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«ヴィヴィアーニ、三角方眼紙、計算尺―カトー研究所―国境なき記者団(報道の自由その62) | Main | 「地球のかたちを哲学する」-休題の本»
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ピサの斜塔、それでも地球は動いている、禁書目録―カトー研究所―国境なき記者団(報道の自由その63) [2010年08月16日(Mon)]

承前

ヴィヴィアーニは、前述のように後世に名前が残されていることからもわかるように、ガリレオや「兄弟子」等がついていた要職の後継などをつとめたのみならず、フィレンツェのアカデミア・デル・チメントの創設時のメンバーであったことをはじめ、1667年の前述のフランスの科学アカデミー創設時の外国人会員にもなるなど、この時代の代表的な学者の一人でした。

フィレンツェに生まれ、子供のころより数学の天才として誉高かったようですが、1639年、17歳より、既に70台半ばのガリレオの最晩年、助手兼世話係をつとめはじめていました。

ガリレオは53歳の1617年4月より、フィレンツェの郊外の南の丘陵地帯にあって、後述するSan Matteoサン・マッテオ修道院からロバもしくは徒歩で45分だったっといわれるBellosguardoに住んでいました(グーグル・マップで自動的にひかれる現代の道路事情での徒歩コースで4.1キロ。直線距離2.9キロ)。

しかし時代が下って、ヴィヴィアーニが世話を見始めた頃は、ヴァチカンに敗退し、1630年夏に流行しはじめた腺ペストが蔓延する時期に、「審問」より戻った69歳の1633年12月からは、2年前の1631年の9月に購入したばかりの、Arcetri アルチェトゥリの Villa il Gioiello ( = jewel = 宝石) ヴィラ・イル・ジョイエッロ/ Villa Galileo ヴィラ・ガリレオに戻っていました。

「審問」についてはいずれ別途紹介したいと考えています。

大雑把に紹介しますと、16世紀以降のこの時代の「異端審問」は、以前に比べると、体系的・組織的になっており、各地、各界の有識者が検閲・審問するなどして、人よりは「信仰=思想」、従って「著作」のチェック、すなわち、 Index Librorum Prohibitorum (羅) = List of Prohibited Books 禁書目録が軌道にのりはじめた時期です。

禁書目録は1948年の20版まで改訂され、1966.06.14に廃止されるまで続きました。ヴァチカンの所轄官庁は現在の教理省が引き継いでいるところの、Congregation of the Holy Office of the Inquisition 検邪聖省でした。

当のガリレオの「Dialogue Concerning the Two Chief World Systems - Ptolemaic & Copernican 天文対話」1824年にリストから除かれ、1992.10.31ローマ教皇庁のPontifical Academy of Sciences 科学アカデミーにおいて、教皇ヨハネ・パウロ2世が「Lessons of the Galileo Case ガリレオ事件からの学習」として当時の「審問手順」が過っていたと講話し、400年弱を経て、「公式」に名誉が回復されました。

さて、アルチェトゥリのヴィラ・イル・ジョイエッロ/ヴィラ・ガリレオサン・マッテオ修道院にさらに近く、グーグル・マップに経路を引かせるまでもなく、少し歩いて右折して少し歩けばすぐの、わずか470メートルのところにありました。

ガリレオは既に6年も軟禁されていましたが、支持者の多くを失い、さらに1637年に右目、1638年からは両眼を失明していた師を、ヴィヴィアーニは献身的な世話をしたと伝えられています。そして、遂には、死を看取った数少ない三人のうちの一人となったのです。

アカデミア・デル・チメントの短い10年の歴史の中で、前半期には、標語の如く、メンバーは実験につぐ実験につとめたていましたが、後半期、アカデミア・デル・チメントが精力的にそれらの成果の記録、公刊活動に取り組むこととなって、ヴィヴィアーノはその立役者となりましたし、ガリレオの伝記 ( 1655 - 1656 )を取りまとめたことでも知られています。著書では「Ultimo Scolare del Galileo ガリレオ最後の弟子」と自称しています。

ピサの斜塔から鉄の球を落とした逸話はこのヴィヴィアーニの創作といわれています。本当は空気摩擦を防ぐため斜になったレールで実験したといわれています。

創作ということでは、断罪された直後に「eppur si muove = それでも動いている」と呟いたとされる逸話も、ヴィヴィアーニが記述した伝記にもなく、一方において、1640年頃スペインのBartolomé Esteban Murillo (1617.12.31洗礼 - 1682.04.03)もしくはその弟子が描かいたとされる絵画に、監禁されたガリレオが壁に書かれたこのフレーズを指していることが発見され、創作であったとしても、ガリレオの死亡が1642年であることから、既にしてその前後から、「伝説的」に長く伝えられてきたものだということが分かります。

因みに、ガリレオが生まれた1564年にはルネッサンスを代表する一人、ミケランジェロが(三日後に)死にガリレオが死んだ1642年には近代を代表するニュートンが生まれています。

ミケランジェロやガリレオのイタリアの1582年等、カソリック系のヨーロッパのほとんどが16世紀末までにグレゴリオ暦に移行していましたが、プロテスタント系諸国/地域は遅れて1700年以降ニュートンの英国は1752年(しかも新年を3月25日)に移行しています。

従って、上記の文章を「精確」にすると

ガリレオが生まれた1564年(ユリウス暦 1564.02.15 )、三日後にはルネッサンスを代表する一人、ミケランジェロ(ユリウス暦 1475.03.06 - 1564.02.18)が死に、ガリレオが死んだ1642年(グレゴリオ暦 1642.01.08 )には近代を代表するニュートン(同人の居住していた英国ではユリウス歴 1642.12.25 - 1727.03.20 )(グレゴリオ暦では 1643.01.04 - 1727.03.31)が生まれています。

となります。

つまり、ガリレオ自身、暦の上でも暦を跨って、生まれ、死んだということです。

こうして、ガリレオに献身的に尽くし、まともに埋葬されていなかった師ガリレオと同じところにヴィヴィアーニは埋葬されることを望み、一室に棺が保存されていました。両者は1730年代に入って教会も認めるようになって、ガリレオが厳かにフィレンツェは Santa Croce サンタ・クローチェ教会に埋葬されたとき、ようやく弟子の希望が結実することになりました。

続く
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