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授戒、受戒、大学生―カトー研究所―国境なき記者団(報道の自由その39) [2009年07月03日(Fri)]

承前

1153年、11歳から静心に師事し、13歳で叡山に、14歳落髪、そして具足戒を受け、17歳、安養寺の師である静心が亡くなり、同人の遺言により千命から密教を学び始め18歳には「虚空蔵求聞持法」を授けられたといいます。

このそれぞれの年齢における手順自体は、当時としては、ごく一般的なもののようです。身体的にも、精神的にも、今日とはだいぶ違うでしょうが、中学校一年で、叡山で修業高校卒業時には、より上級へと進級するために必要な「虚空蔵求聞持法」という記憶術を覚えた、ということになります。

平安末期、当時の日本人口は諸説ありますが、凡そ600〜700万人で今日の1/20だったといわれます。

今日18歳人口は130万人で人口の約1%進学率は47%大学生数は約280万人、人口の約2%です。1950年ですと大学生は約22万人、総人口8400万人のうち約0.2%でした。因みにほぼ全員が戦後生まれになったと思われる1960年代末期には、まさに団塊の世代がコアですが、大学生130万人、人口約1億の1.3%になっています。、

つまり、栄西18歳の頃平安末期に、戦後間もない頃の大学生並みに大学生がいたとすれば1万、同様に60年代末期並であれば6.5万、今日並みであれば14万人ということになります。いわゆる国家の認定する「僧」が年10人という形で始まり、最澄等が拡張してきた「得度僧」の制度が、「私度僧」などがますます増えて、まさに崩れんとするこの時期、平安末期には僧籍にあって「勉学」する人たちの数は結構多かったのではないかと推察されます。

そもそも、先述の「具足戒を受ける」、受戒する、逆から見れば、授戒<仏教史・理論の中では授戒と受戒が、授受が、対称のものではないとする考え方、とりわけ日本では授戒が強調されたとする考え方もあるようです>とは、「聖職者」として、戒律<漢字の原義からいえば、自ら戒める道徳規範は集団の一員として従う集団規則、ルールと素人の筆者としては理解できますが、外在的な律が様々なのは当然としても、内在的な戒については、なおさらのこと様々な考え方があるようですし、インドの長い仏教前史を含め、中国の道教、儒教と共存する中での仏教としての戒律をめぐる様々な流れや考え方があるようです>を守ることを約束させ、仏教体系の中で認定するものです。日本での仏教普及黎明期には、単純な理由として、それを授ける側の「権威」となるべき、既に受戒した仏僧がいなかったために、「簡易」に、自誓授戒、つまりは自分自身で誓うという形で、行っていました。

そして先述の通り、この状況を打開するため、栄叡、普照が授戒できる僧を中国から招くため、派遣され、鑑真がこれに応じて753年に来日し、東大寺戒壇院をはじめ、国家が仏僧を認定していく礎が作り上げられていきました。

続く
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