• もっと見る

前の記事 «  トップページ  » 次の記事
2013年12月19日(Thu)
ペリリュー島の碑
(朝雲 2013年12月19日掲載)
日本財団会長 
笹川 陽平 

 「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るため日本軍がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」

 第2次世界大戦の激戦地、パラオ共和国・ペリリュー島にこんな言葉を刻んだ碑がある。

 末尾に大戦中、米太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツの作と記されているが、否定説もあり、真偽は分からない。
 たまたま日本財団が支援するミクロネシア地域の海上保安能力強化プロジェクト調印のため今月初め来日されたトミー・レメンゲサウ大統領も「よく調べてみたい」とのことだった。

 ニミッツは東郷平八郎元帥の心酔者だったことで知られる。連合艦隊が日本海海戦でロシア・バルチック艦隊に大勝した1905年、米アジア艦隊の士官候補生として戦勝祝賀会に招待され、東郷元帥と直接言葉を交わして感銘、34年の元帥の葬儀にはアジア艦隊旗艦の艦長として参列した。

 第2次大戦後も日本海海戦で連合艦隊の旗艦だった「三笠」が、横須賀港で銅や真ちゅうを戦争資材として剥がされ無残な姿をさらしているのに心を痛め、58年、文藝春秋に「『三笠』と私」を寄稿。

 「日本国民と政府が、全世界の海軍軍人に称賛され、尊敬されている提督の思い出を永らえるために、適切な方法を講ずることを希望する」と訴え、自ら印税を寄付する一方、廃艦となった米揚陸艦の廃材3000万円を保存費用に贈った。

 ペリリュー島の攻防が行われたのは大戦末期の44年9月。航空母艦を含め総兵力4万2千人の米軍と1万2千人の日本軍守備隊が2ヵ月半にわたり激闘。

 日本軍は軍機、機密書類を処分したことを意味する「サクラ・サクラ」の電文を最後に玉砕し、米軍にも1万人の死者が出たとされている。

 日本軍は米軍の総攻撃を前に、地元民全員を夜陰に紛れ船で本島に移した。結果、地元民に犠牲者はなく、今もこの国の親日の支えとなっていると聞く。

 ニミッツはこの戦闘の最高司令官、戦艦ミズーリ号上で行われた大日本帝国の降伏文書調印式で米国代表も務めた。しかし連合軍最高司令官のマッカーサーに比べ日本での知名度は低い。

 戦術など意見の違いも多かったとされるが、軍人としての生き様を見る限り、碑文の筆者がニミッツであっても特段の違和感はない。

 情報をお持ちの方に是非、この間の事情をご教授賜りたく思う。
タグ:パラオ
カテゴリ:世界




トラックバック
ご利用前に必ずご利用規約(別ウィンドウで開きます)をお読みください。
CanpanBlogにトラックバックした時点で本規約を承諾したものとみなします。
この記事へのトラックバックURL
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
トラックバックの受付は終了しました


コメントする
コメント


 寄付型自販機で出所者奨学金 第1号、福岡空港に  « トップページ  »  日本ベンチャー・フィランソロピー基金初年度のアニュアル・ギャザリングが開催