2017年04月18日(Tue)
「日本のアウシュビッツ」と呼ばれた負の遺産
多くのハンセン病患者の命を奪った“懲罰”施設を
偏見と差別をなくす拠点としての資料館に 群馬県の北西部に位置する草津町に、ハンセン病の国立療養所「栗生(くりう)楽泉園」があります。ピーク時には1,300人を超えた入所者も現在は87人、平均年齢は80歳を超えます(2016年1月1日現在)。この療養所敷地内にはかつて、多くの収監者が亡くなったといわれる懲罰施設、通称「重監房」がありました。この施設を負の遺産として後世に伝えるため、2014年4月に重監房資料館として開館、出土品や建物の実寸大模型などが展示されています。日本財団は、この重監房資料館と、東京の国立ハンセン病資料館の管理・運営を、2016年4月より厚生労働省から受託しています。 |
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標高1000メートル以上、冬の気温はマイナス20度になることもあるという栗生楽泉園敷地内の山中に作られた重監房。訪ねた日は4月半ばにもかかわらず、到着時の気温はマイナス2度。前日に降った雪は30センチ積もり、重監房跡地への道は閉ざされていました。 重監房が造られたのは1938年。当時、隔離政策によって強制的に全国の療養所に入所させれたハンセン病の患者の中には、逃亡や反抗をする人もいました。そのため、所内の秩序を保つためとして、全国の療養所に監禁室、通称「監房」が設けられていました。各療養所の所長には、規則に背いた患者に対して処罰・監禁を行える権利「懲戒検束権」が与えられ、所長の一存で裁判など経ずに監房への収監できることになっていました。中でもとりわけ反抗的とされた患者を全国から送り込み、さらに重い罰を与えるためにつくられたのが重監房でした。中には、証拠のない殺人の罪を着せられて収監された患者もいたとされます。 懲罰施設の当時の正式名称は「特別病室」。病室とは名ばかりで、患者への治療は行われることはありませんでした。 約4.5メートルの無機質な塀に囲まれた中に、8つの独房がつくられました。逃亡を防ぐためか、監房の入り口から独房までは、頑丈な南京錠で閉ざされた分厚い扉がいくつも設けられています。4畳ほどの独房には、壁と屋根はあるものの、ほとんど吹きさらしに近い状態で、夏は蒸し風呂状態、冬は霜でせんべい布団が床に貼りついてはがれなくなるほど。外界とつながっているのは、郵便受け程度の灯かり取りの窓と、食事を差し入れるための窓、そして逃亡しないよう浅く掘られたトイレの穴だけでした。食事は1日2回の麦飯と具のないみそ汁だけ。房に明かりはほとんど入らず、昼夜の別さえ分からなかったといいます。
● 国立ハンセン病資料館プロジェクトページ |