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バイロンと動物(5)凱旋門の馬とナポレオン・インパクトCオリンピック。国とは?その31―閑話休題(再三) [2006年12月08日(Fri)]

<承前>

いわゆる欧州のtriumphal arch凱旋門古代ローマに端を発し4世紀までにローマには36つくられましたが5つだけが現存しています。ローマ時代後に大きく復活させたのはナポレオンで、その代表的なものがパリ市内にあってétoile 星のように12本の通りを放射状にのばし、凱旋門の代名詞になっているArc de triomphe de l'Étoile エトワール凱旋門です。

ディープインパクトが挑戦したPrix de l'Arc de Triomphe 凱旋門賞もこの凱旋門からとられています。

このエトワール凱旋門はナポレオン仏軍が1805年に、神聖ローマ帝国が解体することになる、いわゆる三帝会戦、Battle of Austerlitz アウステルリッツの戦いでの墺露同盟軍への大勝を記念したものです。先述のとおり、トラファルガー海戦など海上では英軍に惨敗していたのと同時期で、仏英ともに、この敗北の戦略上の意義を理解していなかったといわれます。

結局、エトワール凱旋門は1806年に着工されながらも、オーストリア宰相メッテルニヒの計らいで再婚した新妻、ハプスブルグ家のオーストリア皇女、Marie-Louise マリ・ルイーズのパリとの「凱旋」時間に合わず、木製のもので代用されたどころか、完成も、ナポレオン後、王政復古時の中断を経て、Louis Philippe ルイ・フィリップ時代の1830年代になりました。

カルーゼル凱旋門も同様にナポレオンの1805年の戦勝を記念してエトワールより先につくられたものです。これは204年につくられながらも、ナポレオン時代のイタリアのフォロ・ロマーノで1803年にCarlo Feaによって掘り出されて、ようやく、再度、世に知られ、おそらくはナポレオンに強い印象を与えることになった、ローマ皇帝、Lucius Septimius Severus ルキウス・セプティミウス・セウェルスの、かつてのペルシア、今日のイランである、Arsacid dynasty Parthiaアルサケス朝パルティア=安息への戦勝を記念した凱旋門に倣って作られたものです。

パリの南西約10kmのChâteau Neuf de Meudon ムードン城から運ばれたバラ色の大理石が使われた高さ15m、8本の柱よりなる3つのアーチから構成されて1808年に完成しました。ムードン城はフランス革命後は無人となり、一時は、史上初の軍事用観測気球として1794のBattle of Fleurusに使われた気球の工場として使われたものの、1795年に火災と略奪にあい1803年に取り壊されていました。

その後1812年には、ここにナポレオンは、マリー・ルイーズとの子、ナポレオン二世、通称、神聖ローマ帝国を独占してきたハプスブルグ家が自家の人間に、ローマ皇帝として戴冠していない者の称号として与えたKing of Romansローマ人の王を気取ってよんだ、King of Rome ローマ王の公邸として城を再建しました。ベニスからこのムードンの地まで、ナポレオンの絶頂期の証がみられます。

ムードン城はその後、普仏戦争の折1871年には焼失し、その跡地の一部は太陽観測天文台となっています。

いうまでもなく、紀元前からはじまり、ローマ皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルスに滅ぼされた「パルティア」はイスラム化以前のペルシアであり、先に紹介した、クイーンのフレディ・マーキュリーの出自である、イスラム化後のペルシアから逃れたインドのゾロアスター教徒の子孫をさす「パールシー」と語源が同じです。

因みに、カルーゼル凱旋門を誇らしげに飾っていた馬のブロンズ像も、ナポレオン没落後、1815年にがベニスに返還されたたため、ナポレオンにも復古王政にも仕えたFrançois Joseph Bosio フランソワ・ジョゼフ・ボシオがつくった、同じ、ただし様々な意味での「勝利」の結果の「平和」と「復活」を象徴させて、御者が率いる別の4頭の馬にとってかわられました。

<続く>

バイロンの足跡をたどる記事は最初はここから開始しました。
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