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2020年06月03日(Wed)
「新型コロナ禍」は戦後日本を見直す機会
(リベラルタイム 2020年7月号掲載)
日本財団理事長 尾形武寿

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四方を海に囲まれた日本は二〇〇二年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、一二年の中東呼吸器症候群(MERS)とも水際防止が功を奏し“対岸の火事”で終わった。しかし、今回の新型コロナウイルス感染では、その経験の浅さが災いしてSARSを経験した台湾、MERSを体験した韓国に比べ初動で遅れを取った。国民の不安や混乱も極みに達し、日本社会の弱さ、もろさも露呈している。

それを象徴しているのが、新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)に基づき発令された緊急事態宣言を巡る混乱。宣言は四月七日に東京、大阪など七都府県に発令され、九日後、全国に拡大、さらに五月末まで延期された後、同十四日に計三十九県が解除と慌ただしい展開となった。

特措法に欧州各国のような罰則付きの外出禁止や公共交通機関の運行を止める規定はない。前号でも触れたように、宣言を発令するのは政府、外出自粛や映画館、飲食店に休業を要請するのは都道府県と立法上の“建て付け”の悪さもある。結果、随所で綻びが目立ち、政府と各自治体の軋轢も表面化した。

例えば小規模事業者や飲食店に対する休業要請。休止すれば経営は行き詰り、従業員への給与支払い、雇用の継続も難しくなり、補償問題も避けられない。しかし、四十七都道府県の中で唯一、交付税に頼らなくても財政運営が可能な東京都はともかく、その他の自治体には「休業補償に見合う協力金の財源力はない」(吉村洋文大阪府知事)。そんな事情も反映して補償の在り方や緊急事態宣言の解除条件、時期を巡り政府と自治体が対立する事態も目立った。

減収世帯に30万円給付の当初案が一転して全国民に一律十万円給付に変更された緊急経済対策も、政権の迷走を印象付けた。当初案はいったん閣議決定されたものの、「対象世帯が少ない」といった公明党の支持母体・創価学会の不満を前に山口那津男代表が安倍晋三首相に政策変更を迫り、土壇場でひっくり返った。

政府には国難ともいえる危機に直面した時こそ、説得力とスピード感のある対応が求められる。そうでなければ強制力のない自粛要請にどう対応するか国民も迷う。迷走した一連の経過は、戦後、何度も指摘されてきた危機時におけるリーダーシップの弱さが如実に出た気がする。メディア各社の四月の世論調査で、内閣に対する不支持率が支持率を上回る結果が多かったのは国民の不信感の表れであろう。

日本人は礼節を重んじ、勤勉で忍耐強く、清潔好きな世界に誇れる民族だと思う。平和な戦後社会では、国が決めた方針から逸脱しない限り大いなる自由が保障されてきた。今回、休業を要請されたパチンコ店が営業を続け、開店前、店頭に列をなす客の姿に顔をしかめる向きもあったが、外出禁止や営業中止に強制力のない“平和日本”の姿と言えなくもない。

その一方で、異常なほど感染力が強い新型コロナを前に、いつ感染し死ぬかもわからない恐怖を実感した人は少なくないはずだ。世界に目を転ずれば、厳しい外出禁止や都市封鎖(ロックダウン)など強硬手段にもかかわらず、五月半ばで死者は既に三十万人に達した。飛び交う悪質なデマや陰湿ないじめは、そうした恐怖の裏返しでもある。

新型コロナは世界を機能不全に陥れ、収束後の世界には一九二九年の世界大恐慌を上回る大不況の到来を予測する声が多い。その傷跡から立ち直るには多くの苦難と長い時間が避けられない。新型コロナ禍は戦後七十五年間続いた平和日本と民主主義を見直すいい機会になるような気がする。







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