• もっと見る

前の記事 «  トップページ  » 次の記事
2016年03月10日(Thu)
大震災5年(1)地域再生を求め被災地は今
復興遅れの中に新しい動きも
破壊尽くされた女川に新商店街


東日本大震災から5年。被災地の復興の遅れが目立つ中、若者を中心とした地元住民がNPOや企業、行政とも連携して新しい地域づくりを目指す動きも増えてきました。子どもや高齢者が安心して暮らせる街、地域とのつながり、絆を実感できる街・・。さまざまな取り組みが続く被災地の今を、日本財団が地域づくりに参加した事業を中心に6回にわたり報告します。

一足早く水揚高回復

最初に取り上げるのは、震災時の人口10014人のうち人口比で最大の827人が犠牲となった漁業の町、宮城県・女川町です。この町は巨大な防潮堤の建設を見送る一方、居住区の高台移転とかさ上げによる商業地の街づくりをいち早く打ち出し、2014年には水産物の水揚高も大震災前を上回るまでに回復、復興の街づくりが一足早く軌道に乗ったかのように見えます。

整備された女川駅前の新商店街。正面に見えるのは女川駅
整備された女川駅前の新商店街。正面に見えるのは女川駅

3月6日の日曜日、昨春3月に全面復旧した石巻線の終着駅・女川駅に降り立つと、5年前とは全く別の光景が広がっていました。羽を広げたウミネコをイメージしたという新装の駅舎には温泉施設や売店も整備され、カラフルなイベント用テントがふたつ並ぶ駅前広場の先にはシーパルピア女川と名付けられた新商店街が海に向かって並んでいました。

現在27店。土産物、飲食店からカフェ、楽器工房もあり、8店は他地区からの参入。あいにくの小雨模様の中、休日とあって観光客も多く、行列ができている飲食店もありました。

一帯は大震災発生直後、家屋の建材や流された車、船、漁具が山のように堆積し、「ひょっとして犠牲者がこの下に」と思うと、がれきの上を歩くこともためらわれる悲惨な光景が広がっていました。20メートルを超す大津波が1階まで押し寄せ、前庭に消防車や日本財団の福祉車両が打ち上げられた高台の女川町立病院(現・女川町地域医療センター)も、その後のかさ上げのせいか、見上げるほどの高さが幾分、低くなったような感じさえしました。

002.JPG
至る所で続くかさ上げ工事

周りを見渡すと、山を削る高台造成工事と、これを利用した商業用地のかさ上げ工事が並行して進み、いたる所に茶色い山肌が広がっています。女川町では大震災後、復興計画策定委員会が他の被災地より2年早い2018年を目標にした復興計画をまとめ、基幹産業である水産業の復活を中心に多角的な復興の取り組みが始まりました。

女川ブランドを復興の活力に

日本財団も、中東のカタールから寄せられた20億円の寄付金を基に、半年後には6000トンの収容能力を備えた大型冷蔵冷凍施設を完成させ、水産業復活の足掛かりとなりました。被災地全体で計26局の立ち上げを支援した災害FMの一つ「おながわ災害FM局」も今月末、国の集中復興期間が終了するのに伴い閉局しますが、この5年間、住民への生活情報提供に大きな役割を果たして来ました。

完成した「あがいんスターション」

完成した「あがいんスターション」

入り口にはキリングループと日本財団の支援を示す説明書きも

入り口にはキリングループと日本財団の支援を示す説明書きも




女川の将来を占う上で注目される事業の一つが「復幸まちづくり女川合同会社」による女川ブランディングプロジェクト。代表社員の阿部喜英さんら町の若手事業者7人が立ち上げ、特産の水産品と観光地・女川のブランド化による復興を目指しています。被災地で「復興応援 絆プロジェクト」を展開するキリングループと日本財団、町が後押しし、地元の方言「あがいん」(お召し上がりください)と英語の「AGAIN」掛け合わせたブランド「あがいん(AGAIN)女川」をスタートさせました。

復興の取り組みを語る合同会社代表社員、阿部さん
復興の取り組みを語る合同会社代表社員、阿部さん

昨年6月には、大震災前、女川駅があった場所に「あがいんステーション」も完成。あがいんブランドに認定された水産加工品31品目を中心に直売を行うほか、水産業の体験企画やネット販売も手掛け、8人に増えた従業員のうち7人を横浜市など町外出身者で占めるなど出足も順調。復興のモデル事業と期待する声も出ています。

現人口をどう守る?

こんな女川町も昨年10月時点で人口は6334人まで減り、人口減少率37%と被災地最大を記録しています。関係者に聞くと、大震災で1割近い人が犠牲となり、直後に町を離れた人がその後、住民票を転出先に移すケースが多く、実際に女川で生活している人の数のそれほどの変化はない、との分析もあるようです。

しかし新しい街づくりの要となる高台の造成遅れに伴い、他の被災地と同様、災害公営住宅(復興住宅)の整備も遅れています。加えて、かさ上げが進む商業地域は「危険地域」に指定され居住用の宅建設は認められないー。こんな閉塞状況の中で、先が見えないまま、町を出る人、あるいは転出先からの帰還を断念する人も多いようです。高台にある仮設住宅を訪ねると、70%近い約900人が現在も暮らし、住人の多くは高齢者。ひっそりとした住宅地の姿が、駅前の商店街とは逆の復興遅れを感じさせました。

こうした点について安倍さんは「この町は大津波で徹底的に破壊され、住めなくなった結果、土地の権利移転などが他の被災地より比較的スムーズに進み、その分、復興の街づくりが進んでいるように見えるかもしれませんが、現実に成功モデルになるか、10年、20年経たないと分かりません」と指摘。その上で、「町は震災前から過疎が進み2030年の町人口を6000人とする将来予測をまとめていました。大震災で一足早く、その時代が到来したとも言え、この数字をどう守っていくかが、今後の町づくりのポイントになると思います」と語っています。

2600体の「かえりびな」で犠牲者を鎮魂
2600体の「かえりびな」で犠牲者を鎮魂

帰途、高台の病院を訪問すると、入り口前の柱には「津波到達高 1階床より1.95m」の表示があり、2階部分では大震災犠牲者への鎮魂を込めた「かえりびな」の展示会が開かれていました。横には「未だかえらぬ2562名の『還りびな』です」の説明書き。「行方不明者が早く見つかって還ってきてほしい」との祈りが込められているとのことです。

阿部さんは「町に残った人も出た人も、肉親を失った悲しみは同じです。その分、震災前より、女川に対する人々の思いが強くなっているのを実感します」とも付け加えました。さまざまな思いを込めた復興の街づくりが今後も続くことになります。




● 宮城県女川町の復興ルポ(2015/07/06)






 パラリンピック競技特集(15)肢体不自由者卓球  « トップページ  »  訪日観光客に京の禅寺体験