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ダーウィンの自然選択理論 [2020年06月29日(Mon)]
自民党の憲法改正漫画で、ダーウィンの進化論をもじったような「変化しない社会・人間は生き残れない」との間違ったメッセージがSNSで話題になっております。

最近読んだ本の中で、この進化論の中心の自然選択の理論について分かりやすく書いてありましたので、チョイとご紹介。

1.個体間には差異がある。
2.個体間の差異は、しばしば生存と生殖に影響を及ぼす。
3.子どもは両親に似る。、

この3つだけで、何億年という長い年月をかけて、環境に適応した種が生き残ってきた訳です。
この単純な原則のどこを見ても、種自らが変化するということは言っておりませんし、変化しなければ生き残れないということも含意されておりません。

二階幹事長が言うような「ダーウィンも喜んでいる」どころではありません。嘆き悲しんでいるかも知れません。

この3つの原則については、トマス・ハクスリーが、「そんなことも思いつかなかったとは、私はなんと愚かだったのか!」と叫んだとか。

このハクスリーはダーウィンと同時代(1825年〜1895年)のイギリスの生物学者で、ダーウィンの番犬(ブルドック)との異名を持っております。それほどダーウィンの進化論を弁護した訳ですが、面白いのは、この人学校に通ったのはたったの2年だけ。そのせいか?、「若者の能力を見極められる人ほど賢い人などいない」などと、のたまわっております。

日本企業でトップの老害に苦しんでいる人々に、是非この言葉を捧げたい気持ちです。

ハクスリーはまた、「人間が進化を通じて獲得した、自己利益を追求しようとする熱意は社会の崩壊を招く」とも言っております。

まさにその通り。

私が3年近く地域で行っている「互助送迎」の活動を通じて初めて見えた「自己利益を追求する熱意を持った方々」をよく見ていると、まさに社会の崩壊の進行度合いを感じます。

こういう方々は、タクシーの30分の1のガソリン代だけでの送迎に対して、自己利益を最大化するため、ガソリン代以外は全く支払わないか、善人ぶってほんのわずかな金額(20円から50円とかの場合もあります。)を謝礼として差し出すだけです。つまり、自己利益を最大化するために、いわば「私の善意」を使い倒すという意図がみえみえの方々です。

いわゆるギブアンドテイクでこの世の中は成り立っているとも言われておりますが、こうした方々はいわゆるテイカーですね。

そのテイカーの中でも、もっともたちの悪いのが「ギバーを装うテイカー」です。 こうした方々は口では私の活動を褒め称える訳ですが、私がその人の移動のために費やした1−3時間の無償で提供される時間については、何も報いようとはしません。場合によっては下車時に「ありがとう」の一言もない。やむを得ず支払うガソリン代ポッキリを差し出してお終い。 

完全なテイカーで、最近遭遇したひどい例は、約束通りの時間に迎えに行っても、「あぁ〜、病院からキャンセルがあったんですよ。」でお終いの方。お詫びの言葉1つすらないというひどい状態。(次回、この方から予約の電話があったら断ることにしております。)

ある本で書かれておりましたが、こうしたたちの悪いテイカーは約15%ほど、この社会に生息しております。(外国の例ですが、日本でも)私の経験からはほぼこの比率の通りですね。この15%の人々がこの社会に害悪を及ぼすいわゆるクレーマーになったりしている訳です。 この種の人間が3割を超えてくると、これはもう善意のギバーは滅ぼされるでしょう。 そうならないために、私がやれることは、そうしたたちの悪いテイカーとは関係を持たないことしかできそうもありません。 これで「自然選択」できるとは到底思えませんが。。

この社会の闇は深い。。
またまたやってしまった。 [2020年06月04日(Thu)]
今日の午後、病院へ利用者を迎えに行ったその帰りの車中でまたまたやってしまいました。
透析に週3回通っている方ですが、今日も病院での透析をもう止めたいと言い出したそうです。担当の看護師さんは、必死の説得を30分程度試みやっと透析を続けることになったそうです。

この方は今回が初めてではなく、毎回こうして医療機関の方々と悶着を起こしております。

そのことを聞かされる私としても、医療スタッフにそのように面倒をかけることはやめるよう何度も説得をしてきましたが、今日またまた悶着を起こしたと聞いて、「そんなに子供のようなことを何度も言うものじゃない!」「医療スタッフの気持ちを少しは考えるのが筋じゃないのですか?」といったことを、ついつい語気を強めて言ってしまいました。

本人は、更に「彼らはお金をもらっているのだから当然だ」とまで言い出す始末。ついに堪忍袋の尾が切れて、「そういうお方のために、この移動支援を行っているのではないので、今日限り、送迎は止めます!」と告げ、代金も頂かずに帰宅しました。

ちょっと後味が悪い出来事ですがが、不快な思いを毎回してまで、この互助送迎活動をするつもりはありません。

しかし、自分でもきついなぁ〜、とは思いますが、世の中色々な方々がいますねぇ〜。。
マザー・テレサ 解放の祈り [2020年05月17日(Sun)]
いやー、参りました。こういう無意識の心境で余生を生きたいもの。

マザー・テレサが、カルカッタの路上で誰からも見捨てられやがて死にゆく人々を、「死を待つ人々の家」に連れて帰り介護するなかで、このような深い祈りで一人ひとりの人間にイエスを見ていた。

イエスよ、私を解放して下さい。

愛されたいという思いから、
評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、
ほめられたいという思いから、
好まれたいという思いから、
相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、
有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、
見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、
中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、
誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから。

マザー・テレサ
「聖なる者となりなさいーマザー・テレサの生き方」
変異し続けるウィルス [2020年04月26日(Sun)]
新型コロナの特性に関して、日々様々なニュースが入ってきております。
中でも、4月24日のNew York Timesの下記の記事は、これからのコロナ禍の犠牲にならないように一読をおすすめします。

https://toyokeizai.net/articles/-/346423?utm_source=morning-mail&utm_medium=email&utm_campaign=2020-04-26&mkt_tok=eyJpIjoiWlRGaU5tSXdZelpsWXpkaCIsInQiOiJ3Vk5ZcmFnRlNrdjdKczJSZ0xGSWlka0tJSng3UXJSc3BxaVwvaGNrd3BwRU1BRzR5elwvcm1xZGJHSHg5U0pSa1lTOWNkalpBOU9rQVpjb0pUdUpPY1kzWDFMaGhxZmViZ3VYems5MGE0VncydmhHTmhPUFZsK3JoeXhzbEV5MzdLIn0%3D

私は、心臓の拍動が乱れる症状の完治のため、カテーテル・アブレーションという処置を3月11日に受けました。この際に、自分でも血中酸素濃度を簡易に測るため、パルスオキシメーターを持っていきました。心拍の波形と脈拍数なども同時に測定できます。

自宅に帰ってきてからも、肺に近い心臓でカテーテル治療を受けたことから、新型コロナへの罹患を強く警戒するため、このパルスオキシメーターにて1日に数回血中酸素濃度を測定しております。およそ、98%から100%が私の正常値です。

これが95%以下になると、新型コロナウィルスによる初期の肺炎症状が疑われます。ちなみに強度のCOPDに罹患している私の送迎の利用者は、平時でも酸素ボンベを持ち歩いておりますが、彼女に尋ねたら70%程度まで落ちることがあるとのこと。これはもう大変な状態です。彼女いわく、新型コロナに侵されたら即、死を意味するとのこと。しかし生きるために月1回の大学病院通いは欠かせません。

最後に、このように様々に変異し続ける今回のウィルスに対して、専門家会議での「最初の4日間は様子見すること」、との一律のステートメントは役に立たないことは明らかです。

敵は変幻自在です。それに対する対応策も変幻自在でなければならないことが、このウィルスの厄介なところです。政府の対応がこのように硬直していることを非難しても、このコロナの厄災は誰にでも等しく降りかかります。自分で自分を最大限に防御しないと、私が好きな岡江久美子さんのような不幸を招いてしまうことになるようです。
コロナ後の世界 [2020年04月20日(Mon)]
新型コロナが人類に突きつけているものをどう理解し、我々の生活をどう適応させて行くべきかをずっと考えています。前回書いたグローバリズムが帰結している効率第一主義や格差の拡大を、このままコロナ後も続けて良い訳はありません。

では、どういった社会構造に転換したらよいのか?

コロナによって少し見えてきた、この社会の新しいあり方を見てみます。

1.都市にせよ会社にせよ、効率性追求の結果としての、「人、モノ、金の集積」からの転換。
2.集積が可能としていた集権的・ピラミッド型の社会構造からの転換。
3.人が極力介在しない新しいテクノロジーの採用・推進。
4.消費者と生産者の直接的結合。また、消費者同士、生産者同士の直接的結合への転換。

以上のような社会構造への転換を、コロナによって迫られているように見えます。

ここで言うピラミッド型社会構造は、これまでは効率性アップを支える基盤としてある程度有効でした。しかし、ひとたび今回のような災禍が世界を襲ったら、上意下達的な意思決定構造では、とてもとても間に合わない訳です。

そこで、思い切ってこうしたピラミッド型社会構造を、フラットで無駄のないネットワーク型社会構造に変える必要があります。

今回のコロナ騒動で、一部動きが出ておりますが、飲食店向けの食材をパックにつめて業者が直接消費者に売るというような形ですね。いわゆる中抜となるため、生産者にとっても消費者にとってもメリットがあります。この中抜がフラット化ということにもなります。

このことは、これまでのサプライチェーンをフラットに組み替えることを意味します。システムはいわゆるピアツーピア(個人同士がつながる)形となります。この個人同士、企業同士のトランザクションの信用を担保する技術が、ブロックチェーン技術ということになります。

今回の件でかなり進んだテレワークも、会社での指揮命令系統が一旦切れる形で業務が進行するという、新しいピアツーピアの働き方を示唆しております。

人が介在しない新しいテクノロジーは、いわゆる自動化技術です。例えば、自動運転連結トラックによって都市間を結び、ドローンで地域の各戸まで配達するというような、自動化技術ですね。
これなら、人と人との接触がないので、コロナウィルスが感染を拡げようとしてもできません。

そして、このようなフラットなネットワーク型の社会を実現するためには、エネルギーについては、自然エネルギーを主体とした地域での地産地消型システムへの転換。さらに、できるだけ個別の家単位でのエネルギー自給体制の構築です。停電があっても大丈夫な形ですね。

食についても極力地産地消体制に移行。そして食料は生産者と消費者が直接結ばれた、極めて効率的かつ新鮮・安全な食材の相互供給体制をつくるという方向になるかと思います。

医療や介護体制はもとより地域完結型に親和性を持っております。しかし、今回のコロナウィルスの研究のような件は、これは国だけ地域だけで完結する訳には行きません。世界中の研究者を縦横につなげた効率のよい研究体制が必須です。そこでは、いわゆる特許による一社の独占といった考えは排除されねばなりません。成果はいわゆる「公共財」になるということでしょうか。

いずれにしても、1つだけキーとなるテクノロジーを挙げるとするとブロックチェーンですね。

更に考えを進めて行きたいとは思いますが、筆者ももう72歳の無職の老いぼれです。いつ、コロナにやられてコロリと死ぬかも知れません。こういった未来社会をこの目で見ることは、叶わぬ夢かも知れませんね。。。

コロナの気持ちを忖度すると・・・ [2020年04月10日(Fri)]
14世紀半ばから15世紀にかけて大流行したペスト。当時のヨーロッパ全体の人口の3分の1を奪ったとされております。イングランドでは更にひどく、約半分の命が奪われました。(ウォルター・シャイデル著「暴力と不平等の人類史」2019年6月刊より。)しかし、このことは後から振り返ると単なる厄災だった訳ではありませんでした。それは以下の事実からも言えます。

1.急激な人口減少の結果、極端な人手不足が起こり実質賃金が3倍程度上がる一方、土地や作物の価格が下がりました。その結果、当時の労働者はたったの年に14週間働きさえすれば、家族に衣食住を提供することができたとのこと。(ソロル・ロジャーズーオックスフォードの歴史学者)
いわゆる人々の間の格差が極端に縮小したのです。

2.ペスト禍の相手を分け隔てない猛威を背景に、カトリック教会の権威が徐々に崩れ、後の宗教改革からルネサンスへと時代が大きく転換できたこと。つまり神から人間中心主義への転換です。

では、今回の新型コロナが人類と社会に突きつけたものとは何なのでしょうか?

戦後世界の隆盛?は、いわゆるグローバリズムとして行き着いたことはご承知の通りです。グローバリズムとは、端的に言うと、経済成長を極大化させるための世界各国の分業体制と言えますが、この分業体制は、実は平等な分業体制ではありません。資本・情報・テクノロジーを握った一部の先進国による、その他の国からの成長の果実の還流のみをもたらす分業体制であることはご存知の通りです。その結果の副作用として、先進国の内部における格差の拡大も同時にもたらしました。

このグローバリズムは、一方ではコストのかからないが故の地球資源の収奪の極大化=「環境破壊」をもたらしました。この環境破壊はいわゆる地球温暖化問題を引き起こしながら、植生の急変からの生物の生息圏の急激な変化を引き起こしました。このことが、今回の新型コロナという未知のウィルスをもたらした遠因です。

他方、グローバリズムは世界の国々の間での究極の分業体制により資本効率を最大に高めた結果、相互依存関係は抜き差しならないまでに「進化」しておりました。いわゆるサプライチェーンが典型例です。このサプライチェーンの良し悪しを決めたのは、いわば究極の経済的な効率でした。

このサプライチェーンを、新型コロナは意図せずにものの見事に断ち切ったのです。

こうなると物事は逆流・逆転し出します。このまま人と物の流通がままならなくなれば、水分と養分を断たれた木のように立ち枯れていくのは明らかです。

このグローバリズムは、いわば経済至上主義ですので、人々の交流についても、あくまでも貨幣価値に基づく経済的な利害の最大化を目指すための効率化が求められておりました。従って、逆に言うと貨幣価値に換算できない人々の交流は、グローバリズムの本質から言うと無駄なものと位置づけられていたのです。

ビジネスを通じた交流は、貨幣価値を最大化するために必須のものとされておりましたが、ビジネスに関係のない、つまり損得に関係のない、地域社会での人々の交流関係は不要なものと位置づけられ、段々と希薄化していったのです。

しかし皮肉なことに、このようなグローバリズムの本質が今回のコロナ禍によって逆照射されたようです。つまり、生活必需品の多くは世界中の人々の労苦によって生み出されているという、そのあからさまな事実です。

自分ひとりでは生活できない。多くの世界中の人々の日々の働きによって全てのモノとサービスは成り立っており、それが一人ひとりに届けられていること。人は一人では絶対に生きていくことができないこと、この事実です。

この意味で、今回のコロナ禍は悪いことばかりではありません。もう一度、世界中の人々、そして、もっと小さな単位の地域社会の人々の間で、経済至上主義からくる連帯ではなく、お互い同士を思いやる連帯に移行する契機を、新型コロナは与えてくれたのかも知れません。



碩学の本 [2020年03月31日(Tue)]
このところのコロナ騒動で、ちょいと困っているのが公共施設が閉鎖されていることです。筆者にとっての馴染みの公共施設は、町のトレーニングジムと図書館です。ちょうど閉鎖される直前に借りた本を読み終えても、閉鎖前にリクエストした他館所蔵の本も一向に届きません。

頭も使わず体も使わず、ひたすら家に閉じこもって免疫力をつけるための食事と睡眠を心がけよと、世間から強く言われておりますので致し方ありません。しかし、このいびつな生活は、何やら「出荷前の豚」に対して人間様が勝手に強要している生活と酷似しておりますね。

「太った豚になるよりも痩せたソクラテスになれ!」とは、その昔、某大学の卒業生に対するはなむけの言葉として有名になりましたが、今は、世間から「痩せたソクラテスになるよりも太った豚になれ!」と言われているようです。

一体全体、いつから、豚とソクラテスが逆転してしまったんだ??

そうは言うものの、この環境からの成り行きで太った豚になるのは仕方ないにしても、せめて痩せていないソクラテスを目指したいと思い、最後に図書館から借りた本の1つ、「社会学史」(大澤真幸著、2019年3月)の気になる箇所を再度読み始めました。

世の中には、こういう本を書く人がいるんですね。まさに碩学。以前から大澤真幸の本は数々読んできましたが、この本は実にスケールが大きく、体系的に思想・哲学の流れを社会学史という視点からまとめられております。

二度読んでも、論旨の流れを負うのが精一杯。この本に出てくる、まさに碩学の中の碩学のような人物に比べ、いかに自分が平凡で思慮がなく底の浅い人間であることか、改めて思い知らされております。

社会つまりこの世の中の成り立ちに対し、何らかの疑問を抱いている方に是非おすすめします。
利用者が結局収斂する理由は? [2020年02月15日(Sat)]
いわゆる「互助による輸送」を手掛けて2年半近く経過しました。

訪問型Dに準拠して「互助による輸送」を社会福祉法人所有のクルマを中心に、施設利用者への輸送の提供(福祉有償運送を含む)を手掛けている法人は多いと思いますが、全くの個人で行っているケースは、私が知る限りほとんどないように思います。

この間の様々な経験を通して、利用者とドライバーの関係のあるべき姿がおぼろげながら見えてきました。今日はその点について書いて見たいと思います。

まず、これまでもこのブログに書いた通り、この「互助による輸送」は、国交省のガイド(白タク排除の)により、利用者からは燃料費(+駐車代などの実費)以外の正式な収受は認められておりません。もし、これらの実費までもドライバー負担とするなら、公的な補助でもない限り、ドライバーの持ち出し(赤字)を毎回生み出すので、これは幾らなんでもありえないという事で、国交省も認めざるを得なかった訳ですね。

しかし、ここから先の話ですが、果たして実費だけ利用者から頂いて、見ず知らずの方に送迎サービスを行う人がいるでしょうか? 通常は家族とかご近所で顔見知りだとかの理由がない限り(この場合は、普通は燃料費も頂くことはないでしょう。)見知らぬ方に送迎サービスを無償で提供する個人は、まあ、いないでしょう。

そこで、国交省は「任意の謝礼」の収受はOKとの補足を付けました。これなら、ご近所を超えて地域での互助活動も活性化するのでは?との期待からでしょう。

しかし、あくまでも任意ですので、燃料費以外はビタ一文も出さない利用者に対しては、ドライバーも何も言うことはできません。これはやってみて分かったことですが、じわりじわりとストレスが溜まります。

何故か? 利用者の方に「利己心しかない」ことがあからさまに伝わってくるからです。ドライバーはいわば利他心から、地域で移動に困っている方に少しでもお役に立てればとの気持ちから、場合によっては待ち時間を含めて数時間も拘束されながら送迎活動を行っている訳ですが、そのいわば「善意」を逆手にとって、自らの利己心を満足させることだけを考える、その人間性とでも言いますか、あからさまなエゴイズムに、じわりと毒されてくるのが分かりました。

現にこうしたエゴイズムの塊のような方がいることにより、筆者も昨年秋にある病気を発症しました。この病気はストレスとか加齢(これも該当はします。)その他要因(これは該当なし)が関係すると言われております。近く、近くの専門病院で治療を受けるため1週間ほど入院できることになりましたので、その治療に期待しているところです。

このストレスの影響が分かってからは、そうしたエゴの塊のような方のうち、自力で普通に歩ける方は忌避するようにしていますが、不思議な現象があることに気が付きました。
それは、こちらが忌避したいと思う方から、何故か段々と送迎依頼の電話が来なくなったのです。

何故か? 人は、エゴイズムだけで、その方の深層心理状態においてですが、一方的な負担を相手にかけ続けることは出来ないのではないか、という思いに至りました。

分かりやすく言うと、「タダで運んでくれるのは嬉しいけれども何だか居心地が悪い気分」が心を占め、送迎依頼を気軽に行うことが出来なくなっている状態ではないかと思います。もちろん、このブログでも書いたような例外的な方はいます。

という訳で、エゴイストを忌避しだしてから、利用者数は、月間40−50名ほどに低下し、ほどよい感じで送迎活動が出来ております。いわゆるリピーターがほとんどを占める形になりました。
リピーターの方々は、何らかの謝意を具体的な形で表して頂ける方ばかりですので、非常に気持ち良く送迎活動が出来ております。

こうした送迎活動を個人でもやりたい方、このようなことも含めてノウハウ?を全てお教えしますので、是非メールでも電話でも結構ですからご連絡ください。こうした地域での互助活動がこれからの高齢化社会にはますます必要となります。その一歩を踏み出す勇気を持ってください。移動に困っている方は地域には無数にいらっしゃいます。
ギグ・エコノミーは何を意味するか? [2019年12月14日(Sat)]
最近、ギグ・エコノミーなる新語が世間を賑わせております。独立自営業者化が拡がった経済とでも言う意味になりますが、元々は、ジャズの演奏において、知らない演奏家同士が単発のライブを組むGIGという言葉から派生しているようです。

昔から、フリーランスとしての働き方は、特にデザインなどの個人資質に負うところが強い仕事ではありました。その個人としての働き方の部分だけ取り出し、いわば企業にとって固定費負担の少ない契約方法として、個人(=自営業者)との契約による経済性の追求の流れと相性が良いため、例えば、ウーバーなどのシェアリングエコノミー企業等を中心に拡がってきているようです。

この動きが果たして、これからの社会にとって、特に人が生み出す付加価値(社会全体にとっての)の向上に対して、本当に有効に機能するのかどうか、機能させるためにはどのような視点を加えることが必要なのかを見てみたいと思います。

まず、大きな流れを見てみます。

@終身雇用的な働き方の段階:
 
1企業内での正規社員の労働力の最適化が有効だった時代の産物。今でも、企業の中核的な先端技術開発分野では有効かもしれませんが、高度な技術革新が必要な分野を中心に、「企業内人材の高度化」だけでは競争に勝てない時代がますます進んでおります。

A企業内でのルーティンワーク中心に非正規雇用者の拡大の段階:

特に高度な技術を要しない、主に企業内の繰り返し業務については、コストの高い社員を派遣社員に置き換える動き。需要の変動弁としても便利。しかし、人を抱えるという点ではこれも過渡的な段階。

B上記の@とAをAIやロボティクス等の先端技術にて置き換える段階:

最初にAのルーティンワークを置き換え、徐々に@の先端技術分野にも浸透している段階。しかし、他社が開発した標準化された技術は、それがいかに高度なものであっても、競合他社もいずれ容易に導入できるため市場で勝ち抜くのは困難。

C働き手(正規・非正規)の「外部化」の段階:

Bの動きと同時進行しながら、働き手そのものを外部化する段階。(例:ウーバー&ウーバーイーツの運転手や運び手が典型。)ウーバーのドライバーは自動運転時代には不要となるがそれまでは必要。当然ながら、この段階での働き手はAのように企業内の非正規雇用者である必要がなく、コスト的にも個人契約で十分。働きによっては収入増になるという、偽りのインセンティブがまぶされていることが特徴。

この最後の段階をギグ・エコノミーと称している訳ですが、こうして過去からの流れを見てみると、この流れが行き着く先はおぼろげながら見えて来ます。

1つは、このギグ・エコノミー段階は過渡的なものだということです。いずれ技術的に置き換え可能な分野では働き手は不要となります。

更に見えてくることは、特に先端技術分野やデザインなどのアートの分野での外部化としてのギグ・エコノミーで、うまく市場競争に勝ち抜くことが出来るのだろうかという点です。

この観点から、極めて先進的な視点からアプローチしているのが、例えばソフトバンクグループです。

一言でいうと、ソフトバンクグループは出資企業の合従連衡により、人々の生活全般(通信、移動、金融、ショッピング等すべて)で、それぞれの分野で強みを持つ企業を束ねて(合従連衡させ)圧倒的な付加価値を付けようとしているように、筆者には見えます。

こうした動きの将来においては、例え天才的な能力を持った個人であっても、そうしたリーダー的な企業間の合従連衡が生み出す、圧倒的な技術力・ネットワーク力・イノベーション力に太刀打ちすることは極めて困難であり、結果、単なる一時的な消耗品と化するのではないでしょうか?

このソフトバンクグループのようなアプローチに対して、果たして対抗するアプローチはあるのか?

それは、ごく概略的に言えば、ソフトバンクグループのいわば「帝国的なアプローチ」に対して、「民主的なアプローチ」に徹することです。

帝国的なアプローチの弱点は、かつてのローマ帝国がそうであったように、皇帝の力(権威)にかなり依存していることです。それでも分権主義をローマ帝国は強く意識して進めたため、あそこまでの広範な帝国を統治出来た訳ですが、その統治の1つひとつの結び目(ネットワーク力と言ってもいいかと思います。)が弱かったため、強力に推進できた水道事業(ハードの極み)などは別にして、皇帝の権威に一旦ほころびが出ると瓦解するのも容易だったと言えます。

では、ソフトバンクグループに対抗するための民主的なアプローチとは一体どういうものであるべきか?

ヒントをいくつか上げると、一つは相乗作用です。もう一つは多様な組み替え効果です。いずれも、特定の企業群(ソフトバンクグループのような)内だけでは、その最大化に限界がありますが、これを地球的にかつ民主的に拡大すれば対抗できる可能性が見えて来ます。

例えば、リナックスの開発のように。

そのためには、かなり困難を伴いますが、地球上のあらゆる人的資源をその「都度」最適に組み合わせ、圧倒的な結果を生み出す仕組みを作り上げ、それを、民主的に人類に配分するという方向ですね。最適な組み合わせにおいては、今のAIなどの技術である程度容易になりますが、それを1つの企業グループの「成果」として「独占」させるのではなく、「民主的」に最適配分するための仕組みは、政治や国のあり方も関係しますので一筋縄では行きませんが、こうした志向をもって、小さな単位から試行錯誤を重ねながら進めていくのがいいのではないかと思っております。

中村哲さんを偲んで [2019年12月05日(Thu)]
ペシャワール会の中村哲さんが不慮の死を遂げました。
私も一時、アフガニスタンの人々の生活基盤そのものを1から作り上げるという彼の活動に共鳴を受け、ペシャワール会に寄付をしていたことがあります。まさかこのような形で死を迎えるとは思いも寄りませんでした。

一体、誰がこのような地を這うような地道な活動を行う人間に対して凶弾を向けたのか?

今日の東京新聞を見て、改めて彼の活動のすごさを知りました。

★誰も行かないところにこそわれわれに対するニーズがある。

これは、「誰もやらないことにこそ、我々に対するニーズがある。」とも言い換えられるでしょう。

★彼ら(アフガニスタンの人々)はわれわれの情熱のはけ口でもなければ、慈善の対象なのでもない。日本人と同様、独自の文化と生活意識をもった生身の人間だちなのである。

限りなく、アフガニスタンの人々が置かれた現状に対する共感意識が高い言葉です。

私が行っている互助移動支援活動についても、ある時から、ボランティア活動と呼ぶのは止めました。もちろん、慈善活動でないとも書きました。この中村哲さんの語録を読んで、すっきりとした気分です。

互助移動支援の対象は、身近な同じ日本人(或いは日本に住む人)です。たまたま、図らずも生活上の不便(移動)を抱えてしまっている方々です。しかし、移動しなければこの社会では人は生きていけません。そこに切実なニーズがあります。にもかかわらず、行政はもとより、地域の団体などは、必ずしもそうしたニーズに応えておりません。ましてや、このような「持ち出しの面倒なこと」にかかわろうとする個人は、私の住む町も含め今のところゼロです。

ボランティア活動を行っている人々はたくさんいらっしゃいます。ですが、そうした方々に声をかけても、この互助移動支援活動については賛同はして頂けるものの、ご自身が積極的にかかわろうとする方は、不思議なことに皆無です。ニーズはいっぱいあるのは皆さん分かっていらっしゃいます。でも、ご自分からはどういう訳か動かない。

これは一体どういうことか?、何が中村哲さんを動かしたのか?中村哲さんの語録を読んでこの思いを新たにしました。
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