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2014年08月15日

つなぐ215号 連載「枠組み外しの旅A」

事実と価値前提の関係性  山梨学院大学 竹端寛

 先日、新型出生前診断を巡るドキュメントを観ていたら、番組の最後で、「ハーバード白熱教室」で有名な哲学者、マイケル・サンデル氏がコメントを寄せていた。ぼんやりと観ていたので正確には覚えていないが、「髪の毛や目の色、障害の有無などを選別することが当たり前になる社会では、自分達とは外見上違う存在に対して非寛容になる」と指摘していた。
 「青い目で、ブロンドで、障害のない子を産みたい」と、遺伝子治療も出来るアメリカの高級クリニックに通う妊婦もいる、という。そして、そういう親の希望を「パーフェクトベビー願望」と言うらしい。サンデル博士が指摘しているのは、この願望が価値前提を超えて事実になった時への危惧ではないか、と僕は感じている。
 「パーフェクトベビー」でないと、不幸になる。これは、言うまでもなく、一つの価値観である。ただ、そういう「願望」を持つ親の視点としては、「青い目」で「ブロンド」で「障害のない」子どもの方が、そうではない子どもに比べて「幸せ」である、あるいは「成功」しやすい、という認識がある。これも、一つの価値観である限りにおいては、思想信条の自由の範囲内である。
 だが、その価値前提が、事実認識となっていた場合は、話が異なる。見た目や障害の有無が、社会的な「成功」の「条件」になっている社会は、同質的で生きづらい社会だ。それは、「違い」に対して「非寛容になる」というサンデル氏の指摘とも通じる。
 この問題を、もう少し俯瞰的に考えてみよう。個々人の価値前提は、社会的な「常識」に強い影響を受けている。すると、「社会が望ましいと思う人」を称揚して、それ以外の存在を排除する、という「常識」が形成されていれば、それも個々人の価値前提に影響を与える可能性があるのではないか。
 例えば今、特別支援学校の高等部に通う生徒が爆発的に増えている。発達障害とラベルを貼られ、中学までは普通学校だったのに、高校では支援学校に進む児童が増えている。本人が望んで、という場合もあるかもしれないが、普通学校では排除された結果、支援学校しか行き場がなかったというケースも少なくない。
 障害があるから、そこに配慮した教育、という前提。一見すると「正しい」ように見える。でも「関わりが難しいから、普通学校では大変だ」となれば、話は別である。「障害者と関わりたくない」という価値前提が、「支援学校への進路決定」という事実にすり替わる時、それは「非寛容な社会」への第一歩、と言える。そして、そういう「非寛容さ」を無意識的に感じた妊婦が、パーフェクトベビーを望むとき、その問題を妊婦の自己決定に矮小化してはならない。これは社会的な支援の課題でもある。(続)
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