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2012年03月22日(Thu)
被災漁民の闘い ボランティアに支えられ着実に復興へ
(日本海事新聞 2012年3月22日掲載)

広報グループ
広報チームリーダー 福田 英夫

 東日本大震災から1年がたった牡鹿半島の東部地区。宮城県北東部に位置し、太平洋に突き出した半島でもカキの養殖が盛んな地域。震災により多くの漁村が甚大な被害を受けたが、1年たった今、ワカメ収穫の最盛期を迎えている。昨秋に種付けをしたワカメが大きく育ち、出荷の作業に入っている。「手っ取り早く金になる」とワカメ栽培を始めた漁村は少なくない。被災漁民の復興への闘いが始まっている。
 ほぼ壊滅状態にあった萩浜では、漁村は全壊、3分の2以上の船が被災した。豊嶋祐二さん(59)は「震災直後の2カ月間は全くやる気が起きなかった」と当時を振り返る。毎日、ただ海を眺めて過ごした。

 そこに日本財団が派遣する学生ボランティアが入ってきた。海岸に打ち上げられたがれき、山まで流されてしまった漁具を回収し、浜に並べていく。失われた資材が集まってくる。その姿に勇気づけられ、「頑張ろう」と気持ちを奮い立たせ、一緒に働いた。収穫作業を手伝う浜のお母さんは「メカブは天ぷらにすると美味しいよ」と採れたてのワカメを手に笑顔を見せた。

 宮城県内でも随一のカキ生産量を誇る狐崎浜。若い漁師が多く、元気のある地域の一つだ。「20年前はカキ御殿が多かった。1日に120万円稼いだときもあった」と高橋勝蔵さん(71)は活気に沸く当時を懐かしむ。そんな高橋さんは、学生ボランティアから先生と親しまれている。鹿から畑を守ろうと網を使った柵作りにひもの結び方を教える先生だ。

 「浜の人は気性が荒いから『働かないと蹴っ飛ばすぞ』とボランティアにハッパを掛けている」と言うが、屈託のない笑顔が学生をなごませ、互いに心の距離が近づく。ワカメ栽培を始める漁師もいる中、「ワカメは分からない。ずっとカキをやってきたから」とカキ漁に出られる日を心待ちにしている。

 東部地区で大きな漁港を持つ小渕浜。木村千之さん(60)は「公的補助を待っていたら今はなかった」と半分でも自己資金を出してフォークリフトを整備したことに自信をのぞかせた。国の補助に頼らず、日本財団の支援に望みを懸けたのだ。カキの再開には時間がかかるが、「何をするにもフォークリフトがないと」とワカメの収穫に設備の準備に取りかかっている。

 また震災後、漁業から離れていく若い者も多いが、それでも浜に残り漁業を続ける人もいる。そして今春、宮城県立水産高等学校を卒業した生徒が小渕浜で親と一緒に漁師を始めたと明るい顔を見せた。

 震災から1年。被災者を支えたボランティアの存在は大きかった。狐崎浜の石森裕治さん(54)は「たった3日間だったけど、初めて学生ボランティアが来た時には、別れ際に涙が流れた」と振り返る。

 「漁師は気性が荒い」と言いながらも、若い人たちのひたむきな姿に感謝の気持ちが膨らんだ。カキの再開には津波で失われた加工・出荷施設を整備しなければならず、課題も残る。それでも被災地ではボランティアに支えられ、元気を取り戻し、そして着実に復興の歩みを進めている。これからも継続した支援が求められている。



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