長野と信州 パート2 [2014年04月24日(Thu)]
さて 前回の記事でも書きましたが 長野と信州の違いとは…ということでしたね。 まあ信州は長野の昔の呼び名ということでしたよね! ではなぜ昔の呼び名が今も続いているのでしょうか? 昔は東京も江戸と呼ばれていましたが、「これが江戸土産かー」なんてことは聞きません。 しかし長野の場合はこれは「これが信州土産だよ」というのはしっくりくるのではないでしょうか? 現にお土産にも信州土産がほとんどで長野土産はありませんしね そこには信州(信濃国)から長野県に名前が名前が変更したところに ポイントがあるように感じます。 さて名前が変わったのは廃藩置県の流れで明治9年(1876)です。 しかしその前に府藩県三治制というものが明治元年(1868)にあったのです。 このとき信濃国(信州)の旗本領・幕府領が伊那県となったのです! なんとびっくり、長野県は最初伊那県だったようです。 伊那とは今の上伊那郡飯島町です。 このときの幕府領は飯島陣屋(現在の上伊那郡飯島町)、中野陣屋(現在の中野市)、中之条陣屋(現在の埴科郡坂城町)、御影陣屋(現在の小諸市)の4つだったのです。 このときには松本藩や松代藩は尾張藩の預かりとなっているなどややこしい関係だったそうだ。 (ここの部分は勉強不足なので私もまだくわしくわかりません。) しかしそこをまとめて伊那県が設置されたことにより徐々に一元化されてきたようだ。 明治4年7月14日(1871.8.29)廃藩置県により 信濃国内の12藩を県に、伊那県と長野県を併せ14県になりました。 明治4年(1871.11.20) 伊那県、高島県、高遠県、飯田県、松本県、飛騨国高山県が統合され、飛騨国および信濃国中部・南部に筑摩県が発足し 県庁は筑摩郡松本(現在の長野県松本市丸の内)の松本城に設置。 信濃国が長野県と呼び名が変わった時に 県庁を筑摩(現松本市)においたということを覚えていてほしい。 しかし明治9年(1876)6月に松本県庁焼失事件が起こる。 なんとこの事件で県庁が松本から長野に移ったのだ!! これに松本派は大激怒 長野が放火したのでは?というほど2市の長く続く溝は始まったのだ… 確かに数年は県庁だったのに火事になったら 県庁が変わるとはかわいそうな気もするが… こんな県が他にもあるのか気になりますね。 まあ このことから松本派は長野ではなく信州と古い国の名前で 呼ぶことが定着したのです。 (ですと言いきりにしましたが推測です。) 普通国立大学は県の名前で呼ばれることが多いが 長野県の場合は 信州大学が国立大学で長野大学は市立であるので間違えないようにしなければいけない。 なお、松本大学もあるので忘れずに!! 今回は信州大学のHPです。 キャンパスは長野市と松本市にありますよ! http://www.shinshu-u.ac.jp/ |