2014年01月07日(Tue)
東日本大震災被災者は自ら地域を守り、未来を拓け
(リベラルタイム 2014年2月号掲載)
日本財団理事長 尾形 武寿 ![]() 一九九五年、阪神・淡路大震災に襲われた兵庫・神戸市に比べ、復興のテンポは明らかに遅い。何故こんなことになっているのか。震災発生時の民主党政権の対応のまずさ、混迷を極める東京電力福島第一原子力発電所の事故処理に加え、震災前から人口減少が進む過疎地特有の難しさもあろう。 |
しかし、この間の動きを見ると、行政の過度な介入が被災者を受身にし、復興にかける気概が希薄になった結果、復興にいまひとつ弾みがつかない気がする。被災地出身の身として、あえて被災者個々人の奮起を求めたい。
震災復興をめぐり宮城県の村井嘉浩知事は、高台移転を中心にした災害復興計画を打ち出し「百年、市民から感謝される街をつくる」と語った。これを聞いて私が思い出したのは二〇〇九年、中国・長江に完成し三峡ダムの建設にともなう混乱だった。 経済開発の名の下、世界一の規模を誇るダム建設が進められた結果、二百万人を超す周辺農民が土地を失い地域社会は崩壊した。国も体制も異なる中国と日本では、まったく事情が違うが、行政が一方的に大規模事業を進めれば、時に住民が不幸になるということだ。 復興に行政が責任を負うのは当然であるし、高台移転が大津波の被害を防止する有効な手立てであることは否定しない。しかし大津波の鮮明な記憶が残る中でなお、「百年や一千年に一度の大津波のために美しい海岸線を棄損し、生活の糧を奪うのは許されない」とする反対意見が根強くあるのも事実である。 岩手・宮古市が”万里の長城”と呼ばれた大長堤の後釜として検討する、高さ一五mの防潮堤の建設計画にも同様の反対があり、高台移転の賛成意見の中にも、その高さや海岸からの距離をめぐり対立がある。まして、復興に向けた街づくりには、高台移転のほかにも多くの論点がある。 多様な意見を一つの事業に全てまとめるのは、もともと無理であり、行政の対応にも限界がある。莫大な予算を用意しながら復興が軌道に乗らない一因がここにある。 三陸沿岸一帯は過去、何度も津波に襲われながら、その都度、住民が集落を再建し、海とともに生き、浜ごとに独自の伝統文化を築いてきた。その逞しさこそ復興を可能にする。それぞれの地域の歴史と伝統は尊重されなければならない。 戦後の日本は焼土の中から雄々しく立ち上がり、今日の繁栄を築いた。しかし豊かさを実現する中で権利意識ばかりが肥大化し、ともすれば責任・義務感が置き去りにされた。政治家が悪しきポピュリズムに迎合する風潮もある。 「復興は行政の責任」と過度に依存する安易な発想は捨て、地域社会を自分たちで守り、未来を自ら切り拓く気概と覚悟が必要である。行政にも、復興の骨格はともかく、詳細は地元に任せる度量を求めたい。 被災地の多くは震災前から人口減少が続く過疎地域であり、大震災の追い打ちで人口流出も加速している。大都市・神戸市では、震災前の街並みを復旧することで復興が軌道に乗ったが、人口減少地域で同じ手法は通用しない。復興に向け、どのような街づくりを進めるか、新たな知恵と住民の一層の協力が何よりも必要だ。 被災者が仮設住宅から開放され、一日も早く震災前の生活に戻る日を目指して、被災地支援を継続したいと考えている。 |
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