2025年04月04日(Fri)
二代目・曽野会長の約十年間 “社会の荒波”から日本財団を守る
(リベラルタイム 2025年5月号掲載)
日本財団理事長 尾形 武寿 ![]() 日本財団の第二代会長を務めた曽野綾子さんが二月二十八日、逝去された。死因は老衰、享年九十三歳だった。メディアが作家としての活動や聖心女子大学の後輩でもある上皇后美智子様との親交など多くの評伝を伝えた。筆者にとっては心の大きな支えであり、母親のような存在だった。本欄を借りて追悼の辞を捧げさせていただく。 |
会長在任期間は一九九五年十二月から三期九年半。就任前の日本財団は六二年の日本船舶振興会(九六年に日本財団に改称)の創立以来、三十年以上、振興会の先頭に立ってきた笹川良一初代会長の晩年に当たる。 元事務局長による収賄事件など組織的にも軋みが目立ち、根強い公営ギャンブル批判にもさらされていた。「組織・業務改善調査会」を設けて刷新を目指していた時期でもあった。 良一会長の後継に関しては、今も記憶に残る思い出がある。八九年の六月と記憶するが、当時、笹川平和財団の総務部長の職にあった筆者は、平和財団の名誉会長でもあった良一会長に随行してノルウェーの首都オスロを訪れた。たまたま日本財団の笹川陽平理事長(当時、現会長)も同行されており、一夜、ウイスキーボトルを手にホテルの筆者の部屋を訪れ、雑談するうち「そろそろ会長の後継者を探さないといけない」と切り出された。 「あなたが引き継ぐのでしょう」と切り返すと、「自分ではない。例えば曽野綾子さんのような人がいいのだが、来てくれないだろうな」ということだった。良一会長死去(九五年七月)の六年も前の話で、当時は会長の三男である陽平氏が後継者と思っていただけに意外であり、驚いた記憶がある。 良一会長の葬儀後、会長選考委員会を立ち上げ、当時、日本財団の非常勤理事であった曽野さんも五人の委員の一人となった。ところが最終的に曽野さんが会長候補に決まったため、まず日下公人委員長が曽野さんの夫で同じ作家仲間である故三浦朱門氏(元文化庁長官)にその旨を連絡し、三浦氏から改めて曽野さんに伝えてもらう異例の手続きをとった。 会長就任会見の内容も異色だった。冒頭、後継者選びに触れた上で「こんな時は自分のような漫画チックな女がショートリリーフする方が良いのかなと思った」と切り出し、交付金配に関しても「重要なのは泥棒の金であれ、ヤクザの金であれ如何に公平に配布するかであり、これを肝に銘じ職務に当たりたい」と述べられた。 さらに「自分の本業は作家なので、財団の仕事は週三日を無給で働き、残りを本業に充てたい」 とも。就任1年後には自分はショートリリーフであるとして退任を表明され、説得に奔走した記憶もある。就任期間中はどう日本財団を正しく運営するか常に考え、文字通り会長と作家の「二足のわらじ」の生活だった。 二〇〇五年六月の退任に当たり、東京・赤坂の日本財団ビルでお別れ会が開かれ大勢の関係者が出席した。会場は八階の職員食堂。曽野さんが自分で決め、招待状も自ら書かれた。 質素ながら柔らかな雰囲気だったと記憶する。退任後、所用で日本財団ビルを訪れても財団事務所に顔を出すことははなかった。曽野さんらしい“けじめ”の付け方だと思う。 振り返れば、曽野さんは日本財団が厳しい批判や非難にさらされた時期に社会の荒波から財団を守り、民間組織としての自由度を維持するだけでなく、それを強化・発展させる足がかりを築かれた。 一連の経過を振り返ると、陽平現会長にとって曽野さんは、オスロ滞在時もその後も日本財団会長に最も相応しい“存在”だったと推測する。心からご冥福をお祈りする。 |