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送迎基準の新たな設定に光明が?? [2021年05月30日(Sun)]
「互助送迎」を始めて年月が経つたびに、自分のやっていることの意味を日々問うております。

最初は、単にこの小さな地域で何らかの事情で生活に必要な移動に困っている人を少しでも助けられないかとの気持ちで始めました。

厳密に言うと、最初から自分ひとりで始めようとした訳ではなく、この「地域社会の課題」については行政の責務ではないかと考え、町長を始め町の幹部の方々に説明し、町の施策として立ち上げないかとアプローチしてきました。

ところが、以前にこのブログでも書いたとおり、町としては、

1.新しいことはやらない。
2.うまくいくことが保証されていないとやらない。
3.リスク(移動には事故のリスクあり)があることはやらない。
4.住民からクレームがないことはやらない。

との唖然とする回答を寄せました。あまりに驚愕したのできちんと議事録にも残して町に提示し確認済みです。

2度目の町長との会議の結果、「そんなに気になるからXXさん、やったら?」と見事にうっちゃられてしまいました。そこで今の互助送迎をたったの一人で始めたのが2017年11月でした。

以後、このブログでも色々と書いている通り、利用者の中には様々な人がいます。約3割はいわゆる「自己中心的エゴイスト」とも言える人々です。

見知らぬ相手(私のこと)から、時間通りに迎えに来てもらって、医療機関などで長時間待たせて、きちんと家まで送ってもらう、その見知らぬ人が提供する「労力」というものの大変さに全く無頓着な方々です。

場合によってはお抱え運転手に話しかけるような口調で話しかけられます。
「はい、これ!次の通院予定!」と命令調で紙を差し出すお方。

奥さんが任意の謝礼として差し出したコインを、「そんなことするな!」と叱責して止めさせたお方。この方は、いわゆる競合見積もりをして、私の活動にしか行き当たらなかったと呟いていたのを鮮明に記憶しております。

この方、少しでも安く移動しただけの「エゴイスト」でしょう。(何とか自分で運転できるようになっての)送迎活動終了後も、検査入院の日のための足に私のクルマを使おうとして、「タクシー会社が出ないのでお願い出来ないか?」と嘘までついてタクシー代を節約しようとしたお方です。(タクシー会社の通話ログに残っていたので後で嘘だったと分かりました。)

このような例は他にもたくさんありますので、興味ある方はこのブログをご覧下さい。

そこで本題ですが、こうした「変なお方」は、これまでの経験からかなり「排除」することができるノウハウが溜まって来ましたが、今日のテーマはそうでない普通に「移動に困難を抱えている」方々をどういう基準で優先順位をつけながら送迎するかという点です。

利用希望者への最初の説明の際に、移動困難度に優先順位をつけて、困難度の高い人から優先的に送迎をしますよ、という点は説明しております。一番ゆるい基準は、高齢者(概ね80歳以上)でクルマなど移動手段がなくて困っている人になります。

先日、そのような最低基準に合致する方から電話がありました。

「息子が墓参りにこちらに来ているので、それが終わったら隣町のXX市役所まで送ってくれないか?」とのこと。送迎中だったので詳しい事情は聞けず、その後の連絡を待ちました。

朝電話を貰ってから、午後をかなり過ぎても連絡がないのでこちらから電話。「まだ息子が来ていない」とのこと。そこで、こちらから電話をして、「実は、ご家族は送迎対象ではないのですよ。最初のご説明した文書に書いている通りです。」と申し上げました。

すると、「私が乗っても駄目ですか?」 との返答。「はい。駄目ですね。」と答えてこの送迎はお断りしました。その際、その方が電話で言った言葉にカチンときました。「今日は千円出すつもりなんですが、それでも駄目なんですか?」との言葉。「お金の問題ではないのですよ。」と言って電話を切りました。

実は、この方には以前も急な電話がありました。精神を患った娘さんがいて、その娘さんが免許証をどこかで落としたとのこと。その時は、「それは大変だ。すぐに探しに行って、ないなら警察署まで急行しなければ」と思って娘さんとその方を乗せての送迎活動を提供しました。隣町の警察署や健保組合事務所などにも行って大変時間もかかりましたが、その際に頂いたのは、いつも通りのワンコイン(ガソリン代込み)でした。

この話には後日談があって、その40−50代と思われる娘さんは翌日急死しました。普段からアル中だったそうです。何らかのショック死でしょう。

余談ですが、こうした緊急時に私が対応したことがその方の脳裏にあったので、今回は、身体は何でもない息子さんの便宜のためにだけ私の送迎を「利用」しようとしたらしい。

前置きが長くなってしまいましたが、こうした「嫌なこと」があると、この私がやっている互助送迎活動って一体何のためにやっているのだろう?と時々疑問に思うことがあります。

そこで、ふと読んだ本の中に書いてあった、以下のマルクス・ガブリエルの言葉です。

「私達は皆、他者の苦しみに責任があるのです。」

そうだったんだ、その責任を果たすために、私ができる唯一と言ってもよいこととして、このような送迎活動をやっているんだ。と思い直しました。

となると、上記のケースですが、その方の息子さんは果たして何かに苦しんでいるだろうか?その苦しみを私の市役所への送迎で解決の一助にできるのだろうか?

答えは「否」です。

単に実家の墓参りに来たついでに、隣町の役所に行くのに便利で安価な移動手段はないかと探していただけではないのだろうか? 普段の利用者であるその息子の母親も単に息子の助けになろうとして私の送迎活動に便乗しようとしただけではないのだろうか?

そうであれば、この互助送迎の理念からしてもおかしいことになります。

問題は、「足腰が本当に不自由で移動に苦しんでいる方」であり、上述のように私を騙してまで1円でも安い移動手段を探している方をどう扱うかということです。

これは、一旦送迎してみないと、その方がたちの悪い人間かどうかは何とも分かりませんが、私としてはもう二度と上記のお方の時に被ったような「不快感」を味わいたくはありません。

今では3年半ほどの経験を重ねて来ましたので、お会いした時におおよそのその方の人間性は分かりますが、やはり実際に送迎してみないと真の人柄は分かりません。

解決策としては、とりあえず送迎はしてみるものの、とんでもないお方であった時は、こちらから辞退できる余地を最初の説明の段階で残しておくということぐらいでしょうか。。

マルクス・ガブリエルの言うように、「私達は皆、他者の苦しみに責任があるのです。」と言われても、その他者の苦しみには様々な人間の欲望が渦巻いております。そこまで考えた上での心理的な葛藤がないような、何か哲学的な解答はないものだろうか?
互助移動支援活動の本質 [2021年05月19日(Wed)]
昨日、近くの大学病院まで送迎したご夫婦。ご主人が足腰が覚束なく眼も片方が不自由で、乗車中はほとんど口を利いたことがありません。3年以上前からお世話しております。

昨日の朝、同じ病院へ行く別の方と同乗しました。これはそのご夫婦にとっては初めてのことでした。2時間ほどして「これから会計」との電話。しかし、たまたま私は別の方との約束がありそちらに向かっている最中だったので、「ちょっと時間がかちあってしまったので、お待たせすることになりますが、よろしいですか?」と念を押し、別の方の自宅に早めに行きました。そして、その方を首尾よく病院まで送り届けたその足で大学病院に向かっている最中に奥様から電話。「まだかかりますか?」と催促されたので、「今、こちらを出てそちらに向かっていますので10分もかからずに到着しますよ」と返答しました。

再度、時をおかずして奥様から電話があり、「主人がタクシーで帰ると言うので、もうお迎えは不要」とのこと。一瞬、嫌な気分になりましたが、そのまま帰宅しました。

私がやっている「互助送迎」は文字通り「互助」の精神でやっておりますので、利用者間での相乗りや時間調整からくる待ち時間が生じる点は、最初にご説明して同意頂いております。

従って皆さん、たまたま別の利用者の送迎がかちあってしまっても、文句は言わずにお待ち頂いております。私は、お待たせする場合は、「近くまで来ましたら電話しますからね。」と添えます。

そもそも、急ぐ用事がある場合は、皆さん、その日は病院の予約など入れることはありません。何故なら、大学病院というところは、どれだけ時間がかかるか分からないためです。従って、快く了解してお待ちいただくケースが通常ですから、「まだ来れないのか?」と催促の電話をいただく事自体、普通はありません。しかし、それは良しとしましょう。

しかし今回は、その電話の直後に再度奥様から、「主人がタクシーで帰ると言っているから、すみません、今日はそうします。」とまで言われました。これは初めてです。後5分もすれば到着するのにです。

その日に、何らかの事情説明の電話があるかも知れないと待っておりましたが、何も連絡なし。そして、今日になって奥さんから「昨日はすみませんでした。」との電話がありました。結局、タクシーがなかなか来ずに、私に頼んでおけば良かったとのこと。

しかし、もう後の祭りです。「こういうことがあると、他の利用者の方々に迷惑がかかるので、もう送迎はこれっきりにさせて下さい」と強く言い放ちました。相手の奥様は私の剣幕に少々ビックリされておりました。

複数の利用者の送迎を掛け持ちしながら、いつ終わらないとも分からない病院の診察時間に合わせて、電話を貰ってすぐに迎えに行くことなどおかかえ運転手でもない限り不可能です。それを承知しながら「もう今日はいいからタクシーで帰ります」と言われてしまえば、それはそれは私の堪忍袋の尾が切れるというものです。

実は、一人ひとりの過去の実績に基づき、そろそろ診察が終わりそうだと思う時間には、病院の片隅の無料で置ける駐車場にクルマをおいて待機していることが度々あります。そのことは利用者の方には何も知らせておりません。その待ち時間は目算が狂って時に2−3時間に及ぶこともあります。先日も診察が終わって薬局から電話してきた方に急いで駆けつけてから、なんと1時間以上も待たされました。(薬局が混んでいたそうです)

そうした私自身の苦労は全く承知していないのでしょう、そのご夫婦は。ご自分の待ち時間が30分を超えたからと言って督促の電話をし、待ちくたびれたといっては子供のように「タクシーで帰るからもういいです」と言う。

そこで本題に戻りますが、「互助」の本質ですが、「お互いに助け合う社会にしよう」という意味を私は込めております。利用者は他の利用者と譲り合って(私と他の利用者を)助ける。任意の謝礼(カンパ)は、私を経由して町の社会福祉協議会の年末募金へ還流させ、他の困っている方々を助ける。そうした活動全般が「互助による送迎活動」と私は位置づけております。

もちろん、送迎以外の色々な生活上の相談にも応じております。もちろん無料です。裁判所まで同行したこともあります。介護施設にも行ったことがあります。これも「互助」の一環です。

しかし、こうした自分勝手な利用者が増えると、他の方々の迷惑になるし、私自身の健康にも悪影響を与えますので、様々な形で「変な利用者」とは付き合わないように「自衛」しております。

その変な利用者が全体の約3割ほどいます。身が持たないのでほとんどの方と縁をきりましたが。。

これを多いと見るか少ないと見るか? 多いと思います。自分勝手な人間が3割です、この社会で。これはその他7割の普通の人間に悪影響を絶えず与えるのに十分な比率ではないでしょうか?

だから、この社会は段々と住みづらくなってくる!

1つ、私が気に入っている文章。

「他人から不適切に利用されないように、安全な状態で仕事や遊びができるように、自分自身の原則を明確にしなければならない。自分自身を慎重に律しなければならない。自分自身を信頼し、動機づけを失わないように、自分との約束を守り、報いなければならない。善良な人間になり、その状態を維持できる可能性が高まるように、自分自身に対する振る舞いを決める必要がある。

本当に助けを求めている人物と、助けに来た誰かに付け込もうとしているだけの人物とを区別するのは容易ではない。助けを求めていて、かつ、出来れば誰かに付け込みたいと思っている人物ともなれば、いっそう見分けが難しい。

単なる無知ではない場合、誰かを助けようとする試みが、虚栄心とナルシシズムに支えられていることも多い。

  ジョーダン・ピーターソン
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