって感染することがわかったのは遥か後ですし、ましてや菌による感染であることが知られるのも、1882年にコッホが結核菌、1893年に同じくコレラ菌、1894年に北里柴三郎がペスト菌そしてようやく1897年に志賀潔が赤痢菌を発見してからも「世間」に認知されるまで年月を必要としました。 望遠鏡と顕微鏡の発達は当たり前ですが、不即不離です。 原理的には、老眼鏡に使う凸レンズを2枚、「たて」に並べて通して見れば、顕微鏡、これを逆からみれば望遠鏡(ケプラー式)になります。 すなわち、凸レンズ、すなわち、老眼鏡や虫眼鏡に使われている、真ん中が膨らんでいるレンズで膨らみが違うもの2種類用意し、厚い方、すなわち、焦点距離が短く、つまりは度が大きい方を、眼で覗く側、接眼レンズにして、一方、薄い方、すなわち、焦点距離が長く、つまりは度が小さい方を、覗きたい対象物の側、対物レンズにすると、ケプラーが発明したケプラー式望遠鏡になります。そして、原理的には、接眼と対物レンズを入れ替えると顕微鏡になります。 ケプラー式は上記のように凸レンズを2枚使う一方、ガリレオ式は対物の凸レンズ、接眼には凹レンズを1枚ずつ使う方式です。 眼鏡職人が、凹レンズや凸レンズの2枚のレンズを、ふと、組み合わせる「偶然」は、後からみれば、多くの発明ばなし同様、いつでもあり得ました。顕微鏡が先でも、望遠鏡が先でも、逆さにすればいいわけなので、片方が見つかれば、もう片方が「発明」されるのが間もないことは想像に難くありません。 実際の歴史でもそのように展開したようです。そもそもの水晶、ガラスなどの素材の改良、加工技術の改良、など、歴史的にこの時期に「発展」し、例えば薄い、つまりは焦点距離の遠い、レンズ、つまり弱い老眼や近眼のためで、それほどの必要性が市場に出回るくらいに普及し、必然の偶然として、望遠鏡はうまれたと考えられます。事実「最初」の望遠鏡を発明したといわれる人は複数います。 いずれも、眼鏡職人で、オランダ周辺の人です。誰かが最初か、みな同時に思いついたか、剽窃があったかどうかは藪の中ですが、明確なのは、組み合わせて効果のある種類とレベルのレンズがそこかしこにあったということだといえます。これについては後述します。 メガネ職人の新作にヒントをえながら、ガリレオが奇しくも正立像のガリレオ式にこだわったため、逆立像になってしまうケプラー式の望遠鏡に、レンズ技術が高ければ劣るはずだったものの、ガリレオ自身が当時としてはいち早く精巧なレンズを作り、天上の発見を繰り返します。 木星の衛星という地球以外のものの周りを回転する「星」を発見、全き球面であるはずの月面の山谷を精確に観測し、月のように満ち欠けして自ら発光しない金星、土星の環、それこそ天地を引っ繰り返し、将来の教皇となる枢機卿にいたるまで驚嘆させました。 学者と職人、メガネの市場とレンズの技術向上、そして望遠鏡、顕微鏡はお互いに影響しあいながらその後も発展していきました。 ガリレオ式が優った理由、もしくは、ガリレオがガリレオ式にこだわった理由はよくわかっていないようです。遠くの教会の文字が読めることで驚かせて有力者に「売り込んだ」ように、軍事を含めた地上での実用的な利用を売り込むには正立像の方が優位であったという説もあります。 しかし、当時のレンズ技術からいって、せいぜい良くて「球面レンズ」をいかに真球に近く磨いて作ることがせいぜいだったと考えると、凸レンズ同士の組合せより、凹凸レンズの組合せの方が、優位だったということかもしれません。 つまり、当時のレンズ技術からみれば、凹凸レンズの組合せの方が、球面収差並びに色収差を相対的に抑え込み、明るさや、視野の狭さを犠牲にしてでも、「ブレ」を最小限にしてよりよく観測できたからだろうという説に筆者は魅力を感じます。 球面収差とは、単純な、つまりは完全な球面レンズでは、遠くから来た平行光線が屈折によって一点に集まらないためにおこるブレです。衛星テレビのアンテナがパラボラ(凹型の放物面)であるのは反射であるので意味合いが違いますが、平行に入ってくる電波が単純な、つまりは完全な球面鏡では一点に集中しませんように、球面のレンズでは屈折後の光がブレることになります。 色収差とは、色によって、つまりは波長によって屈折が違うため、もともと一つの光線がプリズムを通したときにみられるように虹色に分解しておこるブレです。反射望遠鏡は色収差を克服するために考え出されたものですが、ニュートンですらパラボラ、放物面の鏡を作る技術的な困難を避け、球面鏡でとりあえず間に合わせたということと同様に、レンズを使った屈折式でも、非球面レンズの技術にはいたらず、球面収差によるブレは克服できなかったようです。 そうした技術水準が、レンズでの球面収差に比して数百倍、色収差はブレが酷いということで、屈折式から反射式への移行は大きな改善を目指すには必然だったと認められます。 今日、球面収差には、プラスチック成形の眼鏡やデジカメでよくみられるように、非球面レンズで、色収差には、本格的な一眼カメラでよく見られるように、複数のレンズを組み合わせることで克服しています。 しかし、こうした問題が改善されたとしても、光が波であるために、レンズの大きさが有限である以上、回折現象は回避しがたく、その結果、Airy disc エアリー・ディスクとAiry pattern エアリー・パターンとよばれる、中心部が明るく同心円状に明暗が交互に広がる現象が避けられません。 Airy はair空気が語源でなく、星にこの現象を観測し、理論的に説明した、英国の王立協会の会長(1871 – 1873)をつとめグリニッチ天文台長(1835 - 1881)であったSir George Biddell Airyサー・ジョージ・ビドル・エアリー(1801.07.27-1892.01.02)に因んだものだそうです。エアリーの決めたグリニッジの子午線が1884年に世界の本初子午線となったことで知られます。 このエアリー・パターンは、つまりは光の強度が矩形的でなく急峻とはいえ、山のように連続的に「なだらかに」変化し、さらに、暗部と明部が交互に、小さな山と谷のように波紋状に広がり、隣接したもの同士の光が重なってしまい見分けられなくなります。 これが分解能といわれるもので、他のものを改善できたとしても、屈折式のレンズの組合せによる望遠鏡さらには顕微鏡には最終的な限界の原因となります。 続くxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 「報道の自由」はここから始めました。 「閑話休題」の....... 最初はここです。 直近はこれです |
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