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2025年09月17日(Wed)
丘の上に広がる圧倒的な景観
鉄の帝国の首都ハットウシャ
日本財団特別顧問 宮崎 正
風の香りロゴ
古代オリエント社会で初めて鉄を使い、紀元前17世紀にエジプトと並ぶ帝国を築きながら約500年後、忽然と歴史の舞台から姿を消したとされるヒッタイト帝国の首都ハットウシャ(トルコ東方・アナトリア高原)を9月初めて訪れ、巨石が並ぶ壮大な遺跡の景観に圧倒される思いがした。

スキタイはヒッタイトから鉄技術を引き継いだ

筆者は古代史や考古学の知識は持たないが、ペレストロイカなど改革を推進したゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が失脚した1991年秋、ソ連科学アカデミーがアルタイ山脈の麓パジリクで行った遊牧騎馬民族スキタイの墳墓の発掘調査を取材した。草原地帯には円形の石積古墳(クルガン)が数多く残り、発掘調査が行われたのは、そのうちの大型墳墓。発掘に2カ月近く要し、その間、アカデミーの関係者から「スキタイはヒッタイトから鉄の技術を引き継ぎ草原の覇者となった」と聞き、ヒッタイトがどのような国だったのか関心を持っていた。

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丘の上に巨石が並ぶ首都ハットウシャ


日本アナトリア考古学研究所による発見

ヒッタイトが活躍したのは広大なアナトリア高原。わが国も1998年、公益財団法人中近東文化センター (東京都三鷹市)がクルシェヒル県に「日本アナトリア考古学研究所」を設け、カマン・カレホユック、ビックリュカレ、ヤスホユックの三遺跡の発掘調査に取り組んできた。

2019年にはカマン・カレホユック遺跡から3センチ大、卵型の鉄球が発掘された。見つかったのはヒッタイト帝国成立より数百年から1000年近くも前の紀元前23〜25世紀、前期青銅器時代の地層で、以来、鉄を発見したのはヒッタイトより前の民族だった可能性を含め注目を集めている。

発掘作業は3遺跡とも夏場の2か月間に限られているが、土器、金属片から骨など動植物の遺存体まで膨大な量に上る。年代測定器などを備えた分析センターの整備など精度の高い保存・管理の必要性が高まり、協力要請を受けた日本財団が今回、現地を訪れることになり筆者も同行、その一環としてハットウシャを訪れることになった。

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城門にはライオン像が


遺跡は首都アンカラから150キロ東方、標高1000メートルの高原の小高い丘全体に広がり、広大な神殿跡の上方に王宮、さらに頂上に城が築かれ、2頭のライオン像などが守り神として配置されていた。案内してくれた地元トルコの研究者によると、全長約8kmに及ぶ城壁(近年一部を再建)で守られ、内側に5〜6000人が住んでいたという。

1906年、ドイツの考古学者が発掘調査を行うまで正式に遺跡と確認されていなかったというから不思議な気もする。資料などによると、紀元前13世紀にヒッタイトとエジプトがシリアの領有を争ったカデシュの戦いの後、平和条約を締結。その内容を刻んだ楔形文字の粘土板が王宮跡から発見され、当時、国と国との条約文書は首都に保存されたことからハットゥシュがヒッタイト帝国の首都と確認されたという。


「忽然と姿を消した」

当時、アナトリア高原にはカマン・カレホユックなど各地にヒッタイトの支城が築かれ、神に選ばれた王が全体を支配する、今でいうなら合衆国型の国だったといわれている。歴史の舞台から突然、姿を消した理由について、異常気象や天災に伴う食糧不足・飢饉や政権内部の内紛、外部の異民族の侵入などが挙げられているが、それではヒッタイトは全体でどれほどの人口を有していたのか。現時点では「分からない」という。

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近年、城壁の一部が再建された

暴論になるが、広大なアナトリア高原に広く展開したヒッタイトの歴史から見ても、少なくとも数十万単位の人口があったのではないか。国は崩壊しても民は分散して生き残る。「忽然と姿を消した」といわれると、どういうことなのか、素人の筆者には理解するのが難しい。ヒッタイトの研究は緒に就いたばかり。多くの疑問が解き明かされる過程で、その偉大な姿がよみがえると思う。オリエント研究はともすれば欧米中心に進められてきた。わが国独自の研究も含め、今後の研究発展に期待する。

タグ:日本財団 国際
カテゴリ:風の香り







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