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幸福とは? [2021年09月11日(Sat)]
先日、ある送迎希望者のお宅にお邪魔しました。

80歳を超えたその方は、ご主人をなくした後、息子さんと二人で今の家に住んでいるそうです。その息子さんは月に1回、近くの病院の精神科を受診するため、母親同伴で私の送迎を使いたいとのこと。

これまでは近くのNPOの福祉有償運送を使っていたそうですが、そのNPOではドライバーの高齢化のためかその送迎を中止してしまったため、役場に私のことを聞いて電話をかけて来ました。

本題に入りますが、その息子さんは何と50歳を超えているそうです。話の途中に一度だけ姿を現し、何も言わずに10分ぐらいで自室へと引き返しました。やはり何かあるようです。

その母親から聞いたことで強く印象に残っていることがあります。

ある日、母親は息子さんに「こんな引きこもり状態で何もしないで、今の生活に絶望して死にたいと思ったことはないの?」と尋ねたそうです。答えは、「そんなことはない。今の状態で十分に満足している。」との答え。

唯一、地図をボロボロになるまで眺めるのが「趣味」だそうです。

そこで、筆者が再度思い起こしたのは、「幸せって一体何だろうか?」 ということです。

不幸な状態というのは、いくらでも定義できあちこちに様々な形であります。ところが幸福とは一体何か?と改めて聞かれてもこれはかなり難しい。強いていうと、「不幸ではない状態のこと」ですが、これでは積極的な定義にはなっておりません。

あのトルストイも、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と言っております。

じゃあ、このどれも似たようなものである幸福な状態とは一体何なんだろうか?

筆者のこれまでの経験から、「幸福な状態」とは一体どういう状態なのか、改めて考えてみました。

「幸福とは、思い煩うことが少なく、日々の移ろいを心地よく感じさせる何かを会得している心の状態。」

随分と淡白な定義になりました。

なお、良い暮らしとは何か?については、かつて、こんなブログを書いたことがあります。

https://blog.goo.ne.jp/mariomari/e/73dce12d9be33e22497c176dba870e55
想像力を酵素とする音楽的感動 [2020年11月23日(Mon)]
最近読んだ2つの全く別の本から、タイトルのような言い方ができるのではないかと思うようになりました。

まず、これまで全く知らなかったクリーブランド管弦楽団の往年の名指揮者ジョージ・セルが言った言葉。

「本物の指揮者は心で考え、頭で感じなければならない。」

普通の解釈の逆のように見えますが、指揮者にとって大切なことは、「感情を冷静にコントロールしながら、感動を頭脳的に作り出す。」ことだそうです。
そう言えば、何か不条理なことがあり、それに対して感情が高ぶっている時は、いわゆる「心臓がパクパクしている」状態ですね。頭に血が昇って「感動」も何もない状態。指揮者がこのような心持ちで楽団員を指揮しても、冷静な楽団員との心的なズレが生じるだけですね。

従って、心で考えるとは、つまり一切の感情を冷静にコントロールすることな訳ですが、これは音楽以外についても同じことが言えそうです。
例えば、何かの論点に関して誰かと議論している時、まずは感情を冷静に保ち、相手の頭の中に入り込み、どうすれば、相手の論拠となっている考え方についての矛盾点なり、非論理性なりを冷静に説きながら、無理やり説き伏せるのではなく、当の相手自らが気づいてくれるか? この点が重要になってきます。

端的にいうと、相手が頭の中で「ハッ」と感じる瞬間を作り出すことが出来れば、そこから先は相手の頭の中に新しい「常識」のようなものが新しく生成され、話がうまく通じることになります。

音楽についても同じことが言えます。長年バッハの音楽を聴いてきて、ようやく最近になって分かってきたことは、バッハの音楽に感動するとは、心で感じるものではなく、どうやら、計算された和音の組み合わせや音楽のテンポ、あるいはクライマックスを作り出す音の仕掛けのような、いわばバッハならではの「多彩なノウハウ」によって引き起こされるようなのです。

しかし、そのバッハの企みは、聴く人が脳内に持っている「酵素」によっては、全く音楽的な感動に作用しないこともあるのではないか。

それは、「人間は外面的幸福それ自体は吸収することができず、人間の心の中で「想像力」という酵素が作用することではじめて吸収できる状態になる。」と述べている、もう一つの本(長沼紳一郎「現代経済学の直感的方法」)から示唆を受けました。

例えば、野に咲く名もない一輪の花を見た時や、生まれたばかりの1ミリほどの蜘蛛の子が必死に蜘蛛の糸を垂らしている様を見た時、ある種の「想像力」があれば、得も言われぬ程に感動する人もいれば、「想像力」がなくて全く感じない人もいます。

これは、その人の脳内の酵素の多寡や、種類、また組み合わせ、あるいは可塑性などにより、目の前の同じ情景に対しても、人によっては全く違った感動を引きおこす(あるいは全く引き起こさない)ことが、この歳になって何となく分かってきました。

同じ人生を過ごすのなら、やはり日々新たな感動が脳内で作られるようになりたいものですね。

ダーウィンの自然選択理論 [2020年06月29日(Mon)]
自民党の憲法改正漫画で、ダーウィンの進化論をもじったような「変化しない社会・人間は生き残れない」との間違ったメッセージがSNSで話題になっております。

最近読んだ本の中で、この進化論の中心の自然選択の理論について分かりやすく書いてありましたので、チョイとご紹介。

1.個体間には差異がある。
2.個体間の差異は、しばしば生存と生殖に影響を及ぼす。
3.子どもは両親に似る。、

この3つだけで、何億年という長い年月をかけて、環境に適応した種が生き残ってきた訳です。
この単純な原則のどこを見ても、種自らが変化するということは言っておりませんし、変化しなければ生き残れないということも含意されておりません。

二階幹事長が言うような「ダーウィンも喜んでいる」どころではありません。嘆き悲しんでいるかも知れません。

この3つの原則については、トマス・ハクスリーが、「そんなことも思いつかなかったとは、私はなんと愚かだったのか!」と叫んだとか。

このハクスリーはダーウィンと同時代(1825年〜1895年)のイギリスの生物学者で、ダーウィンの番犬(ブルドック)との異名を持っております。それほどダーウィンの進化論を弁護した訳ですが、面白いのは、この人学校に通ったのはたったの2年だけ。そのせいか?、「若者の能力を見極められる人ほど賢い人などいない」などと、のたまわっております。

日本企業でトップの老害に苦しんでいる人々に、是非この言葉を捧げたい気持ちです。

ハクスリーはまた、「人間が進化を通じて獲得した、自己利益を追求しようとする熱意は社会の崩壊を招く」とも言っております。

まさにその通り。

私が3年近く地域で行っている「互助送迎」の活動を通じて初めて見えた「自己利益を追求する熱意を持った方々」をよく見ていると、まさに社会の崩壊の進行度合いを感じます。

こういう方々は、タクシーの30分の1のガソリン代だけでの送迎に対して、自己利益を最大化するため、ガソリン代以外は全く支払わないか、善人ぶってほんのわずかな金額(20円から50円とかの場合もあります。)を謝礼として差し出すだけです。つまり、自己利益を最大化するために、いわば「私の善意」を使い倒すという意図がみえみえの方々です。

いわゆるギブアンドテイクでこの世の中は成り立っているとも言われておりますが、こうした方々はいわゆるテイカーですね。

そのテイカーの中でも、もっともたちの悪いのが「ギバーを装うテイカー」です。 こうした方々は口では私の活動を褒め称える訳ですが、私がその人の移動のために費やした1−3時間の無償で提供される時間については、何も報いようとはしません。場合によっては下車時に「ありがとう」の一言もない。やむを得ず支払うガソリン代ポッキリを差し出してお終い。 

完全なテイカーで、最近遭遇したひどい例は、約束通りの時間に迎えに行っても、「あぁ〜、病院からキャンセルがあったんですよ。」でお終いの方。お詫びの言葉1つすらないというひどい状態。(次回、この方から予約の電話があったら断ることにしております。)

ある本で書かれておりましたが、こうしたたちの悪いテイカーは約15%ほど、この社会に生息しております。(外国の例ですが、日本でも)私の経験からはほぼこの比率の通りですね。この15%の人々がこの社会に害悪を及ぼすいわゆるクレーマーになったりしている訳です。 この種の人間が3割を超えてくると、これはもう善意のギバーは滅ぼされるでしょう。 そうならないために、私がやれることは、そうしたたちの悪いテイカーとは関係を持たないことしかできそうもありません。 これで「自然選択」できるとは到底思えませんが。。

この社会の闇は深い。。
マザー・テレサ 解放の祈り [2020年05月17日(Sun)]
いやー、参りました。こういう無意識の心境で余生を生きたいもの。

マザー・テレサが、カルカッタの路上で誰からも見捨てられやがて死にゆく人々を、「死を待つ人々の家」に連れて帰り介護するなかで、このような深い祈りで一人ひとりの人間にイエスを見ていた。

イエスよ、私を解放して下さい。

愛されたいという思いから、
評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、
ほめられたいという思いから、
好まれたいという思いから、
相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、
有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、
見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、
中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、
誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから。

マザー・テレサ
「聖なる者となりなさいーマザー・テレサの生き方」
碩学の本 [2020年03月31日(Tue)]
このところのコロナ騒動で、ちょいと困っているのが公共施設が閉鎖されていることです。筆者にとっての馴染みの公共施設は、町のトレーニングジムと図書館です。ちょうど閉鎖される直前に借りた本を読み終えても、閉鎖前にリクエストした他館所蔵の本も一向に届きません。

頭も使わず体も使わず、ひたすら家に閉じこもって免疫力をつけるための食事と睡眠を心がけよと、世間から強く言われておりますので致し方ありません。しかし、このいびつな生活は、何やら「出荷前の豚」に対して人間様が勝手に強要している生活と酷似しておりますね。

「太った豚になるよりも痩せたソクラテスになれ!」とは、その昔、某大学の卒業生に対するはなむけの言葉として有名になりましたが、今は、世間から「痩せたソクラテスになるよりも太った豚になれ!」と言われているようです。

一体全体、いつから、豚とソクラテスが逆転してしまったんだ??

そうは言うものの、この環境からの成り行きで太った豚になるのは仕方ないにしても、せめて痩せていないソクラテスを目指したいと思い、最後に図書館から借りた本の1つ、「社会学史」(大澤真幸著、2019年3月)の気になる箇所を再度読み始めました。

世の中には、こういう本を書く人がいるんですね。まさに碩学。以前から大澤真幸の本は数々読んできましたが、この本は実にスケールが大きく、体系的に思想・哲学の流れを社会学史という視点からまとめられております。

二度読んでも、論旨の流れを負うのが精一杯。この本に出てくる、まさに碩学の中の碩学のような人物に比べ、いかに自分が平凡で思慮がなく底の浅い人間であることか、改めて思い知らされております。

社会つまりこの世の中の成り立ちに対し、何らかの疑問を抱いている方に是非おすすめします。
ギグ・エコノミーは何を意味するか? [2019年12月14日(Sat)]
最近、ギグ・エコノミーなる新語が世間を賑わせております。独立自営業者化が拡がった経済とでも言う意味になりますが、元々は、ジャズの演奏において、知らない演奏家同士が単発のライブを組むGIGという言葉から派生しているようです。

昔から、フリーランスとしての働き方は、特にデザインなどの個人資質に負うところが強い仕事ではありました。その個人としての働き方の部分だけ取り出し、いわば企業にとって固定費負担の少ない契約方法として、個人(=自営業者)との契約による経済性の追求の流れと相性が良いため、例えば、ウーバーなどのシェアリングエコノミー企業等を中心に拡がってきているようです。

この動きが果たして、これからの社会にとって、特に人が生み出す付加価値(社会全体にとっての)の向上に対して、本当に有効に機能するのかどうか、機能させるためにはどのような視点を加えることが必要なのかを見てみたいと思います。

まず、大きな流れを見てみます。

@終身雇用的な働き方の段階:
 
1企業内での正規社員の労働力の最適化が有効だった時代の産物。今でも、企業の中核的な先端技術開発分野では有効かもしれませんが、高度な技術革新が必要な分野を中心に、「企業内人材の高度化」だけでは競争に勝てない時代がますます進んでおります。

A企業内でのルーティンワーク中心に非正規雇用者の拡大の段階:

特に高度な技術を要しない、主に企業内の繰り返し業務については、コストの高い社員を派遣社員に置き換える動き。需要の変動弁としても便利。しかし、人を抱えるという点ではこれも過渡的な段階。

B上記の@とAをAIやロボティクス等の先端技術にて置き換える段階:

最初にAのルーティンワークを置き換え、徐々に@の先端技術分野にも浸透している段階。しかし、他社が開発した標準化された技術は、それがいかに高度なものであっても、競合他社もいずれ容易に導入できるため市場で勝ち抜くのは困難。

C働き手(正規・非正規)の「外部化」の段階:

Bの動きと同時進行しながら、働き手そのものを外部化する段階。(例:ウーバー&ウーバーイーツの運転手や運び手が典型。)ウーバーのドライバーは自動運転時代には不要となるがそれまでは必要。当然ながら、この段階での働き手はAのように企業内の非正規雇用者である必要がなく、コスト的にも個人契約で十分。働きによっては収入増になるという、偽りのインセンティブがまぶされていることが特徴。

この最後の段階をギグ・エコノミーと称している訳ですが、こうして過去からの流れを見てみると、この流れが行き着く先はおぼろげながら見えて来ます。

1つは、このギグ・エコノミー段階は過渡的なものだということです。いずれ技術的に置き換え可能な分野では働き手は不要となります。

更に見えてくることは、特に先端技術分野やデザインなどのアートの分野での外部化としてのギグ・エコノミーで、うまく市場競争に勝ち抜くことが出来るのだろうかという点です。

この観点から、極めて先進的な視点からアプローチしているのが、例えばソフトバンクグループです。

一言でいうと、ソフトバンクグループは出資企業の合従連衡により、人々の生活全般(通信、移動、金融、ショッピング等すべて)で、それぞれの分野で強みを持つ企業を束ねて(合従連衡させ)圧倒的な付加価値を付けようとしているように、筆者には見えます。

こうした動きの将来においては、例え天才的な能力を持った個人であっても、そうしたリーダー的な企業間の合従連衡が生み出す、圧倒的な技術力・ネットワーク力・イノベーション力に太刀打ちすることは極めて困難であり、結果、単なる一時的な消耗品と化するのではないでしょうか?

このソフトバンクグループのようなアプローチに対して、果たして対抗するアプローチはあるのか?

それは、ごく概略的に言えば、ソフトバンクグループのいわば「帝国的なアプローチ」に対して、「民主的なアプローチ」に徹することです。

帝国的なアプローチの弱点は、かつてのローマ帝国がそうであったように、皇帝の力(権威)にかなり依存していることです。それでも分権主義をローマ帝国は強く意識して進めたため、あそこまでの広範な帝国を統治出来た訳ですが、その統治の1つひとつの結び目(ネットワーク力と言ってもいいかと思います。)が弱かったため、強力に推進できた水道事業(ハードの極み)などは別にして、皇帝の権威に一旦ほころびが出ると瓦解するのも容易だったと言えます。

では、ソフトバンクグループに対抗するための民主的なアプローチとは一体どういうものであるべきか?

ヒントをいくつか上げると、一つは相乗作用です。もう一つは多様な組み替え効果です。いずれも、特定の企業群(ソフトバンクグループのような)内だけでは、その最大化に限界がありますが、これを地球的にかつ民主的に拡大すれば対抗できる可能性が見えて来ます。

例えば、リナックスの開発のように。

そのためには、かなり困難を伴いますが、地球上のあらゆる人的資源をその「都度」最適に組み合わせ、圧倒的な結果を生み出す仕組みを作り上げ、それを、民主的に人類に配分するという方向ですね。最適な組み合わせにおいては、今のAIなどの技術である程度容易になりますが、それを1つの企業グループの「成果」として「独占」させるのではなく、「民主的」に最適配分するための仕組みは、政治や国のあり方も関係しますので一筋縄では行きませんが、こうした志向をもって、小さな単位から試行錯誤を重ねながら進めていくのがいいのではないかと思っております。

中村哲さんを偲んで [2019年12月05日(Thu)]
ペシャワール会の中村哲さんが不慮の死を遂げました。
私も一時、アフガニスタンの人々の生活基盤そのものを1から作り上げるという彼の活動に共鳴を受け、ペシャワール会に寄付をしていたことがあります。まさかこのような形で死を迎えるとは思いも寄りませんでした。

一体、誰がこのような地を這うような地道な活動を行う人間に対して凶弾を向けたのか?

今日の東京新聞を見て、改めて彼の活動のすごさを知りました。

★誰も行かないところにこそわれわれに対するニーズがある。

これは、「誰もやらないことにこそ、我々に対するニーズがある。」とも言い換えられるでしょう。

★彼ら(アフガニスタンの人々)はわれわれの情熱のはけ口でもなければ、慈善の対象なのでもない。日本人と同様、独自の文化と生活意識をもった生身の人間だちなのである。

限りなく、アフガニスタンの人々が置かれた現状に対する共感意識が高い言葉です。

私が行っている互助移動支援活動についても、ある時から、ボランティア活動と呼ぶのは止めました。もちろん、慈善活動でないとも書きました。この中村哲さんの語録を読んで、すっきりとした気分です。

互助移動支援の対象は、身近な同じ日本人(或いは日本に住む人)です。たまたま、図らずも生活上の不便(移動)を抱えてしまっている方々です。しかし、移動しなければこの社会では人は生きていけません。そこに切実なニーズがあります。にもかかわらず、行政はもとより、地域の団体などは、必ずしもそうしたニーズに応えておりません。ましてや、このような「持ち出しの面倒なこと」にかかわろうとする個人は、私の住む町も含め今のところゼロです。

ボランティア活動を行っている人々はたくさんいらっしゃいます。ですが、そうした方々に声をかけても、この互助移動支援活動については賛同はして頂けるものの、ご自身が積極的にかかわろうとする方は、不思議なことに皆無です。ニーズはいっぱいあるのは皆さん分かっていらっしゃいます。でも、ご自分からはどういう訳か動かない。

これは一体どういうことか?、何が中村哲さんを動かしたのか?中村哲さんの語録を読んでこの思いを新たにしました。
高齢になると何故運転能力が衰退するか? [2019年06月15日(Sat)]
いきなりですが、「ベイズ階層予測コーディング」という言葉を聞いたことがありますか?

これは、認知科学全体に広まりつつある着想です。

「脳は利用可能な意味論的情報をどのように選び出し、用いているのか」という問いかけに対する答えとして非常に有力視されております。

ベイズとは、トマス・ベイズ牧師のことであり、彼は人の事前の予期を基礎にして、確率を計算する方法を開発したそうです。

本題に入りますが、「ベイズ階層予測コーディング」とは、ダニエル・C・デネット、タフツ大学教授の説明がもっとも分かりやすいので、以下に掲載します。

「私たちは物体には背面があり、後ろに回り込めばそれが見えるようになる、という予期、ドアは開けられるという予期、階段は上れるという予期、コップには液体を注げるという予期を行っている。これらをはじめとする、ありとあらゆる種類の予測が、1つのネットワークからあふれ出してくる。このネットワークは、じっと座って情報を受動的に待ち受けるのではなく、むしろ下位レベルからの入力として、直後に何を受け取りそうかを、直前に受け取ったものにもとづき、絶え間なく推測し続けている。・・・<脳はどのように学習するのか>という問題にベイズ的思考を応用することには、格別の魅力がある。・・・ベイズ的思考を応用して考察するなら、脳は絶え間なく「先取りモデル」ないし確率論的な予測を創り出し、得られた情報をー必要に応じてー正確さを高めるための情報の刈り込みに利用する、という戦略をとっていることになる。

このような生物が、極めてなじみ深いなわばりの中で、万事うまくやれている場合、上層へ戻ってくる修正はごくわずかとなり、脳は妨げられずに推測を行い、それによって生物は、次になすべきことを、首尾良く開始することができるようになるのだ。」

いかがでしょうか? 何が言いたいのか、ちんぷんかんぷんかも知れません。

クルマを運転する際に、人は周囲の情報をどのように脳で処理しているのかを説明する一助になる考察ですね。

下位レベルの入力を脳の上層部に毎回上げることなく、下位レベルの情報を瞬時に修正を加えながら、反射的に環境に適応している様が想像できれば十分です。

高齢者の自動車事故が何故起こりやすいのかを理解する際に、このようなベイズ階層予測コーディングの考え方が随分と役に立ちます。

いわゆる高齢者の反射神経の衰えというのは、このような脳の特性が背後に控えている訳ですね。まさに高次の脳機能です。これが加齢によって衰える訳です。もちろん、このような衰えは自分では認識できません。滞りなくクルマを運転出来、家事も滞りなくやれていれば、このような衰えは、通常、認識することはありません。

しかし、ブレーキとアクセルの踏み間違いをしてしまう時には、このような脳の高次の環境認識能力の減退があるものと考えられます。クルマの走行中に、周囲の環境を脳が適切に処理できない、或いは、間違って環境を認識してしまう現象が起こることがあり得る訳です。

これは、ドライバーにとっては、まさに何が何だか分からない状況です。この時、人はいわゆる「パニック」に陥るのでしょう。そうなると、正常な動作に戻す経路を冷静に見定めることが非常に困難になります。その時、いわゆる金縛り状態になるものと思われます。

では、こうした脳の特性を踏まえた上で、事故を誘発しないためにはどうすれば良いのでしょうか?

1つは、トレーニングです。周囲の環境の認識能力の衰えを感知するためのトレーニングですね。これは、意識的に行うことが必要です。漫然と従来通りのドライビングをしていては駄目でしょう。走行中にどこをどう見てどう判断するか?を絶えず考えながら、自らの周囲の状況の認識能力を高めるためのトレーニングを普段に行うことです。

2つ目は、慣れた道路だけを走ることです。毎日通っている道路なら、その道路の環境特性が前もってインプットされおりますので、脳に対して道路状況に対するドライビングの正しいあり方についても自然と誘導されます。欧米には、地域限定の免許制度があると聞いておりますが、それはこのようなことが背景にあるものと思われます。

3つ目は、いわゆる自動運転のレベルの高いクルマに乗ることです。加齢に伴う以上のような「能力の減退」を是として、それを補うための自動運転テクノロジーをトコトン利用することです。
そのためには、今、政府が検討している高齢者に対するサポートカー限定免許の施策などは役に立つでしょう。

4つ目は、以上の3つの対策を講じることができないお方は、免許を返上しクルマの運転から引退することです。ご自身でも分からない脳内の変化がある訳ですので、それが分からないご自分が社会にとって如何に危険な存在かを認識して欲しいと思います。
NHKホールでのバッハ [2018年12月09日(Sun)]
昨日、久しぶりにコンサートに行ってきました。NHKホールです。
最近はすっかり遠ざかっているフェースブックの、いつもはうざい広告で、オールバッハプログラムがNHK交響楽団とヨーロッパからの合唱団の競演で開催されることを、たまたま知ったためです。

NHKホールは、ほとんど見たことがない年末の紅白歌合戦の使用ホールとして知ってはいましたが、訪れたのは初めて。
確か、改装をしたとかで、内部はまるで新装のコンサートホールのようでした。右側にはパイプオルガンが配置されておりました。ヨーロッパの本格的な教会のオルガン配置のように正面になっていないところが、NHKホールというホールの性格なんでしょうね。

久しぶりの生の演奏でまず感じたのが、当たり前ですが、音の解像度がCDなんかより格段に違うということでした。そして全体に音が柔らかい。残響も抑えられているのでしょう。これは一人ひとりの演奏者が音を奏でているのですから当然のことですが、そこでちょっと気になったのが、オーディオ装置では何故ライブのような音が出せないのかということでした。

CDでは録音技術によって音が随分と変わると言われており、確かにそうです。そして、解像度を上げるには、全くの素人考えですが、すべての楽器や声楽家に集音装置を付け、それをまとめればライブに近い音が得られるのではないかとも思うのです。実際にはそんなことはしていない。単に手間とお金がかかるという問題ではなく、そこには、「音場」というものが絡んでいるのではないかと思います。

コンサートホールで聴衆に届く音は、確かに、個々の演奏家が発する「音」の集合体ではあります。しかし、それ以上に大切なのは、その「音」を演奏会場全体でどのようにまとめ上げるかということではないかと思うのです。これがいわゆる「音場」ということになるのであれば、単に各演奏家が奏でる音を全部集めただけでは「音場」は形成されないのではと、思うのです。

つまり、もっとくだけた言い方をすれば、個々の音を集めただけではいわゆるハーモニー(調和)が生まれないとも言えます。

この個々の音を音楽性を備えたハーモニーにまで仕立て上げるのが指揮者の役割ではないでしょうか?

一人ひとりの演奏者は自分の楽器が奏でる音は間近に聴いているのでよく分かるけれども、他の演奏者が奏でる音は自分の位置取りから言っても歪んで聞こえる筈です。これは指揮者がいる理想的な位置であっても、観客に対してどのように聞こえるのかは100%定かではないのでしょう。だから、たまにリハーサルの時に、あえて観客席のちょうどいい座席に座って、ホール全体の「音場」の程度を観察している方がいますね。あの位置が多分聴くには理想的な位置だと思います。

指揮者はそのことも分かった上で、個々の演奏者が出す音の強弱や演奏でのポイントを詳細に指示を出しているのではないかと思います。

これは、コンサート会場だけの話ではなく、例えば、一般のビジネスにおける様々な部署の人間が集まる会議の場でも言えることではないでしょうか?まとめ役は、各人が出す意見(音)を全体としてハーモニーが最も美しくなるように調整する、個々の会議の参加者(演奏者)の力が最大限に発揮できるよう、他の参加者(演奏者)の意見を相互に踏まえながら、全体として最適な結論(音場)に導くことが要請されている訳ですね。

たまに「不協和音」しか出さない輩もいるようですが、これはもう排除する以外にはないですね。他の参加者のいい音(いい結論)を出そうとする意欲をそいでしまうからですが、注意しなければならないのは、他の参加者全体が同種(多様ではない)の偏向的な意見に「感染」しているとすれば、逆説的な意味で、素性の良い意見であっても、「不協和音」として処理されてしまうので、これはこれで注意しなければなりませんが。。

軍隊が、いわゆる「進軍ラッパ」として単一の素朴なトランペットのような楽器しか使わない理由も、このあたりにありそうです。

ちなみに、昨日の演奏会での収穫は、シェーンベルク編の前奏曲とフーガ変ホ長調BWV552をN響の100人(これ以上いたかも知れません。)の大編成オーケストラの迫力ある音を体感できたこと、それに、最後のアンコールでの合唱団の素晴らしいハーモニーに満ちた歌声を、それこそ「生」で体感できたことでした。

この歌声を聴いたお陰で、多分、寿命が10日は延びた??
最初のデートがうまくいくための言葉遣い [2018年06月22日(Fri)]
ちょっとこのブログには「堅い」記事が多いので、少し柔らかい話題を1つ。

今読んでいる、「誰もが嘘をついている」という本の中で紹介されている、今話題の「ビッグデータ分析」から得られた、タイトルにある「最初のデートがうまく行くための言葉遣い」です。

著者は、セス・スティーヴンズ=ダヴィッドウィッツという舌を噛みそうな方。スタンフォード大学で哲学を専攻し、ハーバード大学で経済学の博士号を取得。グーグルのデータサイエンティスト、ペンシルバニア大学の講師などを経て、現在はニューヨークタイムズの寄稿者とのこと。

タイトルの部分だけ、ちょっと転記したものですが、私なりに箇条書きにするなどしておりますので、一字一句同じではありません。多少の言葉遣いの違いはあることをご了承下さい。趣旨は全く同じです。以下、ご参照下さい。特にビッグデータ分析に着目。

●二度目のデートに到達できるかどうかは、初回のデートの言葉遣いで分かる。

<伝統的なデータ>
女性:背が高く趣味が同じ男性を好む
男性:細身で趣味が同じ女性を好む

<録音をデジタル化したビッグデータ分析より>
1.男性が相手に好意を伝える方法
  →女性のジョークに笑うこと
  →声を単調にすること(ある研究では、女性は男性の一本   調子の声を男らしく感じる)

2.女性は、興味がある相手と話すときは声調を変え、より柔 らかな口調で、会話がより活発になることが分かった。

 また、特定の言葉遣いも女性による男性への興味の重要な印。女性が緩衝的表現、たとえば「たぶん」とか「だと思う」などと言うときは恐らく相手に興味がない。

 自分語りをする女性はあなたに関心がある。要するに気になる女性の口から男が聞きたい最高の言葉は「私」である。それは、彼女が気をよくしていることのしるしなのだ。

 さらに感情や意思を表す言葉遣い、たとえば「〜ってこと」とか「そうでしょう?」なども脈ありのサインだ。なぜなら、それらは相手の興味を引くためのものだから。これらの言葉は
フレンドリーで仲良くなりたいということを示唆している、ってこと。そうでしょう?

3.男女ともにどんな話し方をすれば意中の相手の気を引くことができるか?
 女性は、自分のリードに従う男性を好む。男が自分のジョークに笑ってくれることや、自分が持ち出した話題に添って話しをしてくれることの方を、話題を勝手にころころ変えられるよりも好む。

 男が、「そりゃいいね!」とか「かっこいいよ、それ!」などと言うと、女性はつながりを強く感じる。「それは大変だったね」とか「気の毒に」なども同様だ。

4.女性にとって残念なニュースもある。男性が女性を気に入るかどうかに、会話はごくわずかな役割しか果たしていないのだ。その点では、容姿の重要性が他の要素を圧倒している。

 その上で言うが、女性がわずかであれ、意中の男の気を引く可能性を増す言葉がある。既述の「私」である。男は、自分について語る女性により惹かれやすいのだ。
女性は自分語りをしたデートの後で、よりつながりを感じやすくなる。だから初めてのデートで女性についての話題が多ければ吉兆だ。女性が気を良くし、男が話題をころころ変えなかったことに感謝している証拠だ。二度目のデートは有望である。

5.デート中の会話について明らかに問題の兆候を挙げておこう。それは疑問符だ。デート中に会話が質問だらけだったら、男女のいずれも相手に関心がない証拠だ。意外だ、問いかけは相手への興味を示しているんじゃないのかって? 初めてのデートの場合は違う。初めてのデートでは大半の質問は退屈している証拠である。「ご趣味は?」「何人兄弟?」これらは会話が行き詰まったときのセリフだ。

だが、最高のファーストデートでの締めくくりのせりふには、疑問符が付いているかも知れない。「また会ってくれる?」だ。もしこれがそのデートでの唯一の疑問符だったら、答えはおそらく「イエス」だ。

以上、引用終わり。

このビッグデータ分析。巷間言われている男女がうまく行くための数々のノウハウを膨大なデータで裏付けた感じですね。

今、アマゾンプライムで人気の「BACHELOR JAPAN」に出てくるBACHELOR達の言葉遣い、そして女性達の振る舞いや言葉遣い、このビッグデータ分析に限りなく近いようですね。

もっと早く知っていたら、私の人生もかなり変わったものだったかも知れないが、既に遅し。。。
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