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2024年04月04日(Thu)
能登半島地震の厳しい現実 被災地で加速する「人口流出」
(リベラルタイム 2024年5月号掲載)
日本財団理事長 尾形武寿

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東日本大震災(二〇一一年)から十三年目となる三月十一日を前に九、十の両日、能登半島地震の被災地を訪れた。地震発生からほぼ七十日、最も被害が大きい半島最北端の珠洲市では倒壊家屋の撤去が進まず、仮設住宅の建設も五十戸に留まる。深刻な断水も十日にようやく百十世帯で上下水道が再開されたが、全域の断水解消は五月になるといわれ、復興が遅れる中、市民が金沢市などに転出する動きも増えている。

 珠洲市の人口は一九五〇年代に三万八千人を数えた。以後、減少に転じ、二〇二二年時点で約一万三千人、四〇年には七千二百人にまで減ると推計されている。六十五歳以上の人口が占める高齢化率は二〇年時点で五〇・三%、全国平均の二九%を大きく上回っている。

街に入って何よりも驚いたのは、人影がほとんどない点だ。筆者は東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市の出身。日本財団の復興支援事業の関係もあり、震災発生直後から何度も被災地入りしたが、どこも多数のボランティアがあふれ復興を後押しする熱気を感じた。十日は日曜日とあって、国際ボランティア学生協会(IVUSA)に参加する東京や大阪の学生四十人がバスで珠洲市に入ったが、人影の少なさに違和感さえ覚えた。

阪神淡路大震災(一九九五年)以来、一貫して被災地支援を先頭に立ち、今回も珠洲市・蛸島漁港に設けた拠点で災害NPO十三団体と共に被災地支援に取り組む日本財団災害対策事業部の黒澤司アドバイザーも「何故か熱気が感じられない」と首をかしげる。約二万六千人がボランティア活動の事前登録をしており、宿泊施設の整備遅れが支障になっている面もある。

今回の地震では珠洲市内の家屋の約四割、約二千五百棟が全壊、今も倒壊家屋の下敷きとなったままの乗用車が随所で目に付く。半壊以上の家屋は所有者の申請を受け、市が公費で解体・撤去するが、市による証明書発行の遅れが作業が滞る一因という。

 入札で業者を募っても解体業者が市外に転出し、応札がないという深刻な現実もある。新入学、新学期を前に子育て世代が家族ぐるみで引っ越すケースも目立ち、復興の担い手となる市役所職員(四百二十人)や社会福祉協議会(七十二人)などエッセンシャルワーカーの流出もかなりの数に上っている。「人手不足の中、仕事はいくらでもある。いったん外に出た人が戻って来るのか」と心配する声も聞かれた。

 地震では、能登半島の二十二の漁港で最大四mの隆起が発生した。蛸島漁港では、寮で生活しながら底引き網魚などを手伝っていたインドネシアからの技能実習生約二十人も被災、地震の衝撃で帰国を考える実習生も出ている。南方の鵜飼漁港では海底の変化に関する県の調査が進まないまま、津波で陸に打ち上げられた漁船が放置され、漁業再開を悲観視する声も聞かれた。

 本誌二四年三月号の本欄(三十四頁)で触れたように、山地や丘陵地が多い奥能登では道路の損壊が多く、自衛隊や消防の大型、中型車両が被災地に入れない事態が相次いだ。蛸島漁港から南へ約十qの国道区間は小型重機の扱いに慣れた災害NPOが何とか道を拓いた。国の復興支援策が被害の実態に合わない、あるいは細分化された関係法の仕組みが逆に復興作業の防げになっている現実もある。

東日本大震災の被災地では、今も人口減少が止まらず、岩手県大槌町や宮城県の女川、南三陸両町では減少率が三割を超えている。人はいなければ地域社会は成り立たない。災害大国日本が抱える課題の多さを改めて実感する被災地訪問となった。







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