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ガリレオの娘―カトー研究所―国境なき記者団(報道の自由その64) [2010年08月18日(Wed)]

承前

ガリレオのドラマチックな人生は、父に1618年、12歳にしてようやく認知され、23歳にして結婚し、最期を看取った男の子の婚外子ヴィンツェンツォ(1606-1649)、と、この弟子のヴィヴィアーノだけでなく、周辺にいた人たちとの関係を巡っての多数の逸話があります。

その白眉は、なんといっても、仮に並んで安置されていたガリレオと弟子のヴィヴィアーノの棺をいよいよ正式に埋葬しようと開けた時、ガリレオの棺には、もう一体の棺があったという事実です。

この遺体の正体は、ヴィンツェンツォ同様1618年に認知され、修道院に預けられながらも、父に熱烈な想いを寄せ、その父宛ての手紙も残されている、婚外子の姉妹の一人だったということです。

婚外子の姉妹はVirginia ヴィルジーニア (1600.08.13 - 1634.04.02 ) (後に1 616.10.04 修道誓願により Suor (Sister) Maria Celeste マリア・チェレステ = 天界のマリア) Livia リヴィア ( 1601.08.18 - 1659.06.14 ) (後に1617.10.28修道誓願によりSuor (Sister) Arcangela アルカンジェラ)でした。

ともに、弟ヴィンツェンツォ同様、ヴェネツィアの Marina Gamba マリナ・ガンバ ( 1570? - 1612.08.12? ) の子でした。1612年、12、13歳にしてサン・マッテーオ修道院に預けられ、後に17、18歳にして認知されともいわれますが、いずれにしろ洗礼時には父親不明とされていました。

さて、親子の関係について諸説あるのでここでは端折るため、若干の筆者の感触が入っているかもしれませんが、諸説をおおまかに概観することにします。

およそ400年も前のこと、日本でいえば、徳川家康から家光あたりの時代ですが、社会や家族制度が具体的にどうであったか微妙な難題がいくつかあります。

そもそも、この時代にあって、「認知」とはどういうものであったか。「成人」、「成人式」とは。12、13歳や17、18歳がどの程度「子供」で「大人」なのか。現代と違うことはたしかです。例えば、「嫁入り前」に修道院で過ごすことの一般性。

さらには「家格」「経済力」のバランスによって、「有力」修道院で「花嫁修業」して「持参金」を持参して結婚するか、俗人と結婚せずに「修道院」にそのままいるかの二者択一が時代の雰囲気であったか。いずれにしろ、三姉妹弟が「不遇」であったかどうかも「現代的」には考えてはいけないようです。

史実が、失われた可能性があるものの、示している点も、そういった意味で両様にとらえることができるものも少なからずあります。

浪費家と、長女の姉が心配し面倒をみたとされる、次女の妹が、全く父との交信が残っていない一方、対照的に姉の長女と父、ガリレオとの間では、様々なガリレオ論の種となっている、書簡が多数残っていること。

1623.05.10〜1633年の間の長女発父宛ての「愛情」溢れる手紙が実に124通、つまりは月1通の」割合で書かれたものが、残されていたこと。

一方において、父から長女への手紙が、父が教会からの審問、長女が修道女であることもあり、処分されたとする説が有力であるものの、全く残っていないこと。

とはいえ、1623.08.13の彼女の手紙には大事に保存し読み返しているとあること。また、ガリレオから他人への手紙には長女に対する愛が語られているものが残されていること。

長女の手紙も、唯一の頼りとするパトロンへの気遣いに過ぎないとする説もあるものの、わが身よりは父や妹を慮る内容に満ち溢れている。しかし、父から嫌われてたともいう息子同様、少なからず、金銭等の無心をしていること。もっとも、当時の修道女、特にこの修道院は貧しく、縁者から仕送りか食品を売ったりして、はじめて、成り立っていたとも。そして、こうした仕送りなど、ガリレオは長子、大黒柱としての経済的な理由で計算尺の販売等商売っ気や盛んに就職・転職活動、キャリア・アップを目指したとする説。

一方、父の子供に対する愛情の証として、何よりも、前回紹介しましたように、1617年以降、娘二人が預けられていたサン・マッテオ修道院のより近くに住むため居を2度も移したこと。

もっとも、この逸話も、居を移したのが1617年で、預けたのは1613年、認知したのは1618年であってずれていることからして、経済上の事情として努力していたと「甘く」みるか、後で孤独になり始めてから翻意したと「厳しく」みるか、解釈が分かれるようです。

続く
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