2011年04月01日(Fri)
ハンセン病博物館を訪問して
(国立療養所多磨全生園自治会機関誌【多磨】2011年4月1日掲載)
日本財団会長 笹川 陽平 2010年9月13日ノルウェー国ベルゲン市にあるハンセン病博物館を訪問した。 当博物館は1970年、ベルゲン市で最古のハンセン病病院「聖ユルゲンス病院」がそのまま使用されている。聖ユルゲンス病院は1411年ころから最後の二人の患者が亡くなる1946年まで病院として機能してきた。この病院は1640年および1702年のベルゲン市で起きた大火によって焼失し、その後9軒の建屋が建てなおされ、すべて国の遺産建造物として保護登録されている。 |
ほとんどの患者が1754年から生活していた「本館」、そして1707年に建てられた当病院でもっとも古い病院の教会の二カ所が一般に公開されている。
聖ユルゲンス病院には様々な歴史が刻まれている。それは差別や拒絶であったり、また美しい愛情物語であったりする。たとえば1800年代初期、ある男性患者が妻に付き添われて入院し、妻は彼が亡くなるまで二十一年間看病をした。その後彼女は家に帰るが、息子が一年後に発病し、入院。今度は息子が亡くなるまで十九年間看病を続けた愛の歴史もそのうちの一つである。 1830年頃から、この病院はハンセン病患者だけとなり、1896年に最後の入院患者を受け入れ、最後二人の患者が亡くなる1946年まで続いた。二十世紀初期までは日本のハンセン病病院と同じように患者は長期にわたって入院をしていた(強制隔離ではない)。最後の二人の患者はそれぞれ、51年、56年間もこの病院で生活をした。もっとも患者数が多かったときには179人が入院していた。 博物館本館の玄関では館内でたった一人の常駐学芸員(キュレーター)のゲルテ女史が迎えてくれた。彼女は一人で博物館の大切な資料を守り、案内、そして学校でも教えている。そのような小さな施設ではあるが、2003年ノルウェー政府から公衆衛生制度確立400周年記念の年に展示および博物館拡張のための助成金が交付され、この博物館は今日のノルウェーにおいてどのような役割があるのかについて議論を重ね、展示が企画された。その根底にある考えは、この博物館は、ハンセン病を保健衛生問題として取り上げたのではなく、今日豊かな国になったノルウェーの過去の現実をこの国の歴史と遺産として追跡できる所としての明確な役割があるということである。したがって当時の生活をそのまま再現することを実現した。「忘却」がこの博物館のキーワードである。というのは多くのノルウェー人が今日博物館となったこの場所に来ることによって、ノルウェーの歴史を忘れることなく再発見しているのである。もちろん、病院内をもっと近代的に改築することもできたが、当時の雰囲気をそのまま残すことで、単なる博物館ではなく、ハンセン病患者への敬意の表明と、彼らがたどった運命の記憶としてそのまま保存されている。今はいくつかの教科書には博物館写真や情報が載っており、時代とともにハンセン病について学校教育にもますます取り込まれている。 年間約3,000人から3,500人の学童が関学に訪れている。この博物館はヨーロッパで保存されている最古のハンセン病施設であると同時に雰囲気も、最後の患者が亡くなり、扉は閉められた時と全く同じである。 この病院は19世紀中ごろまでは西ノルウェーでは最も大きな病院であった。聖ユルゲンス病院の入院患者は皆自炊をしていたので、台所は70個から80個の鍋や釜が使われ常に混雑していたことを表す記録も残っている。また番号のふられた戸棚が壁際に並んでいたが、患者は一人一つ、または二人で一つの戸棚を使っていた。戸棚の扉には当時からの手の跡がそのまま残っている。 またこの病院も過去においてはたびたび財政的に非常に困難な時期があり、冷蔵庫を置く余裕もなく、患者はネズミが台所に出るのを恐れて、自分の食糧(ニシンなど)は小さな箱に入れてベッドの下に保管していたので、衛生上の問題があった。 戸棚の番号を見て、「患者は入院と同時に番号で呼ばれるようになりましたか?名前を変えられましたか?または自分の名前で呼ばれていたのですか?」と質問したところ、全員自分の名前を使っていたという答えであった。 展示はベルゲンにおける医療と医療研究の進歩に焦点を当て、ハンセン病の歴史の中の重要な役割を果たし、多くの専門家や研究者が当博物館を訪れたが、新たな企画として、ハンセン病のもう一つ、もっと大事な側面、社会的側面を取り上げ、博物館内をより多くの人に見てもらえるようにした。そのため、ベルゲンにおけるハンセン病政策と研究、業績、歴史を展示の中に取り込んだ。またさらに多くの患者の個人情報や彼等の使っていた個室なども一部開放している。 例えば、ある部屋には1800年代の状況を再現するために、1816年に、病院の牧師、ヴァルホーベルス(Wellhoven)牧師によって書かれた報告書に入院患者の名前、写真と一人ひとりに関する情報が記載されており、多分保存されている個人情報としてはもっとも古いものではないかと思われている。 また、別の部屋には、ダニエルセン(Danielssen)博士が1839年に政府からの助成金を貰い、ボーク(Boeck)博士とともに1847年にハンセン病研究の突破口となるハンセン病に関する近代医学論文第一号を発表していることも伝えられている。ダニエルセン博士曰く、この病院の患者の多くは血縁関係にあるという観察結果から、ハンセン病は遺伝性の病気であると主張した。彼は"Leprosy Farm"とか"Leprosy Family"という言葉を使っていた。このダニエルセン博士の主張こそが、貧しい国家財政にも関わらず、ノルウェー政府が多大な投資をハンセン病の研究に投入し、さらに研究を進めた理由である。 ハンセン氏が聖ユルゲンス病院で医師として仕事を始めたころのベルゲンは"ヨーロッパのハンセン病中心地"であり、ベルゲン市の中心に近い所にこれらの病院が3カ所も建設されていた。 ノルウェーのハンセン病の歴史の中でもう一つ特筆すべきことは政府のとった患者登録制度である。地域の病院からの登録が中央に送られすべてが中央で管理されていた。不思議なことに元患者8,231名の名前のパネルが展示してあった。 このパネルは議論を醸し出すかとも思われたが、ノルウェーにおいては一切何の議論もなかった。世界の反応としては、アメリカ人は悲劇の歴史と解釈し、アフリカの人々からはまだこのような情報が保存してあることに驚き、東アジアの人は、患者の実名をこのような形で公表できることに驚きを表している。 すでに病院の患者記録は個人情報保護から開放されていて誰でもアクセス可能となっている。ハンセン病を隠していた患者の家族からも、今では過去の患者情報を欲しいと希望してくる人も少なくない。家族からの情報提供依頼に応え、失われていた家族を再度家族として受け入れる人たちのために役に立てることは博物館にとっても嬉しいことである。また心に響く美しい話も我々は聞く機会にも恵まれている。 例えば、ある年配の婦人からこのような連絡を受けた。彼女はまだ若いころ、盲目の叔父さんがハンセン病で入院しており、家族がよく訪問をし、子供たちも一緒に来ては本を朗読してあげたりしてお小遣いをもらったり、クリスマスには自転車を買ってもらった子供もいる。また彼女は叔父さんに自分が結婚する時には必ず訪ねることを約束し、結婚式当日、式と披露宴の間の時間に新郎と共に叔父さんを訪問している。しかし、叔父さんの病気は家族の秘密として守られていた。このように公にする患者、また口を開かなかった患者と様々であったし、家庭で療養する患者もノルウェーでは認められていた。 文化財指定建造物であるため当博物館には何の改造も許されていないことから、電気もなく自然の明かりのもとで展示を見る。二階では12室のみが展示の一部となって使われており、ノルウェーにおけるハンセン病の歴史記録から選んで、ハンセン病に関する個人的、医学的、施設情報、また患者の書いた詩や患者から家族に宛てた手紙など様々な情報が展示されている。日本の療養所もあちこちで記念館の設立計画が話題になっている。関係者の皆さんに機会があればこの博物館の視察をおすすめしたい。 |
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