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1500円のご支援でマラリアにかかった子ども10人分を治療する薬が買えます。

【お知らせ】
テレビ東京世界ナゼそこに?日本人〜知られざる波瀾万丈伝〜」に 代表名知の現地の活動紹介されました
放送局:テレビ東京
番組名:「世界ナゼそこに?日本人〜知られざる波瀾万丈伝〜」
日時: 2015年6月15日(月)
詳しくは こちらです
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リレー投稿「ミャンマーから教わったこと」編★vol.2(寄稿) [2021年12月09日(Thu)]

「医者としての原点」
ミャンマー赴任、強烈な印象、暖かい人々、忘れられない星空
名知先生からご紹介を受け、投稿させていただきます。
岩手県で保健所長をしております仲本です。前職は外務省医務官で、1992年10月から1996年3月まで在ミャンマー日本国大使館で勤務していました。既に30年近く前のことになりますので、現在の状況と異なることをまずはお断りします。しかし、今と同じことがあります。それは軍事政権であり、アウンサン・スーチーさんが軟禁されていた点です。
欧米から厳しい経済制裁を受けていましたので、非常に貧しく、また医療機関の設備も最悪でした。医務官としての最初の任地がミャンマーでした。ほとんど事前に何も情報をいただいていない中、海外生活の経験の無い家内と6歳の男の子を引き連れての赴任でした。住宅が決まるまで泊まっていたヤンゴンのホテルが今は無きタマダホテルでしたが、案内されて入室した時、小汚い部屋に置かれたベッドシーツがじっとりと濡れていたことをよく覚えています。家内は引き返そうかと思ったようです(^_^;)。また、長男が覚えた最初のミャンマー語がホテルの従業員に処分してもらうためにのပိုးဟပ်(プーハ:ゴキブリ)でした(^o^)。家族共々さんざんな船出でしたが、ホテルの朝食は意外に美味しく、ホテルマン達も皆親切で、随分助けてくれました。
当時は在留邦人も100人程度しかいなかったため、皆すぐ顔なじみになりました。現在と違って日本人医師はミャンマー国内に当方一人だけでしたので、邦人の皆様は病気や怪我をすると当然のように大使館の医務室に来ていました。日本人会と取り決めを行い、処方もしていました。当方自身まだ卒後10年程度の若輩であり、対応に苦慮する症例も少なからずありました。一番大変だったのは、ネットの無い時代であり、専門外の対応について日本にいる先輩や同僚達にアドバイスしてもらうために国際電話をかけても、回線数が制限されていたため、繋がるまで5−6時間かかったことです。結局、目の前にいる救急患者さんについては手元の教科書を見ながら一人で何とか対応せざるを得ない状況でした。
今思えば、間違った処置もあったのかもしれませんが、邦人の皆様はそんな若い医者を暖かく見守っていただき、また育ててくれたと、今では大変感謝しています。また、大使館医務室には、ヤンゴン大学医学部を卒業したての若い女医さんが助手として勤務していました。今でも大使館で勤務しているDr. Nwe Nwe Aung です。全く馴染みのない熱帯感染症については彼女に聞き、彼女の紹介でヤンゴン大学医学部で週一回感染症の勉強もさせていただくなど、たいへん助けてもらいました。 
助けてもらったと言えば、使用人さん達もです。当時は今のようなアパート形式の住宅は全くなく、また大使館員ということもあり、セキュリティの比較的良い地域に一軒家を借りる必要がありました。広い敷地の大きな一軒家でしたので、ドライバーや庭師さんや門番さん、メイドさん等、多くの使用人さんを雇う必要がありました。経済不況の中、大勢の使用人さん雇う事も、我々外交官の役割でした。多い時は7人雇用しており、敷地の中に使用人さんの3家族が子ども達と一緒に住んでいました。英語で会話が可能であり、特にドライバーさんなどは、就職難ということもありヤンゴン大学を出た優秀な方であり、はっきり言って当方よりはるかに英語は上手でした。また、皆働き者で、かつ、いつもニコニコしており、家内や子どもにも随分と優しかったように思います。
敬虔な仏教徒。間違いないですね。毎朝お坊さんが列をなして市内を回ってきますが、皆、喜んで喜捨しています。人生に一度は必ず出家修行をする必要がある。これ、日本の教育で取り入れてはいかがでしょうか? 当方の両親が一度遊びに来ましたが、明治時代の日本はこんな感じののんびりした、しかも平和な状況だったのではないかと言っていました。男女ともにロンジーをはいていて着物のように見えたことも影響していたかも知れませんが、昔の日本を懐かしむ感じでした。
一度、インパール作戦に軍医として参加された老医師が来訪されたことがありました。カレーミョウまで同行し、あの山の向こうが白骨街道だと教えていただきました。現地ではエイズ関連病院も見学したのですが、古くから住んでいる住民の方が「日本人が来たのは戦争時以来だ」と述べていました。インパール作戦は悲惨な闘いでしたが、当時、住民に随分助けられて命乞いをした、との同行した老医師の言葉も印象的でした。
長くなりましたので、一端ここで筆を置きますが、医者としての原点をいろいろ学ばせていただいたのがミャンマーだったと思っています。機会があれば、また続きをお話します。
なお、当時の写真は実家においていて、あまり手元にありませんでした。次回にご紹介させていただきます。

写真1:ミャンマー製のタペストリー 居間に飾っています。
T2-1.jpg

写真2:息子がマリンバを叩いています。
T2-2.jpg


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Posted by 鈴木 at 14:08
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