感情と理性の相互作用 [2021年08月14日(Sat)]
前回のブログで、計6回も都度行き先を言われて「お付き合い送迎」をこなした時の、ある種の「不快感」について書きました。
これは、この送迎に関して最初に反応したのは、筆者の「感情」であったことを意味します。人は感情と理性を分けて考えがちです。しかし、ある本を読んでいて、また筆者の経験からも、「感情に基づく思考」を通じて、むしろ理性的な考えそのものがより高められた状態で惹起してくるようです。つまり、感情と理性とは一体なのですね。こんなこと、今更ながらの認識ですが。 今回抱いた「感情的な嫌悪感」から、今一度、互助送迎のあり方について再考して見ました。 最初に、利用希望者の方にお配りする「ご利用案内」には、以下のことが書かれております。 1.「生きていく上で必要な日常生活圏への移動」が支援対象。 2.「事前予約制」であること。急な移動依頼は駄目。 さて、何故先日のはしご送迎に関して、筆者の心の中にある種の「嫌悪感」が生じたかというと、 まず、事前の予約も何もなく、何箇所かの場所へ行くように依頼されたことです。その場所には、「生きていく上で必要」とは思えない場所も指定されました。例えば、時計の電池を換えるための時計屋さん、仏壇に備えるための花屋さんやおまんじゅう屋さん、メガネのことを相談するためのめがね屋さんなどです。 生きていく上でどうしても必要な場所とは、言い換えると、医療施設が典型ですが、そこに行かないと命に関わることになる場所です。これを敷衍すると、お金がなくなると生きていけないから銀行は対象。食料がなくなると生きていけないからスーパーも対象。役場で手続きしないと健康保険などの制度が利用できなくなり生きていけないから役所も対象です。 この方は、精神に異常を来しているのが影響しているのかどうか定かではありませんが、何もかもご自分が行きたい場所に、いわば「お抱え運転手」のように筆者の送迎活動を使ったことによる「嫌悪感」でした。しかも、1箇所が終わる都度、「時間があるなら次にここに行って頂けますか?」と言って、断れない状況を作りながら、送迎のはしごを依頼されたのです。 さて、ここから今一度、筆者が行っている「互助送迎」の精神について考え直して見ました。 皆さん、この活動を「ボランティア活動」と誤解されます。今でもかなりの利用者がそう思っているのではないでしょうか? 実は、ボランティア活動ではありません。余談ですが、ボランティア活動の日本での第一号は、関東大震災の際に被災者救援のために、当時の東大の学生が「動員」されたことが初めてだったようです。戦前の学徒動員もそうです。ボランティアという言葉に何となく胡散臭さを感じていましたが、このような国家による強制動員の歴史(つまり強制奉仕活動)を背負っていることがあった訳です。そこで戦後は、戦前の国家の強制による奉仕活動に相通じるニュアンスを避けるため、「ボランティア」という英語に置き換えられたと考えられます。 従って、今でもボランティア活動というと、災害時のボランティアのように、無償の奉仕活動というニュアンスがどうしてもつきまといます。 筆者の活動も「無償の奉仕活動」と誤解している方が大勢いらっしゃる訳です。 そうではないことに、今回の事例を通じて改めて考え至りました。 分かりやすい例を出すと、例えば、道端で倒れている人を見かけたとします。すると、ほとんどの人が「どうかしました?」と声をかけるでしょう。そこで、容態が変なら救急車を呼ぶでしょうし、そうではなくちょっと捻挫した程度なら、お家の方に連絡するなり、近くであればお家までお送りするなりするのが、普通の人の心持ちではないかと思うのです。(そうでない人もいますが。) 筆者が4年近くやっている「互助送迎」もそうしたケースです。つまり、生きていくための「移動困難者」を何とかしてあげたいという「責任感」を抱いてのある種の「救済活動」なのです。決してボランティア(奉仕活動)ではありません。「救済」をして誰かに褒めてもらいたいという気持ちもありません。ただ、こういうことをする人がこの社会に増えることを望んでいるだけです。 但し、こうした「救済」を筆者から継続的に提供された人が、ボランティアのように「無償提供」のままで平気でしょうか?何らかの心の負担が生じるのが人というものですね。 従って、その負担を和らげるために「任意の謝礼」という抜け道を作っている訳です。暑い中でも、大雨の中でも、約束の時間通りにかけつけて、乗降の手伝いをし買い物袋をトランクに入れ、そして、安全運転でお家までお届けする、この活動に対して、この任意の謝礼を全く出さないお方がもしいれば、それは「人間としての情」を欠いている方だと判断せざるを得ません。「そうした方まで、いいなりに、あちこちに送迎するべき、しないのは変ですよ。」と思う方、遠慮なく、理由を添えてメールして頂くとありがたいです。 こうした考えからすると、先程のお方に対して筆者が嫌悪感を抱いた、その根源的な理由が自分でもよく理解できるようになりました。こうして、感情と理性的思考が相互に影響しながら、より良い理解に繋がっていくことを実際に体感できたという訳ですね。 何事も、実際に活動し現実を体感しないと思考も拡がらないという、まあ、皆さん先刻ご承知の事実を、この歳になって今更ながら感得したという次第。。 追伸:先程、大学病院に行かれた件のお婆さんから電話。目の異常があったので急遽タクシーで朝早く駆けつけたとのこと。帰りは送迎できないかとのこと。何か事情があるかと思って、土曜日で休みのところ駆けつけました。あまり杓子定規に対応するのではなく、様子を見ながら臨機応変に対応することとしました。何よりも筆者との会話で、どうやら「安堵感」も生まれる模様。 |